猫の手じゃなくて人の手を借りたい

天鳥そら

第1話猫の手じゃなくて人の手を借りたい


「さてさて、どうしたものか」


 雑踏の中を歩きながら、ぼんやりと明日の開店をどうするか迷っていた。


 白髪交じりの五十代、肉体的に衰えは感じつつもまだまだ足腰も丈夫。ぎっくり腰を経験したこともなかった。和食店で身に着ける長袖白衣、厨房前掛けの男が頭を抱えていた。


 「明日から、珠子は入院してしまう。一週間とはいえ、お店を閉めるのは気が引けるな」


 結婚して二十五年、連れ合いと二人三脚で食堂を営んできた智也の苦悩は深い。何度もため息をつきながら、人にぶつかるのも気にせずふらふらと歩いてく。


 いつの間にか、普段は足を向けない質屋の前に立っていた。質屋にものを預けたことはないが、買取を何度かお願いしたことがある。食器やちょっとした書道の掛け軸なども購入したことがある店だ。


 大きなため息をつきながら、質屋の引き戸を開けて中に入る。一歩足を踏み入れれば、千年のとまではいかないものの古く奥ゆかしき空気がほほをなぜる。


「いらっしゃいませ」


 声をかけてきた男はまだ若く智也は目を丸くする。


「いつものじいさんはどうした?お兄さんは、雇われているのかい?」


 濃い緑の着流しに、下駄の姿の青年は総髪で後ろでゆったりと黒髪を結わえている。見たことも聞いたこともない若者だった。


「はい。ちょっとの間だけ店を預かっています」


 いつもは智也より二十も年上の男が店長として、一人でこの質屋を切り盛りしている。創業は江戸だといわれ、さらに江戸ができる前は京都でも店を商っていたと聞いている。どこからどこまで本当かはわからない。


「何かお探しで?それとも、何か見てほしいものでも?」


「いやいやいや、今日はちょっと愚痴を聞いてもらおうと思っただけでね。悪かったよ。商売の邪魔をしたね」


 愛想よく笑って踵を返そうとすると、青年は切れ長の目を細めた。


「良ければ話していきませんか?お茶と甘味をお出ししますので」


 いいよとのどまで出かかった言葉を飲み込んだ。店を開けるにしろ、しばらく臨時休業にするにしろ、この重苦しい気持ちをどこかで吐き出したかった。


 店の中にあるテーブルとイスは年代物だ。漆の光沢がまぶしい。おそらく高額だろうと思いながら腰をかけるとふっと気が楽になった。青年はお茶と甘未の用意に奥に行ってしまいしばらく戻ってこない。智也は頭にのしかかってくるような重みに手切れずテーブルに突っ伏して眠ってしまった。


 どれぐらい眠っていたのか、目を覚ました智也はあたりを見回す。青年がまだ戻ってこないことを不思議に思った。


「うっかり眠っちまったが、どうしたんだろうな。あのお兄さんはどこへ行っちまったんだろう」


 肩をまわしてほぐしていると、目の前の奇妙なものにぎょっとした。


「こりゃ、猫の手かい?」


 真っ黒な猫の腕を切り取ったかのようなものが一本。智也の前に置いてあった。


「悪趣味だね。本物そっくりだよ」


 おそるおそる手で触ってみると、近所の猫を撫でたときのような生々しい感触がした。


「あのじいさんは、こんな変なものも扱っていたのか。こりゃ、動物愛護団体に訴えられるぞ」


 ゆっくり持ち上げるとそれなりに重みがある。この猫の腕を持つのは気味が悪かった。


「気に入ったのなら、お貸ししましょうか?」


 ひゅっと息を吸って慌てて、猫の手をテーブルの上に置く。いけないことをしてしまったようでバツが悪い。こんな気味の悪いものいらないねと言いたかったが、口から飛び出てきたのは別の言葉だった。


「そうだね。猫の手も借りたいと思っていたところだったよ。ありがたく借りるとしようかね」


「その猫の腕は、文字通り猫の手も借りたいときに助けてくれる道具です。ですが、叶える願いはひとつだけですよ。いいですね?」


 智也はこくりとうなづいて、お茶も甘未もごちそうにならず、猫の腕を手に取ってそのまま店を出ていった。


「猫の手も借りたいほどさ。珠子が入院している間、無事に店を開けていたんだよ。助けておくれ」


 智也の耳の奥でにゃあんという声が聞こえた気がした。


 智也と連れ合いの営む食堂は忙しい。サラリーマン、OL、学生、子供連れ、学生、この地域に住む人たちが訪れる。特にお昼時や夕方は戦争だ。二人で切り盛りできてはいても、智也ひとりで切り回すのはさすがに無理があった。


「本当に大丈夫かね」


 猫の手をお客さんの目立たない場所に置き、珠子のいない店を開けた。



 智也はたったひとりで店を開けていたものの、不思議とうまくいった。常連であれば自分でレジを打っていってくれる客もいる。できた食事を自分で取りに来て、。珠子のいない状態で店を開けている智也をねぎらってくれた。智也が困っていると、まるで珠子がそばで手伝ってくれるように、タイミングよく助けてくれる客が現れるのだ。バイト代はいいからと手伝ってくれる学生もいた。


「良いお客さんを引き寄せてくれるのかね。この猫の手は」


 見ていて気持ちが良いとは言えないので、猫の手は店の奥に飾ってある。店が終わって夜ひとりになったときは、猫の腕の毛並みを整える。毎晩、感謝の気持ちをこめてなでた。


 最終日まで何事もなく店が回り、とうとう珠子が帰ってくる日が訪れた。この猫の腕も返さなくてはならない。


「質屋で借りたのだから、いくらかお金を払わなやきゃならないね。一体いくらだろう」


 この猫の腕を見れば珠子が驚くだろうと思い、急いで質屋に足を運んだ。連れ添って二十五年、二人で切り盛りしてきた食堂だったが、そろそろ手伝ってくれる人がほしいと考え始めていた。


「この一週間、お客さんに手伝ってくれて本当に助かったよ。特に高校生の女の子が来てくれて、店が華やかになってね。楽しかったな。一人くらいなら雇えるんだ。誰か手伝ってくれないかね」


 おじいさんは忍び笑いをもらして、猫の腕を抱きしめる。珠子と二人も良いけれど、気の合う従業員がいればどれだけ良いかと考えていた。


 質屋に足を踏み入れると、以前、会った若者がにこやかに出迎えてくれた。それから、ふっと表情を硬くする。


「この猫の腕、助かったよ。不思議な道具だね。さて、代金はいくらだい?」


若者の表情がゆるみ、智也が思った以上の金額を提示してきた。


「ど、どういうことだい?確かに、助かったけど高くないかい?」


「はい。本当なら、今の代金の半額です」


「じゃあ、なぜ」


「ふたつ、願い事をしたでしょう。だから倍、払ってください」


 智也が願ったのは一つだけ。珠子がいない間の店を無事に切り盛りすることだ。他には何も願っちゃいない。反論しようと開きかけた口を閉じ、財布を取りだした。


「わかった。お兄さんのいう通り払うよ。かなり助かったからね」


 代金を払った智也は、珠子が帰ってくるのを出迎えようと走っていった。あの妙な猫の腕は一体なんなのか、聞きたいことは山ほどあったが、店と珠子の方が大切だった。


「あら、あなた」


 店の前にタクシーが止まり、中から珠子が出てくるところだった。慌ててtクシー運転手に礼を言い荷物を受け取る。珠子がタクシーの後部座席から降りた後から、もうひとり若者が降りてきた。眼鏡をかけた真面目そうな青年だった。


「珠子、こちらのお兄さんは親戚かい?」


「この方ね、渡辺信彦さんといって、近所に下宿している学生さん。病院でおしゃべりする機会があってね、バイト先を探しているんですけど私たちのお店で働きたいんですって」


 ふたりでもなんとかなるけど、やっぱり誰かもうひとりいてほしいわよねと笑う珠子のそばで、青年はタクシー運転手さんに代金を払っている。


「ああ、こっちでちゃんと払うから。お兄さん」


「大丈夫よ。あなた、あとでバイト代に入れておけばいいの。払わせてあげなさい」


 ウィンクする珠子の表情を見ているうちに、質屋のお兄さんの表情が浮かんだ。





「ふたつ、願い事をしたでしょう。だから倍、払ってください」




「確かに、願い事をふたつしてしまったんだな」


「どうしたんですか?あなた?」


 珠子の心配そうな声に、頭をふった。そばでは、不安そうな表情を浮かべる青年がいる。自分がバイトとして雇ってもらえるか心配しているのだろう。


「いや。なんでもないよ。いや、私もね、誰か来てくれたらいいなって思っていたんだよ」


 青年の不安そうな表情が和らぐ。珠子も嬉しそうに口元に手をあて、智也も一緒になって笑った。




  

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