夢に現れた彼女は翆を癒す

「……………」

大丈夫?」


 夕暮れに染まった教室、自分の席に座ってボーっとする翆に沙希亜が申し訳なさそうにしながら問いかけた。あの後、件の二人はキスで満足したのか資料室を出て行った。彼らが居なくなったことで隠れる理由がなくなった翆と沙希亜は掃除用具入れから出たのだが……まあ翆にとっては正に生き地獄のようなものだった。


「天国と地獄を味わった気分だよ」


 沙希亜という美少女とあのような狭い空間で二人だったのはある意味天国だったのは本当だし、同時に彼女のことを出来るだけ意識しないようにと歯を食いしばるほどの思いをしたのは地獄とも言えた。


「地獄はともかく……天国ってどういうこと?」

「だって沙希亜と一緒だったし……あ」


 つい思っていたことを口にしてしまった。

 いつもなら相手が誰であろうと誤魔化せるのだが、そう出来ないくらいに翆は疲れているらしい。


「……ふふ♪」


 しかし、沙希亜は嬉しそうに笑った。

 その微笑みは夕陽をバックにしており芸術的な美しささえ感じさせる。翆にとって彼女とまともに会話をしたのは今日が初めてだが、そんな彼女とグッと距離が近づいたのも確かである。

 あの用具入れの中でお互いに名前で呼ぶことも約束した。舞と来夏に続いて女子の名前を呼ぶのは沙希亜で三人目だ。


「それじゃあ翆君、一緒に帰りましょう?」

「え?」

「どうしたの?」


 一緒に帰る、何気なく彼女はそう言った。

 まあ既に放課後も遅い時間なので校舎に残っている生徒はそんなに居ない。精々外で部活動に勤しんでいる生徒くらいだが、そこまで考えてせっかく誘われたのに断るのもどうかと翆は思い……分かったと頷いた。


 それから彼女と並んで下駄箱に向かい、靴を履き替えて外に出た。

 沙希亜とどこまで一緒に帰るか分からないが、翆としても嫌ではない。彼女のような美人と一緒に帰る機会などそうそうないからだ。校舎を出てすぐに彼女はパチンと指を鳴らしたが、翆としては指を鳴らすのが上手だなと思う程度だった。


「どうしたんだ?」

「ううん、何でもないわ。私と翆君の世界を守るお呪いみたいなものよ」

「お呪い?」


 沙希亜は頷いた。


「どこまで一緒に行くんだ?」

「どこまでも」

「……えっと」

「ふふ、ごめんなさい。あの突き当りまで行きましょう」


 沙希亜が指を向けた場所まで歩き始めた。不思議なことにそこまで向かうのに誰にも出会うことはなかった。それこそ生徒だけでなく、近所に住む人にすら誰にも会わなかった。


(珍しいこともあるもんだな)


 ペットの散歩をしていたり、或いは夫婦で散歩するお爺さんお婆さんにはいつも会っていたのでこうも人に会わないのは珍しい。少し歩くとすぐに沙希亜が示した突き当りに辿り着いた。

 翆は別れる前に少し話がしたいと思い沙希亜に視線を向けた。


「なんか今日は色んなことを知った日だったよ」

「でしょうね。私が翆君の立場なら同じことを思うわきっと」


 人ならざるサキュバスとの出会い、それは翆にとってこれ以上ない驚きだろう。それこそこれからの人生でこれ以上の驚きは絶対にないはずだ。正直なことを言えばいまだに完全に信じきれたわけではない、けれど沙希亜のことは大切なクラスメイトとしてその秘密は絶対に守ると約束した。


「沙希亜の秘密、絶対に守るから。誰にも言わないと誓うよ」

「うん。ありがとう……ふふ、別にそこまで言わなくても良いのよ? 翆君は絶対に口外しないって分かってるから」

「……なんか妙に信頼が厚いのがくすぐったいな」


 放課後に沙希亜とこうして仲良くなった翆だが、どうしてこんなにも沙希亜は翆のことを信頼しているのかが分からない。距離も近いし心を許してくれていることも伝わってくる……いやらしい話、彼女と密着していた時間は幸せだった。まあ彼も思春期の男子高校生というわけだ。


「そんなに嬉しかった? あの用具入れでの出来事は」

「っ!?」


 まさか言い当てられるとは思わず、翆は思いっきりビックリした。クスクスと口元に手を当てて笑う沙希亜を直視できず、翆はつい下を向いてしまった。いやらしい男だと思われただろうか、そう不安になったその時――彼はまたあの感触を味わうことになった。


「翆君」

「沙希亜!?」


 ピトッと、沙希亜が翆に抱き着いたのだ。

 翆の脇の下に彼女の腕が通って背中に回される。つまり、彼女は思いっきり翆の背中に腕を回すようにして抱き着いている。正面から感じる圧倒的な柔らかさ、それは制服越しにも感じるほどだ。


「私、翆君に会えて良かったわ。こんなにも優しい人、絶対に会えないって思ったから」

「……俺は普通だと思うけど」

「ううん、普通……なのかもしれないけれど私にとっては特別なの。サキュバスだからこそ分かる特別なのよ」


 サキュバスだからこそ分かる特別、それは当然翆には分からない。沙希亜にしばらく抱きしめられた後、翆は彼女と別れた。ヒラヒラと手を振った彼女の背が見えなくなるまで、翆はジッと沙希亜を見つめていた。


「……いてっ」


 今までのことは全て夢なのでは、そう思って頬を抓ったが夢ではなかった。誰もが憧れる美少女と蜜のような時間を過ごしたことは絶対に忘れられない記憶になるだろう。それがたとえ一度きりのことだとしても、翆の記憶に深く刻まれた出来事なのは違いない。


「……また明日、沙希亜」


 まだまだ名前を呼ぶのは少し恥ずかしいが、胸の内はとても温かかった。それから自宅に帰った翆だったがお風呂に入った時、夕飯を食べている時もずっと沙希亜のことばかり考えていた。


(マズイ……全然沙希亜のことが頭から離れん)


 彼女のことが気になってしまって仕方ないのだ。それは恋……というよりも、今日の出来事があまりにも強烈過ぎたせいだろう。


「大丈夫? さっきからずっとボーっとしてるけど」

「あぁ。まさかイジメられたりしてるのか?」

「え? あぁいや違うよ。ちょっと気になる人が出来て……」


 母と父に思いっきり心配された。だが、気になる人が出来たと伝えると心配そうな視線がすぐに微笑ましい物に変化したが……翆としてはやっちまったと後悔した。


「……はぁ」


 部屋に戻り、ベッドの上に横になって翆は今日のことを思い返した。


「……どんだけ気にしてんだよ俺は」


 ある程度考えたところで翆は頭を振った。

 沙希亜と約束したように、彼女の秘密を口外するつもりはない。オーバーかもしれないが墓まで持って行く覚悟だ。


『信じてるわ』


 あんな風に力強く信じていると言われてその言葉に応えない男は男じゃないだろ、そう翆は自分に言い聞かせる。今日の出来事は決して嘘ではなく、何か大きな変化を齎したのは言うまでもないだろう。明日から何が変わるのか、怖さ半分期待半分と行ったところだ。


「ふわぁ……眠たいな。よし、今日はもう寝るか」


 思った以上に翆は疲れているらしい、もう失敗してしまった小テストのことがどうでもいいほどに沙希亜のことで頭の中が塗り潰されてしまったが、これも青春かと翆は笑う。


「おやすみっと」


 電気を消して目を閉じればすぐに眠気がやって来る。

 そうして彼の意識は闇に沈んだが、トントンと肩を優しく叩かれる感触を感じて翆は目を開けた。


「……え?」

「こんばんは、翆君」


 目を開けた彼の目の前に彼女が、沙希亜が居たのだ。

 ここは翆の部屋なので彼女が居るはずはない、しかも彼女の装いは制服ではなくピンク色のパジャマだった。綺麗な彼女に可憐さを付与するような可愛らしい模様のパジャマではあるものの、胸元はとても窮屈そうにパツパツだ。


「……あ、夢かこれ」


 夜に自分の部屋に彼女が居るはずがない、そんな簡単な答えに気付いた時翆はこれが夢だと気付いた。妙に鮮明な夢だが、そうだと思えば一気に気分は楽になった。


「……ふふ、そうね。これは夢だわ。ねえ翆君、何かしてあげようか? 現実では出来ないこと、何かして欲しいことはある?」

「して欲しいこと……ちょっと恥ずかしいことでも大丈夫?」

「全然大丈夫よ。翆君の言うことは何でも応えてあげる。何でもしてあげるわ♪」


 彼とて男なのである。

 現実では出来ないことを夢ですることに何を遠慮する必要があるのだろうか。夢ならば欲望のままにいやらしさを解放しても誰も文句は言わない。


「その……」


 翆は願った。

 その男の夢が大いに詰まった胸で癒してほしいと口にしたのである。夢に現れた沙希亜は断ることなく、任せてと言って翆のベッドに上がって来た。


「翆君は大きな胸は好き?」

「小さいより好きかな」


 それはただの翆の好みだが沙希亜は嬉しそうだ。


「そう、なら私のおっぱいは翆君の好みってことね。ふふ♪」


 それから翆はとても素晴らしい夢の世界を過ごした。

 あまりに鮮明過ぎて現実と間違えそうになったほどだが、全てが終わった時には朝になっていた。


「……物凄い夢を見てしまった」


 翆はそう呟き、学校で沙希亜とどう接すれば良いのか悩むことになるのも仕方のないことだった。

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