七話 青天の霹靂

 結婚一年以上が過ぎても私達には子供が出来なかった。私のお父様とお母様は結婚半年で妊娠が発覚したと聞いているのに。故郷の平民の間では、結婚後一年以上子供が出来なかった場合は妻に問題があると見做される場合も多いと聞いた事がある。なので私はちょっと気に病んでいた。


 しかしセルミアーネは気にした様子は無く、私が少し不安を漏らすと笑って「別に子供なんて居なくても良いよ」と言ってくれた。こういう所が私がセルミアーネを好きな所で、正直、これ以上に良い旦那はいないと思う。自分の事を良く理解して受け入れてくれる旦那を得る事が出来て私は自分が幸せだと思う。


 私はこの頃には狩人として帝都では有名で、いろんな所から今度はこれを獲って来てくれと頼まれるまでになった。こういうリクエストに応じるのは良い稼ぎになるし、狩人としては名誉な事なのである。狩人協会でも一目置かれる存在になっていて、大蛇や熊や狼が出た時には討伐を指名で頼まれる事もあった。一度などはレッドベアーが出た時にセルミアーネと協力して討伐した。私とセルミアーネの強さに手伝ってくれた狩人や騎士が驚いていたわね。


 セルミアーネは騎士として順調に働いていて、紛争や反乱討伐、それとさっきも言ったように大害獣の討伐に積極的に出て行き、手柄を立てて何回か勲章を貰っていた。結婚時は十人長だったのが今では百人長だった。これはまだ20歳でしかない騎士としては破格の出世らしい。出世は良いが、叙勲は受勲式に私も出なければならず、受勲式にはパーティも付き物なので、私が非常に困った。奥さんが出ないわけには行かないからだ。この先も増えそうな雲行きなので、流石に危機感を抱いた私はケーメラに少しづつマナーや作法を教えてもらった。良い旦那であるセルミアーネが私に合わせてくれるのに、奥さんである私が無作法晒し放題で笑い者になり、旦那の足を引っ張る訳にもいかないと思ったからだ。せめて歩き方や簡単なダンスは覚えないと。丸一年、暇な時に丁重に教えてもらった甲斐が合って、まぁ、ごまかすくらいの作法は身に付いたようだ。


 そんな感じで結婚二年目の春を迎えた。春は山菜や薬草がたくさん生える季節で、私は狩りよりもそちらの方に重点を置いていた。山歩きするのは同じだ。山菜や薬草は数が揃えば良いお金になる。背中に籠を背負って、他の人が中々入れ無いような山奥や崖の上に行けば楽勝だ。山のように採取し、家に持ち帰る。これも下処理をしてから売った方が高く売れるからだ。山菜は余分な部分を切り落とし、場合によっては洗う。薬草は少し干したほうが長持ちする。


 鼻歌交じりで帰宅すると、なんだか慌てたようなケーメラがやって来た。


「お、奥様。お出で下さい。使者が来ております」


 使者?聞きなれない単語に首を傾げる。今日はセルミアーネは出勤している筈なので家にいないのだろう。私は籠を作業小屋に下ろすと、家の中へ急いだ。


 客間には立派な身なりの男性が緊張した様子で座っていた。私は森から帰ってきたばかりなので山歩き用のボロ服だ。なんか申し訳ない気分になる。使者の方は私の身なりを見て目を剝いた。私は一応、上着の裾を掴んで淑女の礼をした。下はスパッツなので。


「お待たせいたしました」


「エミリアン夫人でいらっしゃいますか?」


「はいそうですが」


 あんまり家名を使う機会が無いから違和感があるけどね。私が答えると、使者の方は懐から書状を取り出した。封書ではなく、巻紙で、紐で巻いて封をしてある。使者の方はそれを開いて、読み上げた。


「セルミアーネ・エミリアン様、ラルフシーヌ・エミリアン様の両名は、明日、帝宮の第二謁見室に来るように。これは勅命である」


 そして読み上げた書状をまた巻いて、紐で縛ると、私に恭しく差し出した。受け取るしかない。私は一応両手で受け取る。すると使者の方はまた懐から、今度は封書を取り出した。かなり分厚い。


「これはセルミアーネ様にお渡しください」


 そして使者の方は一礼して帰って行った。???何だったのか。これくらいの用ならハマルなりケーメラなりに言付けるだけで良かったのでは?私は疑問に思いながらも、書状と封書をハマルに預けて作業小屋に戻った。今日中に処理しないと薬草がダメになってしまう。


 事の重大さが発覚したのはセルミアーネが帰宅してからだった。私から書状と封書を受け取ったセルミアーネは真っ青になった。立ったまま書状を読んで絶句し、震える手で封書を開いて中の手紙を読むと立ち眩みを起こしたように膝を付いた。


「ミア!」


 私は彼を助け起こし、ソファーへと導いた。セルミアーネは震えており、ソファーに力無く横たわった。


「大丈夫?薬を飲む?それともお医者?」


「・・・大丈夫だ・・・」


 セルミアーネは言うが、顔色が真っ青だ。明らかに手紙を読んだせいだろう。私は彼が取り落とした手紙を見ようとしたが、セルミアーネに止められた。


 セルミアーネはケーメラが持って来た気付けのワインを飲み、頭を抱えていたが、しばらくしてようやく私に向かって言った。


「・・・明日、帝宮に行く。ラルも正装してくれ」


 まぁ、使者まで立てられた呼び出しでは仕方が無かろう。だが、問題はセルミアーネだ。こんな状態で大丈夫なのか。セルミアーネはその晩、ベッドに入らず一人でずっと手紙を前に頭を抱えていた。何なんだろう。私は疑問を抱きながら一人で寝た。


 翌日、緊張した表情のケーメラに着付けられて紺色のドレスを着る。これは持っている中で一番フォーマルなドレスだ。宝飾品も髪飾り、ネックレス、ブレスレッド、イヤリングとフル装備だ。私がジャラジャラを嫌うのを知っているケーメラはいつもはかなり省略してくれるのに、今回は外すのを許してくれなかった。


 セルミアーネは騎士の礼服で、これは結婚式の時に着ていた服だ。青い礼服。そう言えば結婚式以来この服見ていなかったな。受勲式で着ていた礼服は緑だった。故郷の結婚披露で着せられたのと同じ色。他の人も同じ色の礼服だったから、正式な礼服はどうやら緑なのだろうと私は思っていた。青い礼服は結婚式のために仕立てた服だったのかな?と考えていたのだが。青い礼服をビシッと着て、身だしなみも隙無く整えた様子は結婚式を思わせる。しかし表情が違う。あの時は幸せそうに笑み崩れていた表情は緊張に引き締まり、顔色は悪い。


 また貸し馬車かな?と思ったら、もっと全然豪華な馬車が待っていた。帝宮から差し向けられた馬車らしい。お迎え付きとはびっくりだ。馬車は高いから家計には助かるけども。私はセルミアーネのエスコートを受けて馬車に乗り込んだ。


 馬車の中でセルミアーネは一言も発しない。むう。何か一つ今日の事についての説明があっても良さそうなものじゃない?だが、私の旦那様は結構頑固なので、言わないと決めた事は多分何があっても言わない。私はそういう彼の頑固は気にならない人なので、二人の関係は上手く行っているのだ。まぁ、言いたくなったら言ってくれるでしょ。そんな呑気な事を考えていたために、私はもうかなりとんでもない所にまで足を踏み込んでしまっていたのだった。


 帝宮に付き、本館前の大車止めで馬車を降りる。と、周囲にいた貴族たちが一斉に私達の方を注目した。何?私は思わず戦闘態勢を取りそうになり、自重する。いけないけない。今日の私は狩人ではなく奥様。素知らぬ顔でセルミアーネの腕に手を絡めると、私達はエントランスロビーへと入った。それとなく耳を澄ます。私は物凄く目も耳も良いので、その気になれば噂話は全部聞き取れる。


「あれが・・・、その」


「まさか。本当に?」


「皇子とは・・・」


 私達を見ながらヒソヒソ話をしている貴族たちは私達を見ながらそんな驚きを表す会話をしていた。しきりに「まさか」とか「聞いた事が無い」とか「本当に皇子が」とか言っている。・・・?皇子?私は元令嬢で今は夫人。セルミアーネは騎士だ。皇子がどこにいるんだろうか。そんな事を思いながら待っていると、侍従が迎えに来て、私達は小さな控室に案内された。


 控室でセルミアーネの顔色はいよいよ悪くなり、私は彼の手をさすって上げた。セルミアーネは私の手を握りぽつりと「済まない」と言った。何を謝るのか。


 やがて侍従に促されて私達は謁見室へ入った。第二謁見室はつまり二番目の格の謁見室で、私の成人のお披露目の時に使われた謁見室よりも大きかった。装飾も豪華で、天窓から光が降り注いで明るく、その光が集まる中心を私達は青い絨毯を踏みつつ進んだ。お披露目の時よりもずっと多い、何百人かちょっと一目では数が分からないくらいの人がいる。まるで市場の人ごみのようだが全員が貴族だ。帝国の貴族のほとんどが来ているんじゃないかしら?後ろの方の人は私達の事が多分見えまい。


 は~。なんだこれ?全員がざわざわしながら私達に注目している。セルミアーネはもう青黒いような顔色だ。私は彼を支えるようにしながら歩いた。がんばって、ミア、とか思いながら。そう。私はこの期に及んでまだ事態の重要性が把握出来ておらず、他人事だったのだ。なので別に緊張する事も無く階の前まで進んだ。階の近くは上位貴族の場所だ。そこに、この間に侯爵位を継いだ私の一番上のお兄様がご夫婦でいらっしゃった。その後ろには前侯爵夫妻となられたお父様とお母様がいた。この間その話を聞きに侯爵邸に呼ばれて行った時には、領地のお屋敷に住むつもりだと仰っていたけど、まだ帝都にいらっしゃったのね。お兄様もお父様もお母様も、目と口がまん丸に開いていた。驚愕を絵に描いたような顔だ。微笑みで本心を押し隠すのが貴族の習い性なのに、あんな顔は尋常じゃない。何があったのだろう。


 階の下で待っていると、侍従が皇帝陛下皇妃陛下の御光来を告げ、私達と含む全員が頭を下げる。私達は跪かなくて良いのかな?と思ったのだが良いようだ。頭を上げる許可が出たのでゆっくりと上げる。学習の甲斐があった。


 皇帝陛下と皇妃陛下の顔は良く見えないが、あまりご機嫌なご様子ではない。というか雰囲気が暗い。特に皇妃陛下は真っ直ぐ座っている事も出来ない感じで頭を少し傾けている。皇帝陛下も眉間に皺が寄っているのが分かった。セルミアーネも同じ様に眉間に皺を寄せて唇を引き締めている。なんだろう。セルミアーネに何か罰でも与えられるのかしら。私はこの時、その可能性に初めて気が付いた。セルミアーネが何かヘマをしでかしたのかもしれない。もしかして降格?それとも入牢?え、もしかして打ち首?そんな想像をして勝手に焦り出した私を無視して、皇帝陛下が重々しく口を開いた。


「集まってくれた帝国の貴顕諸卿に告げる。今、ここにいるセルミアーネ・エミリアンは、今日この時より皇統の一員である」


 どよめきが起こる。・・・?意味が分からなかった私を除いて。いや、でも、良く意味が分からなかったのは私だけでは無いようで、説明を求める声がそこかしこから皇帝陛下に飛んだ。陛下は頷いて続けた。


「セルミアーネは私の庶子である。公妾であったフェリアーネの息子だ。フェリアーネの事は知っている者も多かろう。後継争いを避けるためにセルミアーネが私の子である事はこれまで伏せられていた。・・・しかし、我が皇太子、カインブリーの病状が思わしくない。故にセルミアーネを正式に皇統の一員と認知し、カインブリーにもしもの事があった場合、セルミアーネを皇太子とする」


 ・・・。は?


 物凄くとんでもない発言を聞いてしまった気がする。・・・。え?セルミアーネが皇帝陛下の庶子?初耳なんですけど?・・・。って?え?セルミアーネを皇太子にするって聞こえたんですけど?


「そこにいるセルミアーネの妃はラルフシーヌ。カリエンテ侯爵の娘だ」


 一同の注目がざっと音を立てて私に集まる。ひえ!わ、私?


「身分に問題が無いので、彼女も皇統に迎え入れる。カリエンテ侯爵には後援をしてもらえると有難い」


「そ、それはもう・・・」


 お兄様がガクガク震えながらようよう答えた。ちょっと待ってよ。今、私も皇族になるって聞こえたわよ?何ですか?どういう事なんですか?私はここで漸くとんでもない事態になった事を自覚して全身から冷や汗が噴き出した。手足が冷たくなった気がする。


「セルミアーネ。ラルフシーヌ。上がるが良い」


 皇帝陛下に促され、今度は私がセルミアーネに引っ張られるようにしながら階を上った。一度皇帝陛下ご夫妻に跪くと、立ち上がって振り返った。眼下にはうぞうぞと数百人の貴族たち。セルミアーネは右手の手袋を外して、手を掲げた。その中指には見慣れない黒い指輪が嵌っていた。あれ?前に見た時には確かに銀の指輪をしていた筈なのに。


「セルミアーネが生まれた時に授けた皇統を証明する指輪だ」


 後で聞いたが、皇族の身分証明の指輪は黒なのだそうだ。セルミアーネは13歳で成人した時には銀の指輪を授かっていて、普段はそれをしていたらしい。なんだそれ。反則なのでは?身分証明にならないじゃん。というか、この指輪を持っているという事は、セルミアーネは間違い無く皇帝陛下の息子なのだろう。


 そういえば、という感じで、結婚した後に帝宮に呼ばれた時のあれこれが思い出されてきた。確かに皇帝陛下のあの態度は、息子に見せる愛情だったと言われればそういう感じもする。邸宅も、皇帝陛下の愛妾のお屋敷だとすれば説明が付く。


 呆然としていると、セルミアーネに促されて私達は皇帝陛下ご夫妻に向き直り、再び跪いた。


「全能なる神の代理人にして、帝国の偉大なる太陽、輝ける栄光の座、東西南北を統べるお方、剣と天秤の守護者、いと麗しき皇帝陛下よ。私、セルミアーネは皇統の一員として、皇帝陛下と帝国のために全ての力を捧げると誓います」


 セルミアーネは一気に言い切ると、私をちらっと見た。懇願する様な視線。私はまだ呆然としていたので、彼の視線に誘われるように、するっと口を開いてしまっていた。


「私も同じく、皇帝陛下と帝国のために全ての力を捧げると誓います。」


 皇帝陛下は少しほっとしたようなお顔で頷くと、言った。


「よろしい。では私の側にあるが良い」


 セルミアーネと私は立ち上がり、皇帝陛下のお席の右後ろ、その辺りが皇族の立ち位置らしい、そこへ行って、階の下を見下ろす状態で立った。この瞬間、セルミアーネと私は皇族の一員となり、全貴族の上に立つ存在となったのである。なったようである。全然実感が湧かない。というか全然私の心が現実に追い付いていないのだが。


 侍従からこれから先のセルミアーネの扱いが発表される。何とか伯爵領を授かり、幾つかの称号を授かり、皇族としての席次がどうのとか言う話をしていたが、放心していた私の頭の中を見事にすり抜けてしまって覚えられなかった。


 式が終わり、私達は皇族専用の出口より退席した。勿論初めて通ったわよ。通路を抜けて控室へ出る。すると皇帝陛下がくるっと振り返り、いきなり私たちに深く頭を下げた。一天万乗の君である皇帝陛下が頭を下げるなどあってはならない。侍従たちが慌てるが、皇帝陛下は頭を上げず、絞り出すように言った。


「済まぬ・・・!」


 う、その声はそれこそ断腸の思いを音声化したような苦い響きだった。皇帝陛下の悩みと苦しみが目に見えるようだった。皇妃陛下も頭を下げている。セルミアーネは自分も苦い思いをかみ砕いたような顔をしていた。


「陛下の御責任ではございません。頭など下げないでください」


「本当に済まぬ。このような事態になろうとは・・・。そして、私の願いを聞いてくれて本当にありがとう」


「其方たちには本当に済まないと思っております」


 皇帝陛下と皇妃陛下に平謝りに謝られれば、流石の私も恐縮する。先ほどまで感じていた、自分の知らないところで物事が決められて行く不快さも雲散霧消した。だが、セルミアーネは苦々しそうな顔を消さない。


「・・・皇太子殿下のご容体はそれほどお悪いのですか?」


 皇帝陛下と皇妃陛下の表情が更に曇った。特に皇妃陛下は昨年見た時よりもやつれ切ったお顔で、悲し気に首を横に振った。


「あれは・・・。もう駄目でしょう」


「そんな・・・」


「侍医も、もう保って数カ月だと」


 セルミアーネは顔を手で覆った。セルミアーネが皇帝陛下の庶子だとすれば、皇太子殿下はセルミアーネの義兄になる。幾らかは交流があったのだろうか。


「これからの事を説明したい。良いか?」


「陛下。今日は皇太子殿下のお見舞いをして一度帰ります。妻に、説明をしておきたいのです」


 セルミアーネと皇帝陛下ご夫妻が私の方を見た。


「分かった」


 私とセルミアーネは案内されて、帝宮内部を延々と歩いた。そして行きついた先に小さな扉があり、左右を騎士が守っていた。セルミアーネが黒い指輪を見せると中に入る事が許される。そこは去年入った皇帝陛下のプライベートルームと同じような雰囲気であったが、ずっと静かだった。というか、侍女も侍従も息を潜めているような雰囲気があった。


 少し行った先に寝室があり、大きな天蓋付きのベッドがある。数人の侍女と何人かの男性がいたが、私達が入るとそっと避けて壁際に控えた。少しすっきりする様な香が焚かれ、数種類の花の匂いが混じっていた。セルミアーネと私は枕元へ進んで、そこに横たわる人物と対面した。


 薄茶色の髪をした、大柄な男性であった。骨格も良く、元は雄大な体格だったろう。だが、この時は明らかに痩せてしまっていた。ガリガリだった。頬もこけ、青い目は落ちくぼみ、唇は乾いている。男性はふっとセルミアーネを見ると破顔した。


「おお、セルミアーネではないか。良く来たな」


 声にはまだ力があるが、本来はもっと張りのある大きな声だったのだろう。多分、かなり豪放な方で、武勇にも優れていたと推測される。


「・・・皇太子殿下」


「なんだ。ここに来たという事は其方が継ぐことになったのだろう?なら私の事は兄上と呼べ」


 セルミアーネは泣きそうな顔をしていた。そんな顔は初めて見る。


「・・・兄上・・・」


「ははっ!ようやく言わせたぞ。子供の頃は普通にそう呼んでくれていたのに。其方から『殿下』と呼ばれて私がどれほど悲しんだか」


「すみません・・・」


「まぁ、良い。こうして死ぬ前に其方に会えて嬉しいぞ。そちらが其方の妃か?なかなか美しい姫では無いか。皇太子妃に相応しい」


 セルミアーネは皇太子殿下の手を握ると言い聞かせるように言った。


「そんな事を仰ってはいけません。兄上はお強い方。病などに負けませぬ。心を強くお持ち下さい」


「ははっ!其方に元気付けられるようではお終いだな。言われるまでもないさ。簡単に負ける気は無いとも」


 皇太子殿下はカラカラと笑った。だが、その目には隠し切れない絶望が見え隠れしている。それはセルミアーネにも分かっているだろう。彼は涙をこらえていた。


「だが、私にもしもの事があった時にはそなたが父上の後を継ぐのだぞ。私はそのために其方を鍛えたのだからな」


「兄上・・・」


「まぁ、本当は其方に背負わせるつもりは無かったのだが・・・」


 皇太子殿下は遠くを見るような眼をしていた。セルミアーネではなく、もっと違う、これまでの自分の人生を思い起こすような視線。そしてその全てをセルミアーネに託すかのように、皇太子殿下はセルミアーネの手を瘦せこけた手でしっかり握って言った。


「兄が死んでから、私は父の後を継ぐために懸命に努力をしてきた。故に自分が皇帝になれないのは無念だが、其方が継いでくれるなら不満ではない。可愛い弟よ。けして皇位を他の者に譲るなよ?そんな事になったら其方の所に化けて出るからな」


 その言葉はあまりに重く、セルミアーネも私も言葉を返すことが出来なかった。私は後々になっても、この時の皇太子殿下の無念そうな笑顔を明確に思い出す事が出来た。




 帝宮から引き揚げて来た私達は家に入ると二人してソファーに崩れ落ちた。帰りの馬車には護衛騎士が12人も付き、今でも家の門前には三人もの騎士が護衛に立っている。一瞬にして身分が変わった気分だ。いや、実際変わったのだけれど。


 小一時間倒れまま意識を飛ばしていた私は、よろよろしながら起き上がり、ケーメラに手伝ってもらいながら庶民服に着替えると、居間に戻った。セルミアーネもいつもの服を着て居間に入って来て、椅子に腰かけた。テーブルを挟んで向かい合い、しばし沈黙する。


「さて」


 私はセルミアーネを睨んだ。漸く睨む気力が戻って来た。


「説明をしてもらいましょうか。初めから、最後まで」


 セルミアーネは目と目の間を揉むと、真摯な視線で私を見据えた。


「分かった。最初から全部話そう」


 そう言ってセルミアーネが語り始めた驚愕の物語は、実に明け方近くにまで続いた。



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