落ちる音

「ま、待ってくれ!!」

「あ……翆君」


 夕暮れの公園、不思議と二人以外には誰も居ない空間だった。

 その魅惑的な肢体を惜しげもなく押し当ててくる沙希亜から離れるように翆は立ち上がった。切なそうに手を伸ばす彼女の姿に一瞬で駆け寄りたくなる気持ちになってしまうが、少し状況を整理したくなったのである。


「その……なんで俺にこんな」

「好きだから」

「……っ~~~~!!」


 好きだと真っ直ぐに言われてしまい翆は顔を真っ赤にした。沙希亜のような超が付くほどの美少女、サキュバスだからなのか大人顔負け……否、並みの大人の女性よりも圧倒的な色気を振り撒く彼女からの告白だ。翆が照れるのも無理はない。


「でもいきなり過ぎないか!? だって君と俺が話をしたのは昨日が最初みたいなもんだろ。それなのにいきなり好きって……いいや嬉しいさ。悔しいけど沙希亜みたいな人に好きって言われてめっちゃ嬉しいさ!!」


 翆もやけくそだった。

 今まで彼は当然異性に告白されたことはない。遊びでも、揶揄いの意味でも告白なんてされたことはなかった。にも拘わらずこうして親しくなったばかりの沙希亜に告白をされた。しかも彼女の雰囲気から本気を感じ取っただけに、翆はこうして慌てているのである。


「……まあ確かにそうなるわよね。私が人間で、翆君が人ではなかったとしても同じ反応になるかもしれない」

「そ、そうだよな――」

「でもごめんなさい。もう一度言うけど私、サキュバスなの。だからこの気持ちを止められない」


 立ち上がった沙希亜はジリジリと距離を詰めてくる。

 翆は一歩、また一歩と下がりながらついに木の陰に追い詰められた。背中にトンと当たる木を認識した瞬間、背中に当たる固さとは正反対のとてつもない柔らかさが胸元を当たる。


「つ~か~ま~え~た♪」


 また先ほどのように沙希亜に抱きしめられた。翆は本能で彼女から逃げられないと思いながらも、どこか心の中で期待するのは年頃だからか。とはいえ、沙希亜も翆の気持ちが分かっているのか改めてこう言葉を続けた。


「ねえ翆君、サキュバスはね……普通の恋愛は無理と言われているの」

「……え?」


 一周回って翆は落ち着いていた。

 それから翆は彼女に捕まった状態でサキュバスのことを聞いた。基本的に沙希亜たちに近寄ってくるのは漏れ出す色香にあてられた男だけ、だが中には翆のように稀に魅了が解ける人間が居ることがある。その男こそ、サキュバスの本能と女としての本能が求める相手であること……つまり、その沙希亜にとっての稀な男が翆ということになるのだと。


「……信じられない?」


 不安そうに沙希亜はそう言った。

 翆は……首を横に振った。確かに信じられるかどうかで言えば怪しい。それでも沙希亜の雰囲気と、瞳から伝わる気持ちは偽りがなかった。あくまで翆の勝手な思い込みかもしれないが、沙希亜は間違いなく本気なのだと翆に嫌でも理解させたのだ。


「……俺、沙希亜のことが好きなのか分からない。クラスメイトなのもあるし秘密を知ったことで大切にしたいとも思ってる。でもこの気持ちが……その――」

「大丈夫よ。すぐに恋に変えてあげる」


 そう言って翆は彼女にキスをされた。

 驚きに目を見張ったが、その場の雰囲気に流されるように沙希亜の熱い抱擁と激しいキスを受け入れた。サキュバスとしての姿を晒す彼女を前にすると頭がボーっとするのだが、今だけは鮮明に彼女を見ることが出来ている。


(……キスって気持ち良いんだな。これがキス……サキュバスのキス……か)


 夢魔であったり淫魔とも表現されるサキュバスのキスはとてつもなく気持ちが良かった。翆はキスを経験したことはないが、お互いの唾液を交換するような深いキスは気持ち良さと共に心を満たす温もりがあった。


「……ぷはぁ♪」

「っ……」


 息継ぎの為に沙希亜は唇を離した。

 二人の口元を繋ぐように唾液が銀の糸となって繋がっている。その光景に妙な興奮を翆が覚えていると、沙希亜はクスッと笑ってこんなことを口にした。


「気付いていた? 翆君も私の方に舌を出してたのよ? 昨日みたいに、一心不乱に私を求めるように」

「あ……」


 キスは初めて、ではなかった。

 昨夜のことを思い出すと、確かに翆は沙希亜とキスをしていた。あの時は今と違って完全に夢だと思い込んでいたからこそ、大胆にも長い時間をキスを交わしていた。


「ねえ翆君、よく付き合うことから始める恋というのがあるわ」

「……そうだな」


 よく聞く言葉だ。

 その子が気になるからと試しにお付き合いから始めようとするのも珍しくない。そこから始まる恋もあるわけだし、お見合いなんてものも基本的にそんな流れだろう。既に翆は沙希亜とキスも交わしたし、本番とは言わないまでも決して他人に言えない恥ずかしいこともした。


「エッチから始まる恋もありだと思うのよ♪ 私は普通の人ではなくサキュバス、翆君は特に深く考える必要はないわ。それに分かってるの……今翆君は凄くドキドキしてることを。私を求めていることをね」

「っ……」

「……まあそう仕向けたのは間違いないわ。でも、私は決して軽い気持ちで翆君とこうなりたいって思ったわけじゃない。翆君からすれば私は言ってしまえば化け物でしょうけど、それでも私はあなたに全てを捧げたい」


 まるで願いを口にするように彼女はそう言った。


「そして……」

「?」

「あなたの全てを私は欲しい……ねえ翆君、私に溺れて? 私に全てを委ねてほしいの。なんでもしてあげる、なんだって叶えてあげる……何もしなくていい、何故なら私はサキュバスだから。翆君はただ、私に甘えれば良いの。さあ翆君、頭をからっぽにして?」


 彼女の言葉が翆の脳内を犯す。

 決して魅了されているわけではなく、操られているわけでもない。それでも男の本能をくすぐる言葉の数々を巧みに使って翆を追い詰めてくる。沙希亜は本気で翆を落としに掛かっており妥協する様子は見えない。


「あなたの前に居る女は翆君だけのモノよ。あなたを愛し、あなたに愛されることを願うだけの女。目の前のドスケベな体を持った女を好きにして?」


 それは正に理性を焼き切るほどの効力を秘めた言葉だった。

 バッと腕を広げた翆の姿に沙希亜は恍惚の笑みを浮かべた。彼女はサキュバスなのもあって積極的だが、一番は相手に求めてもらうことが何より嬉しいのである。理性に囚われず、本能に従うようにこの体を貪ってほしいと彼女は願う……だが、沙希亜は少しだけ翆を甘く見ていた。


 彼はどこまでも優しく、どこまでも沙希亜に伝えた守りたいという言葉に偽りはなかったのだ。


「……その……罰当たりなくらいに幸せなことだとは思うんだ。でも何もしないってのは嫌かな」

「翆君?」


 おやっと、沙希亜は首を傾げた。

 彼は相変わらず頬が赤く興奮しているのは分かるが、彼は真剣な表情で言葉を続けた。


「全部沙希亜に委ねたら君を守れないだろ? まあ何が出来るかと言われたら秘密を守ることくらいだけど、俺だって男だし……沙希亜を守りたいとは思うんだ」

「……あ」


 ずっきゅんと、彼女は大きなダメージを受けた。

 それは痛みではなく、翆に向ける大きな気持ちを更に広げるダメージだった。サキュバスは男の考えていることが手に取るように分かる。つまり、翆が口にしたそれが本気の気持ちだということを理解した。


「……マズいわ翆君」

「え?」

「私、今心が完全に落ちた音を聞いたわ……私、翆君に落ちちゃった」


 落とすつもりが落とされていた、それはサキュバスとして致命的である。まあもしも彼女の母親か姉が見ていたら間違いなくこういうだろう。


 アンタ、最初から落ちてたやんけ……と。

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