これが彼女の真実だ

「……ふふ、良いわね……ってダメよ沙希亜。そんなだから母さんと姉さんにチョロいって言われるのよ……っ!」


 目の前に座る男子生徒、翆の背中を見つめながら沙希亜は呟いた。

 翆は彼女に対して何を言われるのか、何をされるのか、そして先ほどどうして手が付かなかったのかという問いかけに動きを止めるほどだったが、実を言うと沙希亜は彼に対して何か酷いことをしようとは考えていない。それどころか、訳があって彼女は少し翆のことが気になっているのだ。


(……私ったらどうしてこんなに彼のことを……ああもう!)


 気になって仕方ないのだとここが自室だったら叫び出す勢いだ。

 そもそも、今まで沙希亜は翆との絡みはそんなになかった。席が前と後ろだとしても会話をすることはそんなになく、プリントの受け渡しの時にチラッと視線が合うかどうかだった。


 そんな彼女がどうしてこんなにも翆のことを気にするのか、それは昨日の出来事が全ての発端だった。


 沙希亜は人ではなくサキュバス、それは隠された真実だった。

 人ではない存在であり、人間よりも丈夫な体を持ち同時に特異な力を持つ。正にこの世界において常軌を逸した存在なのだ。

 秘匿された存在だが、昨日は気を抜いた拍子に翆に見つかってしまった。見られたことに驚いた沙希亜だが翆は所詮ただの人間、魅了の力の応用で記憶を消すことくらい造作でもなかった……しかし。


(完全に覚えてる……わよね。この反応だと)


 学校に着いた時、まさかと思って翆を見た瞬間に記憶が消えていないことに気付いた。まさかとは思ったが、それが逆にこうして沙希亜を悩ませる種になったのだ。


『いいこと沙希亜、私たちサキュバスにとって純粋な恋愛は難しいわ。サキュバスとしての特性に釣られて惚れる男は数多く居るとは思うけれど、純粋に愛してくれる人はそう居ないの』


 幼い頃より母からこう伝えられていた。

 その言葉の意味は当然理解できており、別に沙希亜は困らなかった。その話を聞かされた小さい頃から醜い男の欲望をその身に視線として受けていたのである。だから恋愛なんて絶対にしない、男なんて必要ないと彼女は思っていた。


『でもね、稀にサキュバスの魅了に抗う……いいえ、解けた時に全て憶えている特別な男性が現れることがあるの。どうして効かないのか、それは潜在的にその男性とあまりに相性が良すぎることを意味するの。目の前の男を逃がすなって無意識にサキュバスの本能が魅了を打ち消してしまうのね。それが隠された私たちの特性の一つ』


 あり得ない、こんな話を聞いたところで何も変わらない……沙希亜はずっとそう思っていた。それなのに今、彼女は思いっきり目の前の男子を意識している。


「……咲場君……かぁ」


 甘い声音と共に彼の名前を呼んだ。

 小さい声だったので翆には聞こえていないが、彼の名字を口にした瞬間何とも言えない温かさが胸に溢れた。沙希亜の隣に座る女子がチラッと彼女を見て顔を赤くしたが、今の彼女は凄まじいほどのフェロモンを垂れ流しているのだ。


「あり得ない……あり得ない……でも、昨日から私は……」


 昨日の放課後、翆の記憶を消して安心していたのだが……その帰りから何とも言えない胸のトキメキを感じていた。そう、彼女はその時から翆のことが気になっていたのである。


『綺麗だな……小清水さん』


 サキュバスの魅了に掛かった時、少なからず人間の本性は現れる。大抵の人間は大人しくなるが、分かりやすいほどに目の前の極上の女である沙希亜に襲い掛かりたいと心のどこかで考えているのが雰囲気で分かるのだ。しかし翆はそうではなく、彼は純粋な気持ちから沙希亜が綺麗だと口にした。


『サキュバスは人を写す鏡、その人が信頼出来る人であれば恋をするの。サキュバスと人間、その垣根を飛び越えてその相手を愛したいとサキュバスの……ううん、女としての本能が求めるのよ』


 ずっと、戯言だと思っていた。

 だが……沙希亜は翆の背中ばかり見つめ続けている。授業をする先生の話は一切耳に入らず、翆のことばかりをずっと考えているのだ。


「……はぁ」


 甘い吐息が零れた。

 彼に魅了が効いていないということは沙希亜がサキュバスであることを憶えているということだ。だが周りの誰にも伝えた形跡はなく、沙希亜に対して何も聞いてこないのは彼の優しさだろうか。


「それじゃあここを……そうだな。小清水」

「……………」

「小清水?」

「っ……はい」


 今は数学の時間で、どうやら問題を解くようにと指名されたのだろう。

 沙希亜は慌てるように立ち上がり、多くの視線が集まる中黒板の前に立った。特に考えることもなく、長い公式と共に答えを導いた沙希亜に先生は頷いた。


「正解だ。流石だな小清水」

「いえ、日頃から先生が分かりやすく教えてくれるからですよ」

「ははは、そうかそうか」


 機嫌が良くなった先生だが全く持ってどうでも良かった。

 問題を解き終えて席に戻る途中、沙希亜は翆と目が合った。その瞳から感じたのは問題を解いたことによる尊敬の念と、沙希亜と目が合ったことで生じる照れ臭さのようなものだった。


(……マズいわ。心臓がずっきゅんばっきゅんしてる!)


 男子生徒たちの憧れ、Hカップの胸の奥はうるさいくらいに鼓動している。これも全て原因は翆のようなものだが、このドキドキが沙希亜にとって何とも心地良いのである。正に恋、心なしか沙希亜の瞳にハートマークが浮かんでいるようだ。


「……ふふっ」


 彼の横を通る際、つい笑みが零れてしまった。サキュバスだと知られて住む場所を変えたこともあるが、その度に新しい環境に慣れるのも大変だった。


「……あ」


 そして今彼女は気付いてしまった。

 もしもサキュバスだと周りに知られた時、当然またここから去ることになる。魅了の力で忘れさせれば簡単だが、あまりにも多くの人に使うと悪影響が出てしまうので逃げ出すしかない……だが、今度はそうなると翆と離れることになる。それを考えると途轍もないほどに胸が張り裂けそうになった。


(嫌よ……いやいやいやいや! 私は……あぁダメ、認めるな……私は咲場君のことなんて何とも思ってない……気になってる……どうしようもなく気に……うがあああああああああっ!!)


 そもそもサキュバスとしての彼女を受け入れてくれるかどうかがそもそもの問題だが、今の彼女にはそこまで頭は回らないらしい。


 小清水沙希亜、彼女は十七歳の六月……初めて気になる人が出来たのだ。





「確かここだっけな……あぁあった」


 放課後、その日はあれ以降翆に対しては何事も起きなかった。ふと視線を感じることはあったがそれだけで、彼女から何もアクションがなかったので翆は心から安心していた。

 翆は部活に入っていないので放課後になると後は帰るだけだが、不運にも担任に資料を仕舞ってくれと頼まれたのだ。面倒ではあったが、翆としても別に断るほど急いでもなければ用事があるわけでもなかったので資料の入った段ボールを受け取った。


「よし、これで終わりっと」


 先生から受け取った資料を棚に仕舞い終え、これでようやくお役目ごめんだ。帰りにコンビニにでも寄って何か食い物でも買おうかと思ったその時、薄暗かった資料室の戸が開いた。


「……?」


 一体誰が、まさか先生かと思って振り向くと……そこに居たのは翆にとってあまりにも予想外過ぎる人物が立っていた。


「こんにちは。咲場君♪」

「……小清水さん……?」


 サキュバス少女である沙希亜がそこには居た。

 満面の笑みを浮かべて中に入った彼女はそのまま翆に近づいてくる。一体どうしてここに来たのか聞こうとしたが、沙希亜が傍に来たことで彼女から放たれる甘い香りが鼻孔をくすぐる。


「ねえ咲場君、あなたと話がしたいの。少しどうかしら?」


 甘い声音と共にそう告げられた。

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