一章 夜半の逢瀬①

「──何だ。まだ、これだけしか仕立てられていないのか。どんくさやつめ」

 不満そうな声を上げたのは、の父であるさかきばらそうえんだ。彼はこのさいりゆうこくを治めるみかどに仕えている貴族の一人だというのに、よそおい以外はで横暴な性格をしている。

 乱暴な言葉を受けた沙夜は身を縮ませながら、父に向かって頭を下げた。

「……申し訳ございません」

 視界のはしに映るのは、自身が仕立てて積み上げた三枚の衣。さわるだけで最高級の布地だと分かる衣は、すべて沙夜が一人で仕立てたものだ。一日に一枚の衣を仕上げるのが限度だというのに、父は五枚分の衣を三日で仕立てろと、ちやを要求してくる。

 けれど、仕事量が多過ぎると反論することも出来ないのは、そのような態度を取れば、せつかんが待っていると知っているからだ。それゆえに、たとえ使用人以下のあつかいを受けようとも、父に命じられるまま毎日、針仕事をこなすだけの日々を送っていた。

「まぁ、良い。しんぼくほうのうするための領巾ひれは先に仕立てているんだろう?」

 さいそくのような言葉に、沙夜は別に仕立てていた赤い領巾をたたんだ状態で前へと出した。父はにやりと笑ってから、赤い領巾を引っるように取った。

「よし、よし。ちゃんと出来ているな。……これがあれば、御神木も喜ぶだろうよ」

 沙夜は「御神木」を見たことはない。ただ数年程前から、「御神木」に奉納するための領巾を仕立てろと命じられ、それから毎月一枚ずつ仕立てるようになった。

「こっちは追加の布地だ。おうの布地は直衣のうしに、くれないひとえに仕立てろ」

 父は沙夜に向けて、布地が入っている布の包みを投げわたしてくる。そして、仕立てた衣はまるで宝物を扱うように大事に手に取り、先程の領巾と一緒にうでの中へと収めた。

「どちらの衣も、怪我の回復だ。ちゃんと『いのり』を込めて、仕立てるんだぞ」

「……はい」

 理由は分からないが、沙夜が仕立てる衣には不思議な力が宿るらしい。その衣をまとう者は富をさずかったり、病気や怪我が全快するなど理解しがたい加護を得るという。

 その衣を父は多方へと売りさばき、かなりもうけを出しているようだが、それらの利益が沙夜のふところに入ることはいつさいなかった。

 ……私はただ、この人にとって、利益を得るための道具にしか過ぎないもの……。

 父から家族としての情を与えられたことなどなく、沙夜はいつしか期待するのをめた。彼から与えられるのは、住む場所と貴族のひめぎみるには質素過ぎる食事だけで、着ている衣さえもだんの針仕事で余った分をぎしたものだ。

 唯一、沙夜の身を案じていた乳母も数年前に亡くなっているため、親身に接してくれる家族は一人もいなかった。

 ……この力さえなければ、今よりは自由な生活が送れていたかもしれないわね。

 どれ程、沙夜が望んでも、この不思議な力は沙夜自身を「幸せ」にはしてくれない。だれかの幸福と引きえに沙夜へと不幸を運んでくるのだとしたら、まるでのろいのようだ。

「とにかく、期日までに仕上げろ。でなければ、食事は無しだ」

「……はい」

 仕事が終わっていないからと、食事をかれるのはめずらしくないことだ。

 催促した後、父は早々と立ち去ろうとしていたが、何かを思い出したのか、きざはしを下りる前に振り返った。

「おお、伝えるのを忘れるところだった。……めでたいことに明日お前も成人の日をむかえることになる」

「……ですが、世間の姫君の成人よりもいくぶんおそいのでは……」

 世間の姫君の成人は十二、三歳頃だと昔、乳母に教えてもらった。そのとしに成人のとなるは一切行われなかったので、すっかり忘れられているのだろうと思っていた。

「榊原家において、成人となるのは十六と決まっておってな。……ああ、実に喜ばしいことだ。沙夜も明日を楽しみにしているといい」

 明日もまたここをおとずれるような物言いで告げ、父はかろやかな足取りで門から出て行った。裳着をやるのかと思ったが父は沙夜に金を使うことを嫌がるため、あり得ないだろう。

 ……何故なぜかしら……。胸の奥がざわついて、落ち着かない……。

 父のげんが良い時は、たいがいが沙夜にとっては良くないことが起きる前兆だ。

 胸の奥でうずく不安をどうにかやわらげようと、沙夜は庭へと視線を向けた。

 松のが一本だけ植えられた寂しい庭にはにごった池がある。その池から少し離れたところに大きな庭石が置かれており、沙夜はそれをじっと見つめた。そこは沙夜にとって、彼と出会った特別な場所だった。

 ……あの方に会いたい……。早く夜にならないかしら……。

 心がり切れそうな日々を送っていても、折れることなく過ごせているのは、唯一のり所と呼べる存在が沙夜にもいるからだ。会いたいと言っても、直接、顔を合わせるわけではない。それでも、彼の声がどうしてもきたかった。

 ……あのついの向こうに行けたら、良いのに。

 沙夜は住んでいるこの小さなしきから出ることを許されていない。二、三人程度しか住めない広さの屋敷は高い築地で囲われており、唯一、外とつながっている木製の門は常に外側からかぎがかけられている。

 一度だけのぞき見た門の外には、広い庭と父達が住まうごうしやほんていが建っているのが見えた。そして、その本邸と沙夜の屋敷を丸ごと囲んでいたのは、高くて長い築地だった。二重の築地で囲われている以上、簡単にげ出せない造りとなっていることを知り、沙夜はこの屋敷から逃げることをあきらめた。

 そのころに出会った「くろ」も約束を残したまま、もう数年程会っておらず、沙夜の心には再びくうきよが生まれつつあった。そんな時に出会ったのが、彼だった。

 ……きっと、今夜も来て下さるわ。

 沙夜はむなもとこぶしをぎゅっとにぎり締める。き出せない不安をいだきながらも、彼との時間を確保するために再び針を持った。


    ● ● ●


 ……何とか、日をえるまでに一枚、仕立てられた……。

 残り一枚は明日、早起きしてからやろうと沙夜ははりばこを片付ける。立ち上がってからとうだいの火を息でき消し、少し急ぎ足で庭へと向かった。

 築地のそばに置かれている庭石へと辿たどり着いた沙夜は、そこへとこしける。

 思わず、短く息を吐いた時だ。築地の向こう側から、こつこつとかべたたく音がひびき、沙夜ははっと顔を上げた。

 今夜も来てくれた、といううれしさを胸の奥へと押し込め、築地の壁を手で二回、叩いた。それは「彼」との間で決めた合図だ。

「──こんばんは、沙夜。……今日は月が明るい良い夜だね」

 壁越しに聞こえたのは、やさしくも真っき通った声。

 声がはっきりと聞こえるのは、庭石のすぐ傍の築地に四寸ほどの穴が開いているからだ。それはかつて、外の世界がどうしても見たくなった幼い沙夜が小石でった穴だったが、思っていたよりもかたく、ちゆうけずるのを諦めてしまった。

 身体からだは通せない小さな穴だが木の幹で上手うまかくれているようで、今まで父達に見つかったことはない。

 沙夜ははやる気持ちをおさえつつ、あいさつを返した。

「……こんばんは、おん様。今夜も晴れて、良かったです」

 沙夜にとっての心の拠り所、それが「玖遠」という名の青年だった。

 彼との出会いは半年程前にさかのぼる。針仕事が終わらず、うつくつした日々を送っていた沙夜が、気晴らしに庭石に腰掛け、星空をながめていたら声をかけられたのだ。

『──そんなにつらそうなためいきいて、どうしたんだ』

 とつぜん話しかけられてもちろんおどろいたが、それでも久しぶりに他者からづかう言葉をかけられた沙夜は相手が誰なのかも知らないのに、ついこぼしてしまった。

 その日からひそやかなおうが始まった。玖遠は三日に一度、夜半にだけ訪ねてくるようになり、沙夜の話に親身に耳をかたむけては気遣う言葉をくれた。また、彼が教えてくれる外の世界についての話はどれも心がき立つ程にてきなものだった。

 玖遠が何者なのかは分からない。だが、たとえ名前しか知らなくても、彼が優しい人だということだけは知っていた。

 いつも通り外での出来事を聞かせてくれる彼の低くおだやかなこわいろに、こわっていたものが解けたように思わず深い息を吐いた。

「……また、溜息を吐いたね。今日も父親に何か言われたのか?」

「っ……。玖遠様は何でもお見通しなのですね……」

「沙夜はすぐにかかえ込んでしまうから、俺からたずねないと愚痴も吐き出さないだろう? ……それで、何と言われたんだ?」

 いつだって、沙夜が密かに抱くものに気付き、吐き出させてくれるのは玖遠だけだ。ほかの誰にも言えないことを彼に話すだけで心は軽くなるし、気が楽になる。

 それがどれ程、沙夜にとって心の支えになっているか、彼は知らないだろう。

「大したことではないのです。……ただ、明日で私が十六となり、成人を迎えると言われまして」

「……十六、か。それなら、お祝いしないとな」

「お、お祝い、ですか……?」

 今まで祝われたことなどない沙夜は、その言葉に心がわずかにはずんでしまう。

「ふむ……。そういえば以前、桜の花を見てみたいと言っていたね」

「えっ、あ、はい……」

 春を告げるうすべにいろの美しい桜が、玖遠が一番好きな花だと聞いて、見てみたいと思ったのだ。

「お祝いの品とは言いがたいかもしれないけれど、君に桜の枝をおくるよ」

「そんな……申し訳ないです。成人すると言っても、今と何かが変わるわけではありませんし……」

「沙夜にとって大事な日だからね。……俺はこうやって、夜に訪ねることしか出来ないから、せめて桜の枝だけでも俺の代わりに沙夜の傍に置いてやってくれないか」

 玖遠の言葉を受け、沙夜の心臓は小さくねた。胸に手をえても、その音が収まることはない。

 彼があたえてくれる言葉や気遣いは、まるで足りないものを補うようにめてくれた。

 ……私はもう、この方がいないと、なのかもしれない……。

 きっと、玖遠と出会う前の自分にもどることになれば、この空虚な日々にえられないだろう。彼だけが、沙夜に明日を生きる力を与えてくれるのだから。

「……では、楽しみにしていますね」

 沙夜がそう答えれば、玖遠があんするように笑った気配がした。桜の枝を贈ってくれること以上に、玖遠が祝ってくれることが嬉しかった。

 ……やっぱり、玖遠様といつしよにいると、どんな不安もうつなことも晴れてしまうわね。

 一人ではどうにもならなかった形容しがたい不安は玖遠のおかげでぬぐわれていき、沙夜の心にはやっと穏やかさが戻ってきた。

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