2.好きやねんけど。

「サトミって言います〜サトミちゃんって呼ばれてます〜先生はなんて呼んだら良い〜?ニックネームとかある〜?」


 その日彼と初対面だった彼女は、居酒屋で自己紹介から始めた。語尾を伸ばす話し方は、緊張感を和らげる。さすがだなぁ、と、私は感心していた。それもそのはず、彼女は割烹居酒屋の女将だった。場の空気を瞬時に読んで判断できる能力がある。その雰囲気とは違い、国立大学を出ていると知った時は、とても驚いたものだ。


「僕は立花タカトシって言います!タッチンとか、たっちゃん、て言われてます……」


 語尾に少し照れが入っていた彼を、可愛い人だな、と思った。じゃあ、たっちゃんね!と、サトミちゃんが決めてから、私のスマホの彼のLINEの表示名は、立花先生、から、たっちゃん、になった。



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 翌週、無事試合に参加する事が出来た。セオリーどころか、ルールすら度外視の彼のテニスに、私は涙が出る程笑い続けていた。楽しくて楽しくて仕方なかった。

 ポイントごとにハイタッチを交わし、その大きな手にも少しときめいた。男性の手に触れるなんて、何年ぶりだろうか。

 勝敗など、どうでも良かった。ただ、こんなに楽しいテニスがあったのかという感動でいっぱいだった。


 そしてあるハイタッチの瞬間、彼は一瞬、私の手を握った。


 驚いて顔を見上げると、彼は困ったような表情で目を逸らした。


 試合内容も対戦相手も、何も覚えていない。ただあの時の表情と、握られた手の感覚だけが鮮明に残った。




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 応援に来てくれていたサトミちゃんの提案で、後日反省会をする事になった。しかしサトミちゃんは女将だ。夜は仕事で、なかなか都合が合わない。


「サトミちゃんの都合がつく来月にするか、二人でも良ければ私は来週でも行けるけど」


 彼は、迷いなく、二人で行こうか!と答えた。私はおそらく、彼の答えを知っていた。



 反省会はサトミちゃんのお店に行く事にした。私は二人きりになることを少し恐れていた。それはきっと、私が自分の感情に気付いてしまう事に対する恐れだった。

 その日は偶然にも、私の誕生日の前日だった。彼はプレゼントを用意してくれていた。たまたま誕生日前日なんて、運の良い奴やなぁ、なんて言いながら。

 何を話したかなんて覚えてはいない。おそらくテニスの話はしていなかっただろう。楽しい時間はあっという間に過ぎる。

 店を出て、十月の夜風に当たりながら、少し散歩する。私はあの時の手の感触が忘れられなかった。そっと、手に触れてみる。

 彼は私の手をしっかりと握り返す。手を繋いて歩く。立ち止まった彼は、私を見て言った。


「好きやねんけど。」


 驚きはなかった。でもその時の私には、自制心があった。本気になってはいけない。私にも彼にも家庭がある。私は子供の頃から、婚外恋愛に嫌悪感を持っていたのだ。


「私もだーーーーーーい好き!!」


 幼い息子達に言っていたような口調で、私は言った。私は冗談にしたかった。でも……それは無理だった。


 彼は私の手を引き、抱きしめた。私は、抗えなかった。

 30センチ近い身長差。長い手足と鍛えられた厚い胸板。落ちた瞬間だった。私は息苦しさで顔を上げる。私を見つめる彼は、そのまま私にキスをした。




 結婚して12年が経っていた。息子達は小学校高学年になり、手がかからなくなって来ていた。夫婦が男と女でなくなってから、8年が経っていた。いわゆるエリートと言われる夫、高級住宅街の一軒家、何不自由ない、不自由な生活。婚家は、女は家にいるべきだという所謂いわゆる昭和的な、田舎の古い考えの家だった。働くことも、許されてはいなかった。

 私は、子供達だけを生きがいにしていた。そして多くの女性がぶち当たる、40歳の壁に、正しく苦しんでいた時期だった。

 

 このまま、もう誰にも抱きしめられることなんてないんだろうな……


 いずれ巣立っていく子供達、私には何が残るんだろうか、と。このまま消化試合のような人生を送るのか、と。一人考えては、虚無感に押しつぶされそうになり、涙が溢れた。そう、ちょうどそんな時だったのだ。


 「日が変わるまで、一緒にいて」


 家に帰りたくなかった。中年主婦である現実に戻りたくなかった。まだ、このキラキラした時間の中にいたい。

 彼は私を馴染みの店に連れて行き、ずっと私の手の甲を撫でていた。日付が変わる。私は彼の元で、41歳になった。


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