習作2 ぬるま湯
爪先に触れた熱が、血管を通じてじんわりと広がっていく。土踏まずを過ぎて、踵が沈んで、ふくらはぎが浸ったその後、太ももから急に伝わるお湯の感触に、思わずため息が漏れ出てしまった。
ゆっくりと全身を沈めながら、初めは少し熱い湯船の中で体を伸ばす。浴槽の縁に両手をかけながら、ぼんやりと視線が彷徨わせる。黒っぽい壁の手前で浮かぶ湯気、白く曇って仕事をしない鏡に、僅かに水滴が垂れるシャワーヘッド。なんの変哲もない、見慣れた浴室だった。
何をするともなく瞬きをいくつか繰り返してから、意味もなく鼻歌を歌い始める。聞き覚えのあるメロディを何小節か演奏した後で、なんの曲か思い出せないことにようやく気がついた。教室内で垂れ流されていたクラスメイトのハマっている曲か、はたまた流行りのドラマの主題歌か……正体なんて気にしないまま、続きのわからないサビを延々とリピートし続ける。
それに飽きたら、今度は知っている曲を演奏する。通学中に持ち歩いている好きな歌手の曲を小声で口ずさみながら、お湯からはみ出した足先でリズムを取ってみる。結局高音が出せなくて、興が削がれて黙り込んでしまった。
風呂場っていうのは静かなものなんだと、そこでようやく気がついた。音楽が止まったその空間に、桶に滴る水の硬い音が、嫌に大きく響いていた。
静寂に身を任せていると、ちらちらと考えたくもないことが脳を掠めていく。再び口から漏れ出たため息は、湯船の浮遊感と混ざって意識を水底へと引き込んでいった。温かく重たい瞼の裏側で見える風景は、どれも自分が見たくなかったもの。現実から逃げたくて、人は風呂場で歌うのかもしれないなんて考えが浮かんだけれど、すぐに無意識の底に沈んでいった。
机の上で広げっぱなしの、早くに終わらせなきゃいけない課題の山。
あと一分で発射しようとしている通学列車に、間に合おうと息を切らせて登る階段。
自分の部屋に引っ込んだ後に、リビングから聞こえてくる両親の口論。
自転車に轢かれた惣菜パンと、それを啄んでいる大きなカラス。
鏡に向かって、笑顔の練習をしている自分と目が合った瞬間。
痛っ
左手にお湯が染みて、思わず目が覚める。勇気もないくせに手が滑った切り傷が痛む。お湯に入れないようにしていたのに、眠った拍子に水没したらしかった。
三度目に吐いた溜め息の後、浴槽から重くなった体を引き上げる。いつまでも、ぬるま湯に浸かっていたくは無かった。
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