八話 セルミアーネの秘密
全てはセルミアーネの母であるフェリアーネ様が現皇妃陛下であるコラナムール様の侍女になった時に始まった。侯爵令嬢のコラナムール様が皇太子妃として入内した時に、子爵家の三女だったフェリアーネ様が侍女に付けられたのである。
コラナムール様は当時15歳。フェリアーネ様も同じ歳だった。二人は非常に仲良くなり、主従の枠を超えて親友同士になられたのだという。現皇帝陛下であるライリーム様は二つ上。当然この頃からフェリアーネ様の事はご存知だったが、この時にはまだ恋愛関係には無かった。
フェリアーネ様は皇太子妃として帝宮で頑張るコラナムール様を献身的に支え、それこそ自分の縁談を全て蹴ってコラナムール様にお仕えしたのだそうだ。その甲斐あってコラナムール様は22歳で無事に皇妃陛下に即位された。フェリアーネ様は長年の献身を評価され、帝宮内宮の侍女長に任命され、子爵夫人の身分を賜ったのだという。本当は伯爵夫人、いや、侯爵夫人という話もあったのだが、フェリアーネ様が固辞なされたのだという。
コラナムール様は16歳で第一子の皇子、20歳で第二子の皇子、25歳で第三子のこれまた皇子をお産みになった。皇子が三人だ。皇室はこれで安泰。そう考えて良いところだったろう。ところが、これがそうは上手くは運ばなかったのである。
まず、第二皇子が7歳の誕生日前にお亡くなりになる。病死であった。まぁ、子供が成人前に亡くなる可能性は貴族の子女でも低くは無いから、仕方が無い事ではある。私の兄姉が全員成人を迎えられたのが非常に稀な事なのだ。皇帝陛下も皇妃陛下も大変嘆き悲しまれたが、皇子はあと二人もいる。第一皇子は健康に育って、しかも父親である皇帝陛下に似て武勇にも優れていて、成人と同時に立太子もされた。非常に優れた皇子だったそうで、将来を嘱望され、帝国は安泰だと誰もが思っていた。
ところがこの皇太子殿下が16歳で出征した戦場で命を落とされるのである。事故のような討ち死にだったらしい。
帝国には大衝撃が走ったらしい。ちなみに私はまだ生まれてさえいないからもちろん知らない。皇太子を失った帝国そのものもそうだが、最愛の息子を失った皇帝陛下と皇妃陛下の衝撃は深く、お二人は絶望のあまり床につかれた程だったという。
皇帝陛下は安易に皇太子を出征させた事で自分を責め、一時は退位を口にされる程絶望されたらしい。皇妃陛下も悲しみのあまり床につかれており、皇帝陛下をお慰めし、励ます事が出来なかった。
その皇帝陛下を叱咤激励したのが侍女長だったフェリアーネ様だった。彼女は時に強い言葉を使って皇帝陛下を励まし、慰め、献身的に支えられた。おかげで皇帝陛下は何とか気持ちを立て直し、皇太子殿下の復讐戦にも完勝し、帝国は動揺から立ち直る事が出来た。
その過程で皇帝陛下はフェリアーネ様と情を通わせる事になったのだという。皇帝陛下はフェリアーネ様に深く感謝し。フェリアーネ様も皇帝陛下を大変尊敬なさっていたので、程無く関係は深く親密になったらしい。
皇帝陛下は彼女との関係を不義の関係にしておくつもりは全然無かったらしく、ようやく少しお気持ちを立て直された皇妃陛下に相談したのだそうだ。愛人の存在を妻に打ち明けるというのは良く分からないが、皇妃陛下はむしろ自分が倒れている間に皇帝陛下をしっかり支えてくれたフェリアーネ様に深く感謝していて、彼女が皇帝陛下の愛情を受けられたことを誰よりも喜んだらしい。そして、皇妃陛下の公認で、フェリアーネ様は皇帝陛下の公妾になられた。この時フェリアーネ様は32歳。エミリアン伯爵位を賜り、引き続き侍女長を務めながら皇帝陛下のもう一人の妻となられたのだった。
ただ、フェリアーネ様は皇妃陛下の忠臣でありながら、皇妃陛下がご病気の間に皇帝陛下の御寵愛を賜った事に忸怩たる思いを抱いていたらしく、帝宮で侍女長として振る舞い、けして自分が愛妾である事はひけらかさなかった。常にお仕着せを着て、賜った離宮もお断りし、使用人部屋に住み続けたのだという。こういう頑なな所はやはりセルミアーネのお母様だわね。
フェリアーネ様は程無くご懐妊になり、月満ちて御子が生まれた。それがセルミアーネだ。
御子の誕生を皇帝陛下も皇妃陛下も大変お喜びになったという。亡くなられた御長男の代わりの意味合いもあったし、あと一人、三男の新たな皇太子様しかいなくなってしまった皇族の次代にもう一人加わるというのは大きな意味があったからだ。直ぐに皇帝陛下はセルミアーネを皇族として認知し、黒い指輪を与えた。そして成人したら皇子として公表しようと言われたそうだ。
ところがフェリアーネ様は産後の身体が癒えると、帝宮から下がる事を申し出られたそうだ。皇帝陛下も皇妃陛下も大いに驚き、翻意を促したが、フェリアーネ様の決意は固かった。皇帝陛下は仕方なく私達が今いるこのお屋敷をお与えになり、フェリアーネ様とセルミアーネは帝宮を去った。この時に帝宮の侍従と侍女だったハマルとケーメラがフェリアーネ様に付けられたのだった。
皇帝陛下も皇妃陛下もフェリアーネ様と離れる気は全然無く、お屋敷に何度も何度も足を運ばれたそうだ。無論、お忍びでだが。セルミアーネも子供の頃から両陛下に可愛がられ、義理のお兄様に当たる皇太子殿下も良くいらしていたそうだ。だが、フェリアーネ様は事ある毎にセルミアーネにこう言い聞かせていたのだという。
「あなたは皇帝陛下の血を引いていても皇子ではありません。ゆめゆめ勘違いしないようにしなさい。あなたは帝国の一騎士として、皇帝陛下を一生お支えしなさい」
絶対に皇子として振舞う事が無いように厳しく指導教育され、10歳の頃には皇帝陛下と皇妃陛下、そして皇太子殿下に対する時には臣下として振舞うように強制されたそうだ。それは偏執的なまでに徹底していて、皇帝陛下ご一家に馴れ馴れしい態度などすれば厳しく折檻すらされたらしい。
セルミアーネも事情を知るにつれて、確かに自分が皇族であると主張するのは良くないと考えたらしい。皇太子殿下に母親違いの弟がいるなどという事になれば、次代の皇位争いの原因になる可能性があるからだ。勿論、皇太子殿下は歳も離れていてその当時は健康だったのだそうだが、18歳の時にお迎えしたお妃様が最初の御子を身ごもられた時に運悪く死産、ご本人もお亡くなりになられてしまった。それ以来現在に至るまで妻がおらず、子供もいない。8歳下のセルミアーネが皇太子さまの次のとして担がれる可能性は無いとは言えなかった。
というか、お妃様を亡くされて以来結婚したがらなくなった皇太子殿下は「私の下にはセルミアーネがいるからな」と暗にセルミアーネを後継者にする意向を示されていたらしい。皇太子殿下はセルミアーネを騎士として鍛えてくれていて、事情を知る騎士団長にもセルミアーネを厳しく鍛えるように申し付けていたそうだ。
セルミアーネはお母様のご意向と、自分の判断で、自分は皇族ではなく一騎士として生きて行こうと決めたそうだ。そんな中、セルミアーネ12歳の時にフェリアーネ様がご病気で亡くなられてしまう。皇帝陛下と皇妃陛下のお嘆きは相当なもので、セルミアーネを抱き締めて泣き続けたそうだ。皇帝陛下と皇妃陛下はセルミアーネをご養子にして正式に皇子とするご意向だったようだが、セルミアーネがこれを固辞。13歳のお披露目を一騎士としてしてくれるように頑強にお願いしたのだそうだ。フェリアーネ様譲りの頑固さに皇帝陛下は折れて、セルミアーネを一騎士とする事に同意して下さった。
だが、皇帝陛下は一つだけセルミアーネに約束させたのだという。
それは皇統が途絶えそうになった時には、セルミアーネに皇室に戻ってもらうという約束だった。これは皇太子殿下が亡くなられた時というよりは、皇太子殿下にお子が出来なかった時のための話だったらしいが。皇太子殿下の系譜が途絶えれば、皇室の正統が絶えてしまう。それは確かに重大事だ。セルミアーネとてそんな事態は望まない。セルミアーネは了承した。ただ、この時は皇太子様は健康でまだ若く、お妃様を失った悲しみが癒えれば新たな皇太子妃を迎えるだろうと予測されており、実際縁談も多数あったので、セルミアーネは活用されないだろう約束だと思っていたらしい。
ところが皇太子殿下は昨年冬からにわかに体調を崩された。セルミアーネは心配していたようだが、まさかここまでお悪くなっているとは思わなかったらしい。今回、皇帝陛下からのお手紙で事情を知って真っ青になった訳だ。しかしながら皇帝陛下とは確かに約束をした。それ故、今回の皇族入りを決断したのだそうだ。
・・・ここまで聞いて私はちょっと呆然とした。よくもまあ、今の今まで私に秘密に出来たものだ。いや、私がちょっと鈍いのは兎も角として。つい昨日までセルミアーネの生活や態度は完全に一騎士のそれで、家計に悩むところや庶民服を着て一緒に市場に出かけたり、狩りに出掛けたりするところは平民的ですらあった。まさか皇族とは思わない。しかしそれはそれとして、私は腹が立って来た。
「・・・どうして私にこの事を今まで言わなかったの?」
私、妻なのに。奥さんなのに。旦那の事を知らな過ぎではなかろうか。それもこれも彼が秘密にしていたからだ。奥さんに隠し事をするってどうなのよそれ。夫婦の信頼関係はどうなっちゃうのよ。私はむむむむっとセルミアーネを睨む。彼は私の目を見ながら、至極真剣な口調で言った。
「一生、隠し通すつもりだったからだ。墓場まで持って行くつもりだった」
・・・なんという固い決意であろうか。最愛の奥さんにまで隠すのだから、どこの誰にも話す気は無かったのだろう。そもそも、私を娶る時に自分が皇族である事を打ち明けていればお父様は仰天しただろうが、まず間違いなく簡単に私を勝ち取れたはずだ。しかし彼はそうしなかった。あれほど執念深く、資産のほとんどを投げ打つ真似して私に求婚したのに、自分の生まれを利用しなかったのである。その一事を見ても確かにセルミアーネは自分の生まれを誰にも、私にさえも隠し通すつもりだった事が分かる。
「私は兄上がいる限り皇族にはならないのだから、つまり一生皇族にはならず、そんな事は誰にも、ラルにも言う必要は無いと思っていたんだ。私は騎士として兄上を皇統を支え、一生を終わるつもりだった」
「どうしてそんなに皇族になりたく無かったの?」
「なりたく無かったのではなく、なってはいけないと思っていたんだよ。母は常々『自分は皇妃陛下に多大な御恩を受けた。その私の子であるあなたが皇妃陛下の皇子と同列などおこがましい』と言っていた」
母親の考え方、価値観というのは子供にとって呪いのようなものだ。幼少時から強く言い聞かされればそういうものだと思い込む。セルミアーネの考え方にはフェリアーネ様の多大な影響を感じる。
「そして、私も兄上を尊敬していたし、次代の皇帝である兄上の御代を騒がせるような真似はしたく無かった。結局私が皇族にならずに一騎士としてお仕えするのが一番だと思ったのだ」
かなり突っ込み所満載の考え方だが、セルミアーネは頑なに信じているようだった。私は溜め息を吐きつつ言った。
「皇帝陛下ご夫妻や皇太子殿下は何度も貴方に皇族になって欲しいとお願いしたんじゃないの?」
「ああ、母が亡くなってから、何度か内宮に呼ばれて勧められた。固持したけど」
「その時に皇族になっておくべきだったわね」
セルミアーネは驚いたような顔をした。分かっていないんだろうね。
「皇太子様は貴方以外にご兄弟がいらっしゃらないんでしょう?それだと、もし即位した時に周りにお身内がいらっしゃらなくなるわ。頼りになる身内が側に居て欲しいと思って当たり前じゃないの」
セルミアーネは意表を突かれたような顔をした。
「それに、今回のように皇太子殿下に何かあった時の備えのために貴方にいて欲しかったんでしょ。その方が引き継ぎがスムーズに済むし」
フェリアーネ様もセルミアーネも皇子が複数いることのデメリットにばかり目を向けてメリットも多いのだという事をよく考えていないと思える。私は兄姉と仲が良いから分かるが、信用出来る身内が沢山いるというのは心強いものなのだ。
「そういう風に考えた事は無かった」
セルミアーネは肩を落としていた。まぁ、思い込みというのは怖いものである。私だって色々人の事は言えない。
とりあえずその辺は置いておくにしても、事がこの期に及んでは大事なのは過去ではない。これからだ。セルミアーネは本当に皇帝陛下の庶子で認知された皇子であり、皇太子殿下があのご容態な以上、昔からの約束通りに皇族に戻るしか無く、皇太子になるしかなく、その妻である私は必然的に皇太子妃になるのしかない、ということだ。ひ〜。マジか。
「・・・だからあの時、皇帝陛下は私が侯爵令嬢だと知って喜んでいたのね?」
「ああ。陛下は私に何度か高位貴族との縁組を提案してきていたんだ。私は断っていたが」
セルミアーネが平民や下位貴族と結婚して子供でも作ろうものなら、彼を皇族に戻す時に問題が生じただろう。皇帝陛下はそれを恐れたのだ。それがその点私は中身はともかく侯爵令嬢で身分は折り紙付き。文句が付けようが無い。
さっきの式典で皇帝陛下がお兄様に後援を頼んだように、セルミアーネの立太子にカリエンテ侯爵家の全面支援すら期待出来る。これが私がどこかの馬の骨で、セルミアーネが貴族界で孤立無援の状態であったら、他にも傍系の皇族はいない事は無いから、セルミアーネがスムーズに皇太子になれるとは限らなかっただろう。何しろ彼は母親の身分が低く、そちらの方からの後援は期待出来ない。
つまり私と結婚した事が、皮肉にもセルミアーネの皇位継承を後押しする事になるわけだ。私もセルミアーネも考えてもみない事だった。・・・いや、どうだろう。
「セルミアーネは皇帝陛下から勧められた高位貴族との縁談は断ったのよね?皇族にならないために。じゃあ何で高位貴族の私と結婚したの?やっぱり皇族になった時のためなんじゃないの?」
あえて平民と結婚してしまえば、セルミアーネは確実に皇位から遠ざかる事が出来たろう。それなのに何故そうしなかったのか。やはり少しは皇位に未練があったからでは無いのだろうか。しかしセルミアーネは驚いた顔をした。
「君を高位貴族だなんて思った事は無いよ」
・・・ごもっともだ。言っておいてセルミアーネはなんか違うと思ったらしく、言い直した。
「君を好きになった時に身分なんて気にしなかったよ。というから君に出会って私は身分にあまり縛られなくなったんだ」
どういう事?セルミアーネは思い出したらしく、今日初めて柔らかく笑った。
「私は君に会うまで、何をするにも『自分は一介の騎士なんだから』と一々自分に制限を掛けていたんだよ。身分を踏み越えてはいけない。それは無意識に自分が皇子だと考えている行為に思えたから」
だから、令嬢がいじめられていても、騎士には上位貴族を咎められない、と行動出来なかった。
「でも、君はあの時、身分なぞ蹴り飛ばしてみせたね」
蹴り飛ばしたのは伯爵令息だったけどね。
「でも、あんな事をしでかしたのにお咎めがなかったのは、結局お父様が侯爵だったからよ?」
「いや、普通の侯爵令嬢ならあの場は『身分低いものは虐げられて当然』だと見做す。それもまた身分のしがらみだ。君が動いたのは純粋にいじめに対して怒ったからだろう?そう。不正義に対しては怒るべきなのだ。身分などに関係無く。後先など考えず。そして走り出すべきだ。蹴り飛ばすべきだ」
あの時の私は考え無し過ぎだと思うけどね。今思うと。だけど、確かに今同じ状況に出会っても、やっぱり同じように飛び蹴りを放つだろうな。
「私はあの時の君を見て、身分よりも大事な事を思い出したんだ。大事なのは身分よりまず自分の考えだ、自分の正しいと思う事だ。それを実行するのに身分などで遠慮する事は無い」
セルミアーネは楽しそうに目を閉じた。
「あの時、私は私の進むべき道を指し示されたような気がした。今回、あれ程に母に禁じられていた皇族への復帰を決めたのも、あの時の気付きがあったからだ。いわば、君のおかげだと言える」
セルミアーネは目を開き、そして手を伸ばして私の両手を自分の手で包んだ。
「君に黙っていたのは本当にすまなかった。私は君とここでずっと楽しく暮らせれば良いと、そう思っていた。君に意に沿わぬ事をさせることなど考えもしなかった。だが、私は、父上と兄上の願いに応じる事が自分のすべき事だと思う」
セルミアーネは微笑みながらも、青い目は本当に真剣な光を放っている。
「・・・君が、約束を破った私に怒り、皇族などまっぴらごめんだ、と、思うなら・・・。離縁に応じても良い」
・・・私達は沈黙したまま見詰め合った。セルミアーネは微笑んだまま。そして私は・・・。
怒っていた。
グツグツと怒っていた。グググっと怒りが湧き上がり髪の毛が逆立ちそうだった。私がセルミアーネを睨みつけるとその眼力にセルミアーネも私の怒りに気が付いたようだった。
「ラル・・・?」
「人を!馬鹿にして!」
私はセルミアーネに握られていた手を振り解くと、テーブル越しに彼の襟首を掴み、力任せに引き寄せると、そのまま背負い投げの体勢に入った。
「こんの!馬鹿亭主が〜!」
背負い投げが炸裂してセルミアーネが床に叩きつけられる。大柄なセルミアーネだから家中が震えるような大きな音がした。セルミアーネは騎士だけに受け身も上手いから大して効いてはいないだろう。私は続けて彼の足を両脇に抱えると、そのまま力任せに振り回した。
「ラル!」
流石にセルミアーネが慌てる。だが私は構わずぶん回し、放り投げた。
「うわああ!」
セルミアーネは吹き飛んで壁に叩き付けられた。流石の反射神経で頭は守ったようだ。壁は見事に凹み、天井から漆喰の破片がガラガラと崩れ落ちる。
私は更に飛び掛かり、破片を被って真っ白になっているセルミアーネに馬乗りになり、襟首を締め上げた。本気で締めた。流石にセルミアーネの顔色が変わる。私の手首を掴んで引き剥がそうとするが、私は全身全霊の力を込めて締める。
「ラル!」
ついにセルミアーネも本気になって私の手首を引っ張った。流石に膂力では敵わない。ジリジリと引き剥がされる。すかさず私は間近にあるセルミアーネの額に頭突きをかました。ゴチン!と良い音がした。
「ぐっ!」
力が抜けた隙にまた襟を締めようと思ったが、そこは流石はセルミアーネは読んでいた。ガッチリ私の手首を掴んだままだ。私はまた頭突きをしようとしたが、セルミアーネは私を引き寄せて頭を引く距離を取らせない。ジタバタと攻防したが、セルミアーネも必死だ。私とセルミアーネは額を押し付け合うような姿勢で膠着した。
「ラル、落ち着いて!」
セルミアーネが叫ぶ。私は間近からセルミアーネを睨み付けつつ唸るように言った。
「あんた、あたしを何だと思ってるの!」
セルミアーネは顔中に汗を浮かべながら言った。
「わ、私の奥さんだよね」
「そうよ。あなたの妻よね。その私が、夫がこれから大変な事になるって時に、離縁して逃げるとでも思ってるの?」
セルミアーネは息を呑んだ。セルミアーネは私の性格を良く知っている。自分の失敗に気が付いたのだろう。
「そ、そんな意味じゃ・・・!」
と、言い訳しかけて止める。セルミアーネは私の性格をよーく知っている。下手な言い訳が火に油を注ぐ事に気が付いたのだろう。夫婦喧嘩は何もこれが初めてではない。
「・・・済まなかった。私が悪かった」
よし。だが、まだ力は緩めない。私はキスをする時くらいに間近に見えるセルミアーネに向かって噛みつくように言う。
「じゃぁ、私に何か言うことがあるんじゃないの?」
セルミアーネは逡巡したようだった。
「だ、だが、君は・・・」
「言いなさい。あなたの望みを!あなたは私に何を望むの!」
セルミアーネの青い瞳が揺れ、そして覚悟を込めてグッと引き締まった。
「もちろん、君に傍にいて欲しい。私を、助けて欲しい。もしも私が皇帝になるようなことがあっても、だ」
「よし!分かったわ。貴方の、望みのままに」
私はようやく手から力を抜いた。すると、全身からガクッと力が抜けてしまう。流石の私でも熊より強い旦那と格闘するのはきついものがあったのだ。私はベタッとセルミアーネの胸に身体を預けた。セルミアーネは苦笑しながら私の事を抱き締めてくれた。
「後悔しない?」
「もうしてるわ」
だが、私は逃げるのは嫌いで、負けるのはもっと嫌いだ。やるからには逃げる気も負ける気も無い。やってやるわよ。皇太子妃?どんと来いだ。そして。
「・・・今度、離縁がどうとか言い出したら本気で締めるからね」
「肝に銘じておくよ」
セルミアーネは嬉しそうに私のコブの出来た額にキスをした。私はセルミアーネの胸にベタッと頬を伏せてセルミアーネから表情を隠す。
内心、ちょっとこれは大変な事になっちまったぞ、と思いながら。
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