十二話 前代未聞のお披露目会(上)  セルミアーネ視点

「ミアと出会って私の人生は狂ってしまったのよ」


 というのは私の妻、ラルフシーヌの口癖だ。私をからかう時に良く言うので別に後悔しているとか、嘆いているという訳では無い様だ。


 というか私に言わせれば、私の方こそラルフシーヌに出会って人生が大きくねじ曲がったと思う。良い方に。


 その年の成人のお披露目の際、私、セルミアーネ・エミリアンがカリエンテ侯爵令嬢ラルフシーヌ様のエスコート役になったのは全くの偶然である。くじ引きの結果だから純粋に運だ。言い方を変えれば全能神のお導き。あの時引いたくじ紐に違う本数の線が引いてあれば、私はラルフシーヌの手を取る事は無かったのである。


 当時私は16歳。13歳で成人して、騎士見習いになり、16歳で一人前の騎士に任命されていた。その年の初々しい少年騎士の最初の任務が、成人を迎えたご令嬢のエスコートだった。騎士の任務には皇族や高位貴族を護衛する事も含まれるので、令嬢のエスコートはその練習に丁度良いのだ。そのため、毎年正騎士になったばかりの者がこの役目を仰せつかるのである。ただし生意気盛りの少年騎士たちは自分たちの事を棚に上げて「子守かよ」なんて言っていたが。


 私がくじ引きでカリエンテ侯爵令嬢を引き当てた最初の感想は「大変そう」だった。何しろ侯爵令嬢だ。上位貴族令嬢だ。恐らく甘やかされて育った高慢な令嬢に違いない。私の身分は騎士で貴族としては最低階級だ。我儘を言われても無理やり止める訳には行かない。身分を笠に着て無理難題や暴力を振るわれるかもしれない。その場合でも一介の騎士には抵抗も出来ないのである。私は若干憂鬱な気分で当日を迎えた。


 帝宮本館のエントランスホールで彼女を初めて見た時の事を私は鮮明に覚えている。


 カリエンテ侯爵が到着したと聞き、私はエントランスホールに行った。侯爵閣下はすぐ分かった。何しろ今回のお披露目の最上位だ。多くの人が挨拶に集まっている。そこに地味な紺色のドレスを着た少女がいた。あれが令嬢だろう。


 私が近付くと彼女が機敏な動作で振り向いた。視線が合って、私は一瞬呼吸が止まった。


 おとぎ話に出てくる妖精かと思った。非現実的なまでに美しい少女だった。


 長く艶やかな銀色の髪。少しの癖も無いそれは半分を緩やかに結われ、残りは背中に流されていた。水晶を磨いたかのような頬。一部の隙もなく精緻に配された鼻と唇。そして大きくて意志の強そうな金色の瞳。しなやかな手。柔らかな曲線を描く肢体。真っ直ぐに立ったその姿は輝くような圧倒的な存在感を放っていた。近付くのが憚られるほどだ。


 私を見つめる金色の視線。その表情は貴族らしい作り笑いはなく、無表情というか警戒心を露わにした表情だった。やはり我が儘令嬢で、騎士のエスコートは不満なのだろうか。こんな美しい令嬢なら高位貴族の男性に社交でもて囃されているに違いない。機嫌を損ねたら何をされるか分からない。私は内心の畏れを微笑みで押し隠して彼女の手を取った。


 ところが、そんな心配は杞憂だった。すぐに彼女は貴族らしからぬ楽しげな表情になり、私にエスコートされるというより手を繋いで振り回しながら、帝宮の広い廊下をキョロキョロ見回しながら歩いていた。何かおかしい。


「ラルフシーヌ様は帝宮は初めてですか?」


 と尋ねると貴族としては有り得ない程率直な返答が返ってきた。


「そうよ。というか、帝都にも初めて一か月前くらいに来たの」


 どうやら事情があって領地で育ったらしい。それで礼儀作法が全然出来ていないのだろう。何しろ自分の事を愛称で呼べと言い出すのだ。貴族女性が愛称を許すのは家族か大変親密な相手に対してのみなのに。


 それどころか会話をしていると、狩りがしたいなどと言い出す。帝都に隣接した森の話をすると目を輝かせ太陽の様に笑った。こちらの目が潰れかねないほど可愛い。


 がその可愛らしい唇から出てくるのは物騒極まりない発言の数々だった。何しろ熊を狩りたいと言い出したのだ。


「く、熊?ラルフシーヌ、ラル様は熊も狩るのですか?」


「ラルだけで良いわよ。赤い毛の大熊までは狩ったことがあるの。弓矢でね。黒い小さな熊なら槍で刈ったことがあるわ。灰色の毛の大熊は赤い毛の奴より大きいって聞いてたから、いつか狩ってみたいのよね」


 眉唾な話だと思った。赤い毛というならレッドベアーだろう。あれは騎士が最低でも五人掛かりで立ち向かう事を推奨される大害獣だ。一人で倒したら勲章ものである。それをこんな可憐な少女が狩れるとは思えない。ちなみに灰色の毛の大熊はキンググリズリーといい、騎士が最低十人いなければまず勝てないという超巨大害獣で、村一つ滅ぼしたケースすらあるほとんど災害のような生き物である。


 だが、ラルフシーヌの目はキラキラと輝いて本気も本気であると訴えていた。それどころか夢見るような瞳で竜も狩ってみたいと言い出した。竜といえば生ける伝説のような存在で、ほとんど目撃されたことすらない伝説の大害獣である。小山の様な巨体で空を飛び、火を吐くというのだから生き物であるかも怪しい。だが、実際に街を襲った例もあり、数年前にはキュアンという街を半日で灰燼にしたという。間違っても狩りの獲物ではない。


 私が少女の妄想をたしなめる気分で忠告していると、ご機嫌になっていたラルフシーヌが突然言った。


「聞いてるわよ、え~、セルミアーネ。めんどくさい。ミアでいい?」


 私は驚いた。私はそれまで愛称で呼ばれたことが無かったからだ。私の名は父が付けてくれたのだが、母はその事を喜び、誇りとし、自分も使用人にも私の名を縮めて呼ぶ事を許さなかったのだ。私は自分の名が女性的な響きを持つ気がしてそれほど好きでは無かったが。


 ミアとはまた女の子みたいな呼び名だ。縮めるならセルでも良かろうと思うのだが。どうしてミアなのか。後日聞いてみたが特に理由は無かったらしい。フィーリングだ。


 女性的な名を嫌っていたのに、より女性的な愛称を付けられてしまって私は苦笑したが、不思議と嫌な気分では無かった。


「はぁ。良いですよ。ラル。あなたは本当に面白いお嬢様みたいですね」


 ラルフシーヌはどうやら帝都に来てから狩りが出来ないせいでフラストレーションを溜めていたらしくたまに訓練がてら狩りをする事もある私と狩の話が出来て大変喜んでいた。そのため、本来は静粛であるべき控えの間でものべつ幕な無しに話し続けてケラケラと笑って大注目を集めていた。これで彼女が身分低い令嬢であったら、上の身分の者に睨まれるところだが、あいにく彼女はこの場で最上位の侯爵令嬢だ。止める者は誰もいなかった。


 やがて時間が来て謁見室に入る。かなり大きな謁見室で、青い絨毯がまっすぐに伸び、その左右を成人を迎える令息令嬢の親である貴族が埋め尽くしていた。単なるエスコートである私でも怖気付きそうになる厳粛な空間で、実際令嬢の中には足がすくんで動けなくなっている者もいた。


 だが、ラルフシーヌは鼻歌を歌っていた。豪胆にも程がある。来賓の人々が拍手をすると手でも振りそうなほどご機嫌な表情を見せた。その麗しいがあからさまな笑顔と、貴族にあるまじきスタスタした歩き方にその場の誰もが呆れていたが、ラルフシーヌは全く気にしていなかった。私はそれを見ながら複雑な気分を抱いていた。


 彼女は侯爵令嬢という高貴な身分である。実際、この日成人する者の中で最も身分が高い。しかし、身分が高いからこそ、彼女には責任が求められる。高貴なる者は他の手本となるような振る舞い、規範となるような行動が求められる筈だ。


 しかし、彼女は侯爵令嬢にふさわしい振る舞いが出来ていない。侯爵令嬢としての責任を自覚していない。彼女自身の人柄は好ましいが、貴族としてそんな事で良いのだろうか?私は釈然としない思いを抱いていた。




 私は現皇帝陛下の庶子として生まれた。


 母は現皇妃陛下の侍女で腹心だったそうだ。皇妃陛下にお仕えしていて、皇帝陛下の目に留まり、ご寵愛を受け、私が生まれた、


 母は皇妃陛下の忠臣で、それなのに皇妃陛下を裏切る形で皇帝陛下のご寵愛を受けてしまったと、その事を一生の後悔としていた。そのため、愛しい男の子であり裏切りの象徴でもある私に、かなり複雑な感情を持っていたようだ。母は私に常々こう言った。


「貴方は皇帝陛下の血を引く者です。皇帝陛下のお名前に恥じぬように誇り高く生きなければなりません」


 一方で、母は皇帝陛下の愛妾になった時にエミリアン伯爵位を賜っていたが、帝宮を下がる時に返上し、両陛下が懸命に説得したために元々持っていた子爵位のみを保持していたのだが、母は私にその位を継がせ無いと言った。


「あなたは一騎士になるのです」


 母は繰り返し私にそう言った。


 騎士は、貴族子弟で親の位を引き継げず分家も興せない者がなる、貴族ではあるが貴族未満と見做される貴族階級の最底辺である。基本的には一代しか認められない地位で。子供には引き継げない。


 つまり私は皇帝陛下の庶子で子爵家の嫡男でありながら貴族階級の最底辺になる事を強制されたのである。母は言った。


「皇帝陛下の血を引いてはいても貴方は皇子ではありません。そして皇帝陛下の血を引く者に子爵位を継がせるわけにはいきません。貴方は一代で家が消える騎士となり、皇帝陛下にお仕えしなさい」


 母の矛盾した思いが今の私には少し理解出来る。しかしながら子供だった私にとって母の言うことは理不尽そのものだった。皇帝陛下の血を引く事を自覚し、誇りを持てと言われながら。貴族として最底辺の地位である騎士になれと言われるのだから。


 まして皇帝陛下と皇妃陛下は母の屋敷に頻繁にいらして、母と私に帝宮に戻ってくるように言い、私を我が子のように可愛がってくれた。


「貴方も皇子なんですよ」


 と皇妃陛下は何度も仰ってくれた。しかし両陛下がお帰りになると、母は私を睨んで言うのだ「貴方は皇子ではありません。勘違いしてはなりません。皇妃陛下のお子と同列に扱われるなど許されない事です」


 兄である皇太子殿下がいらして遊んでくださった時など、私は嬉しくて殿下に飛び掛かり、投げられたり転がされたり楽しく遊んだのだが。母は怒った。


「皇太子殿下に飛び掛かるなど不敬です。貴方はあの方の弟では無いのです!」


 そう言って私の頬を平手で叩いた。


 10歳を迎えた頃には私は両陛下や皇太子殿下に臣下として振る舞うことを強制された。それまでは皇帝陛下をお父様。皇妃陛下をお妃様、皇太子殿下を兄上と呼んでいたのを陛下、殿下と呼ぶように直されたのだった。両陛下と殿下は悲しんだが母が怒るので仕方がなかったのだ。


 母の複雑な心を垣間見た事がある。両陛下と殿下をお見送りした後、去ってゆく馬車を見つめながら母はポツリと呟いたのだ。


「あの方達は、帝国を背負っているのです。自分を殺し、私情を捨て、全てを全能神と帝国に捧げているのですよ。皇族というのはそういう存在です」


 そして悲しそうに微笑みながら私の頭を撫でた。


「貴方を、そうしたくは無いのです」


 母は、私が12歳、つまり成人を迎える前に亡くなった。病ではあったが床についてほんの数週間で亡くなる急死で、皇帝陛下と皇妃陛下が危篤を聞いて駆けつけてきた時にはもう亡くなっていた。


 皇帝陛下も皇妃陛下も泣いていた。お二人が泣くのを見たのは初めてだった。私の事を代わる代わる抱きしめ、母の名を呼んでは泣き崩れていた。


 母の葬儀は皇帝陛下が手配して下さってつつがなく行われた。そして、私は帝宮に招かれた。そして両陛下に笑顔で迎えられ、成人のお披露目のタイミングで。皇子として公表しようと言われたのだった。それを聞いて私はゾッと背筋が寒くなった。


 母が死んでいく日も経っていないのである。あんなに母の死を悲しんでいたお二人が。母が私を皇子としない意向だった事を十分お二人とも知っているにも関わらず、まるで母の事を無かったかの様に私を皇子にしようと言い出したのである。


 驚く私に両陛下は言った。今、皇族には皇子が皇太子殿下しかいない。紛れも無く皇帝陛下のお子である私が皇子として認められれば、皇族の将来の不安がかなり解消される。私たちの養子として皇位継承権二位の地位を与えたい。と。


 母の言った、帝国のために自分を殺し、私情を捨てるというのはこの事なのだろう。母の屋敷に来て私と母を愛してくれたお二人の姿はそこには無く、帝国のために帝国と皇族の未来のためにという事を何よりも優先する皇帝陛下皇妃陛下の姿がそこにはあった。


 もっとも、今にして思えば、両陛下はけして完全に私情抜きで私を皇族にしようとしたのでは無く、母がいなくなって天涯孤独になった(母は公妾になった時に皇帝陛下に迷惑を掛けたく無いと実家との縁を切っていた)私を不憫に思い、家族に迎え入れようという考えもあったのだと思う。ただ私が母を急に失ったショックで弱った判断力で偏った受け取り方をしてしまったのだ。


 そのため、私はこの話をお断りした。母の意向通り騎士になると言い張った。両陛下は驚き悲しみ何度も翻意を促したが、結局は私の意向を尊重して下さった。ただ、皇帝陛下は私に「皇太子に子供が出来なかった場合は、皇族に復帰して欲しい」と言われた。皇太子殿下はお妃様が出産事故で亡くなってしまってから妻を迎えておらず、お子も無かったのだ。ただ、皇太子殿下はまだお若い。皇帝陛下もお元気だし後継者を考えるには早過ぎる。ただ、皇帝陛下はこの条件を飲めない場合は無理やりにでもすぐに皇族にすると言われた。私は仕方無く了承した。


 私は騎士になり、銀の指輪を授かった。騎士はお披露目式には出ない。騎士団長から手渡されただけだ。ただ、騎士団長は私の事を皇太子殿下に聞いて知っていて、複雑そうな顔をしていた。


 皇太子殿下は顛末を聞いて大笑いしていた。そして「無駄な事だ」と仰った。そして「騎士ならば強くならなくてはな」と仰って、私を騎士として鍛えてくれる様になった。殿下は一日に一度は騎士団の訓練に参加して有望な騎士を鍛えていたから。私は羨ましがられこそすれ、不思議に思われることもなく、殿下と交流出来た。


 皇帝陛下も猛将だったそうだが、殿下も大変に強い騎士であり、若い騎士の憧れだった。私も容赦なく打ちのめされたが、なんとなく幼い頃に遊んでもらった思い出が蘇って嬉しかったものである。ある時、私は言った。


「殿下はお強いですね。凄いです」


 すると、殿下はいつも朗らかに笑っていられるものを、少し苦い笑いに変えて仰った。


「皇帝になるには、強いだけではダメだがな」


 その時の私には殿下が何をお考えになっていたのか、知る由もなかった。


 私は殿下が好きで、尊敬していた。だから殿下が次代の皇帝陛下になるのを全力でお助けしようと思っていた。私は一騎士として殿下をお助けしよう。そのためには殿下が次代を継ぐ時の不安要素になりかねない異母弟である事は隠し通さなければならない。


 私は次第に、自分は一騎士である、という強い枠のようなものを作って、そこからはみ出さないように生きることを心がける様になった。何かあるごとに「一騎士なのだから」と必要以上に身分に拘り、身分不相応な事を避ける様になったのである。母の遺した屋敷を出て騎士寮に移り、服装も騎士階級の平均に合わせ、目立たぬように騎士の競技会のようなものではわざと早く負けた。出征に志願することもしなかった。


 今考えると、このように騎士の身分に拘って生きる事で私は視野をどんどん狭めてしまっていたのだった。自分は騎士なんだから騎士で終わるのだから特別な事をしてはいけない。考えてはいけない。そうやって生きるのはある意味楽だった。


 そんな私にとって。侯爵令嬢の枠に全く当て嵌まらないラルフシーヌは全く理解が出来ない存在であった。侯爵令嬢ならこうあるべきではないか、という私の理不尽な憤りは、ラルフシーヌの行動によって跡形もなく吹き飛ばされる事になる。



 皇帝陛下がご光来なさり、最初にラルフシーヌが呼ばれた、彼女は跳ねるような足取りで階を駆け上がった。私はもう彼女の不作法には慣れたので苦笑しながら追い掛けるだけだった。エスコート役に意味が無くなっている。


 しかし階の上で彼女はちゃんとスカートを摘んで淑女の礼をしてみせた。そして長い誓いの言葉を澱みなく暗唱してみせた。皇帝陛下と皇妃陛下の指にキスをして私の横に戻って来て、私を見上げてニッと得意気に笑わなければ完璧だった。後は横に控える内務大臣から指輪を貰うだけ、だったのだが・・・。


「カリエンテ侯爵の六女だったか?今まで見たことが無いような気がするが、帝都にはいなかったのか?」


 突然、皇帝陛下がラルフシーヌにお言葉を掛けられた。その場にいる全員が硬直する。後で聞くところによると、他ならぬ私がエスコートしている最上位の令嬢が、非常に楽しげにしているのでつい声を掛けてしまったらしい。


「ええ、そうよ」


 ラルフシーヌの答え方に私は仰天した。不敬過ぎる。


「ラル!」


 私は嗜めたが、その事がかえって両陛下のお気を引いてしまった様だった。


「さっきそこの者が愛称で呼んだようだが、以前からの知り合いか?」


「え?ミアですか?さっき初めて会いました」


 ラルフシーヌの答えに皇帝陛下が堪えきれずに笑い始めた。式典の場で皇帝陛下が笑うなどあり得ないことだ。私は呆然とした。だが、ラルフシーヌは皇帝陛下達が笑ったことで親しみを覚えてしまったらしく、ニコニコと可愛く笑いながら陛下の質問に答えている。


「さっき会ったのに愛称で呼び合う程親しくなったのか?」


「え?普通じゃ無いんですか?家の辺りでは会って気が合えばすぐに愛称を教え合うんです」


「という事は気が合ったのか」


「ええ。狩りの話で仲良くなったのよ」


 両陛下は楽しそうに笑いながら、公的な場では絶対に出さなかった私への親愛に満ちた口調で仰った。


「そうなのか?『ミア』?」


「其方にそのような可愛い愛称があるとは初耳ですね」


 私は聞こえないフリをして返事をしなかったが内心驚いていた。皇帝陛下と皇妃陛下は公的な場では私人よりも皇帝陛下ご夫妻である事を優先される。それこそ私情は完全に捨てられる方達だ。皇太子殿下にすら公的な場では私的な接し方を絶対にしない。


 それなのにこんな場で私に親愛の情を示された。あり得ない事だし、本来あってはならない事でもある。まして私は公的には一騎士に過ぎない。庶子であることはバレてはならないのだ。


 ラルフシーヌの天真爛漫さが、両陛下がご自分達に科していた制限をうっかり踏み越えさせたのだろう。私は階を駆け降りる彼女を追いながら、なんというか、彼女の大きさに圧倒され始めていた。まぁ、侯爵閣下は我が娘の皇帝陛下の前での振る舞いに卒倒しそうになっていたけれど。


 大広間に場所を移して、お披露目の宴が始まった。のだが我らがお姫様ラルフシーヌにとってそれは退屈極まりないものである様だった。つまらなそうな顔をして挨拶に来る者達からの賞賛を聞き流している内はまだ良かった。彼女は私にコソッと囁いた。


「なんとかして。駄目なら一人で脱走するわ」


 と、お嬢様としてあり得ない事をおっしゃる。だが私はラルフシーヌに慣れ始めてしまっており、カリエンテ侯爵に彼女が席を外したい旨を告げてその場を抜け出した。本来、令嬢をトイレに連れて行くことなどエスコート役の騎士がする事ではないのだが。


 喜ぶ彼女を私は窘めた。成人したのだから嫁入りのためにも社交は大事なのだと。すると彼女はあっけからんと言った。


「大丈夫大丈夫。私は領地で嫁に行くつもりだから」


「領地に貴族がいるのですか?」


「いないから、平民に嫁入りするんじゃない?よく分からないけど」


 私は唖然とした。


「侯爵令嬢が平民に嫁入りですか?」


「多分ね。私もその方が気楽で良いわ。あんまり弱い男の嫁にはなりたくないけどね」


 これは後で聞いたことだが、ラルフシーヌを侯爵令嬢として教育する予算がなかった侯爵家は、ラルフシーヌを領地に送り平民として生活させ、平民の有力者に嫁入りさせるつもりだったのだという。


 私の衝撃は深かった。ラルフシーヌは自分には貴族の自覚が無いのだと言うが。こうしてお披露目に来ている以上、自分が侯爵令嬢だと言うことは知っている訳である。しかし、彼女はその地位に何の拘りも無いらしい。平民のが良いと平気で言うのだ。


 彼女の立場は私に似ている。私は皇帝陛下の庶子だが、騎士になるように母に言われて騎士になった。ラルフシーヌは侯爵令嬢だが、親に言われて平民として育った。似ているのだが、何かが違う。私は騎士の身分になった事によって騎士の身分に押し込められそうになっているのに、ラルフシーヌは平民として育てられた事で身分を超越しようとしている様に見える。


 彼女を見ていると、何だか大事なことに気が付けるような気がした。その美しい金色の瞳には何が見えているのだろう。


 その事がはっきりと分かったのはこの直後、ラルフシーヌがその本領を(本人曰く少しだけ)発揮した時の事であった。


 

 



 


 




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る