二章 常夜桜②
「妖の頭領と言っても、俺と同じように守護領域を管理している者は
玖遠に屋敷を端から端まで案内されながら、沙夜は妖の世界について教えてもらっていた。妖は本来、人間が去った古い屋敷や
実際に妖の本質は自由気まま、
玖遠の守護領域は四十町程の広さがあり、結界で山を二つ囲っている。その
「他の土地にも妖は棲んでいるけれど、彼らは俺の庇護下じゃないからね。さっきも言ったように中には人間を喰う奴もいるから、もし見かけても近付かないようにしてね」
「は、はい……」
「それと守護領域内だとしても、屋敷の外に出る時は白雪を連れて行くんだよ」
「お供なら、お任せ下さい!」
胸を張りながら明るく返事をしたのは、
だが、沙夜が何よりも気になっているのは、先程から視界の端に映る、様子を見に来ている妖達の存在だった。玖遠や白雪のように
彼らから向けられる視線は、決して心地よいものではなかった。
「……頭領が人間を
「俺達はまだ夢の中にいるんじゃないか? だって、お役目一筋の女
「今、朝。夢、違う。でも、確かに、あの人間、貧相……かも?」
「……
灰色の毛並みを持つ妖狐が銀竹で、尾が付け根から二つに分かれている二足歩行の
「全く、覗き見とは良い
「よ、様子見ですよ、様子見! 頭領のお相手はどんな人間かなぁと思って!」
銀竹が苦笑しながら
「……まぁ、良い。屋敷を案内した後、お前達に沙夜を
玖遠が沙夜の背中に手を当てた時だ。
「──あら、紹介なんてしなくて宜しいですわ。人間の
「人間なんて、ずる
その妖は沙夜に冷めた瞳を向けてくる。そこには敵意のようなものが宿っており、沙夜は小さく
……人間が妖を
人間が妖を
「……
玖遠がその妖の名を呼んだ
周囲の妖達の中には逃げ出す者もいれば、
妖達の様子を見て、はっとした沙夜は顔を上げた。玖遠の横顔がわずかに見えたが、彼は
彼の横顔はぞっとする程に冷たく、沙夜は
「それ以上、沙夜を
「っ……」
屋敷の中に木々が
「……落ち着いて下され、玖遠様。このままでは屋敷が
突如、その場に響き
風香の後方からひょっこりと姿を現したのは、よぼよぼとした足取りの犬の妖だった。
「あなた様の妖力の圧をこの老体で受けると、少しばかり
玖遠は真伏という犬の妖の方に視線を移すと一度目を閉じ、ふぅっと深い息を
そのことに沙夜は
「……悪かったな。最近は
「いいえ、いいえ、あなた様がその大き過ぎる妖力を制御するために、どれ程修練を積まれたのか、わしは深く存じております。玖遠様が『頭領』として、立派に務めていることも。……ですが、このたびの
真伏の声色は
「あなた様の結婚はとても喜ばしいことだと思っております。……しかし、相手が人間となると、我ら妖も、はいそうですかとお祝いするのは難しいのです」
真伏は玖遠を見上げていた顔を沙夜の方へと向けてくる。瞼は
「ここには人間に傷付けられた際に、助けて下さった玖遠様を
真伏が言っていることは正しい。沙夜も自分が彼らにとっての異物だということは自覚しているし、最初から受け入れられるなんて思っていない。
「現に、あなた様のお母君である先代頭領が『
「──真伏」
玖遠が少し苦い表情を浮かべ、真伏の言葉を
「……もちろん、先代頭領達が苦労していた話は知っている」
「だが、全て承知の上で、彼女を妻にすると決めたんだ」
そう言って、彼は一歩後ろで
「っ……!?」
密着した
「俺が沙夜を娶ることを祝福しろとは言わない。ただ、彼女に害をなすな。……それだけを
父の手から
「……そこまで強い
「ああ。俺にはもう、沙夜を娶らないという
玖遠の返答に、真伏は深く息を吐く。それは呆れではなく、
「ならば、あなた様のご意思に従いましょう」
真伏は静々と頭を下げる。他の妖達も戸惑っているようだが、沙夜を追い出そうという意思は見受けられない。
だが先程、反する言葉を告げてきた風香だけは
「ほら、
玖遠が手をぱんっと
「……沙夜。さっきから、ずっと固まっているけれど……。
玖遠からの問いかけに、沙夜は一瞬だけ肩を
……今はこんなにも穏やかな表情をしているのに、先程の玖遠様は……まるで別人のようだったわ……。
特に風香を睨んでいた際の金色の瞳は、自分に向けられたわけではないというのに、背筋が凍りそうだった。自分にとっては
「……やはり、妖は
玖遠には沙夜が
「いいえっ。そういうわけではないのです」
沙夜は思わず、玖遠の
自分の知らない玖遠の一面を見てしまい、少し驚いただけだ。だが、先程の頭領としての玖遠を見ても、怖いという感情は生まれて来なかった。
「確かに妖の中には恐ろしいものもいるでしょう……。ですが、妖は決して、恐ろしいだけの存在ではないと思うのです」
目の前の玖遠のように、心優しい妖がいることを自分は知っている。他にも、と考えた時、
……あの子は……「玄」は今も元気にしているかしら……。
玄とは二度と会うことは
「……君は屋敷から出られなかったと聞いていたけれど、妖と会ったことがあるのか?」
「実は幼い
「……そうか。幼い君にとって、その妖との思い出が少しでも
沙夜が顔を上げれば、そこには優しい目をした玖遠がいた。
喜ばれるようなことは言っていないはずだが、と首を
「玖遠様。もう一通、便りが届いたのでそちらにも返事を書いて頂きたいんですが」
背後から
よく見ると、青年は
「ああ、八雲。ちょうど良い時に通ったな。彼女が俺の妻となった沙夜だ」
「……」
八雲と呼ばれた妖は
「……とりあえず、早く返事を書いて下さい。以前のように、十日も放置するようなことはなさらないで下さいよ。いい加減にしないと、相手方の気に
「分かってはいるんだが、返事を書くのは苦手なんだよ」
「だから、こうやって早めに書くようにと申しているのです」
そう言って、八雲は玖遠に紙の束を押し付けるように持たせ、彼の背中を押しながら
「ああ、もう、分かったから、押すなって! ……お前は真面目で良い
玖遠は深い
「沙夜。また後で案内をするから、さっきの部屋で待っていてくれる? すぐに
「あ……。ど、どうか、私のことはお気になさらず……」
玖遠は申し訳なさそうな顔をしていたが、やるべきことをさっさと片付けようと、その場から早足で去っていった。一仕事終えたと言わんばかりに八雲はふっと短く息を吐き、
「……言っておくが、僕はお前を玖遠様の妻として、認めたわけじゃないからな」
「っ……」
八雲はそれだけを言い残し、ふんっと鼻を小さく鳴らして、玖遠の後に付いて行った。
彼の一言に対して、どのように返事をすれば良かったのだろうと沙夜が戸惑っていると、白雪が袖を小さく引いたため、振り返った。どうやら、白雪にも八雲が沙夜へと言い放った言葉がしっかりと聞こえていたらしい。彼女は少しだけ困ったような顔をしていた。
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