8.夏の果て
まただ。また俺の大切な人が手のひらからこぼれ落ちていく。
「りんたろう」
小夜は少し躊躇ったのち、名前を呼んで、俺を抱きしめた。その後ろでハルカがなんとも言えない表情を浮かべ俺を見下ろす。
「じいちゃん……俺が、俺が、」
俺は何を言おうとしているのだろう。まさか、「俺が小夜とセックスしてるその時に、一人で死んでったんだ」とでもぶち撒けるつもりだろうか。まぁ、それは紛れもない事実なんだけど。
しかし小夜とハルカに言うのは責任転嫁そのもので、そんなことを一瞬でも口走りそうになった自分に嫌気がさす。
「……いや、なんでもない。伯父さんが来てくれるらしいから」
だから大丈夫だよ、と笑顔を見せても、小夜は俺のそばを離れなかった。
それが嬉しいのに、純粋に喜べないのは「巫女様が来てる」と野次馬をする近所の連中のせいだ。それどころかまたあの忌まわしい言葉を吐いていく。
信仰心があればすべての病気を治せるのか?不幸を払い退けてくれるのか?どんな人にも等しく訪れる死から解放されるのか?
人の死までを嘲笑い、話のネタにする奴らに反吐が出る。やっぱりもうここには居たくない。俺がここに居る意味は小夜、そしてハルカ、お前たちだけだ。
そうしているうちに伯父さんがやって来て、俺を見るや否や「ありがとう」と頭を下げた。居た堪れなくなった俺は頭を下げ返し、何度も謝罪をした。
虚血性心疾患。じいちゃんにつけられた死因はそれだった。俺がそばに居て直ぐに救急搬送しても蘇生は稀だ。分かる、分かっている。それでも、だけど、もしかしたらと考えてしまうのだ。小夜と体を重ねたことに後悔はないし、したくはないのに、どうしてと、答えのない問いかけを行ってしまう。
父方の伯父さんは俺に「今までありがとう」と改めて深々とお礼を述べ、そして「倫太郎さえ良ければ、一緒に暮らさないか」と救いの手を差し伸べた。地獄に垂らされたという蜘蛛の糸。俺には伯父さんの手がそれに見えたのだ。
通夜と葬儀が終わり、伯父さんは「ここに泊まるよ」と言ってくれたが俺はそれを断った。一人になりたかった。これからのことをどうするかを考えなければいけなかった。
防波堤に座り波の音を聞いていれば、自然と心が凪いだ。考えるまでもなく俺の心は決まっていた。この島を出たい。当たり前だ。だけど小夜とハルカをこの島に置いて、俺一人で外へ出るなんて許されない。つい先日、3人でここから逃げようと約束したばかりではないか。
「倫太郎、やっぱりここにいた」
背後から聞こえた声に勢いよく振り返れば、その声の持ち主は「驚かせちゃった?」と茶目っ気たっぷりにおどけてみせた。
「小夜……抜け出して来たのか?」
「私が離れに居るかどうかなんて、だーれも気にしてないもん」
だからなんてことないわ、と言いながら、俺の横に腰掛けた小夜は「もうすぐ秋だね」と真っ暗な海を見つめた。
寄せては返す波が俺たちの無力さを嘲笑っているかのようで、思わず目を逸らしてしまう。
「……倫太郎、あの人と一緒に暮らすの?」
小夜はもう覚悟をしているようだった。それなのに卑怯な俺は答えに詰まってしまう。いや、本当に悩んでいるのだ。
「小夜、俺と一緒に来ないか?」
今すぐそれができるならば、その選択が最善であった。そんな簡単な事ではないと分かっているから悩んでいたのだ。しかし口からするりと出た言葉が思っていたよりもずっと胸にすとんと落ちて、もうそれしか考えられなくなってしまう。
「多くはないけど親とじいちゃんが遺してくれたお金がある。そりゃ、裕福な生活は無理だろうけど、俺頑張って働くし、だから、だから、」
小夜は優しく微笑みながら、まとまらない俺の言葉の続きを待ってくれている。
「小夜がいればそれでいいんだ。小夜がいれば、俺は幸せだから」
小夜がいるそこが俺の楽園なんだ、というセリフはどうも恥ずかしくて口には出せなかった。
俺の言葉全部を聞き終えた小夜は黒曜石のような瞳を潤ませ、何度も何度も頷いた。
見つめ合った小夜の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちて、それに月の明かりが包み込まれる。世界の幸せを全部詰め込んだ淡く温かな光が俺の指を滑り、肌へと溶けていった。
「倫太郎、ありがとう」
小夜は泣きながら笑う。
「今まで貯めてたお金、全部持って行くね。必ず追いかけるから、待ってて」
「……なぁ、キスしてもいい?」
「へ?」
脈絡がないキスのお願いに、小夜はキョトンと目をまん丸に見開いた。その表情に、あ、キスしていいか聞いちゃいけないんだっけ?と、ハルカに注意されたことを思い出す。
「キス。今、どうしてもしたい」
「ふふ。変な倫太郎。いつでもしていいんだよ?倫太郎にならいつされても怒らないわ」
そう言った小夜が目を閉じた。眼球の形に沿った瞼の膨らみさえも愛おしいなんて、どうかしてるだろうか。
夏から秋に移り変わる夜の風が俺たちを包み込む。そんな心地良い風と、誂えたかのようにぴったりと合わさった唇が、俺たちを祝福してくれている。確かにそう感じたんだ。
▼
倫太郎は夏休みが終わる前にバタバタと引っ越して行った。残った家の片付けや手続きなどは伯父さんがするらしい。
「いつどこで、待ち合わせっつってた?」
島外へと向かうフェリーを眺めていた私と同じように遠くを見つめながら、悠がそう口にした。
「幸尽祭の前日の夜に最終のフェリーでって言ったの、悠じゃん」
何を今更、と私が笑えば、悠は「倫太郎とのだよ」と再回答を要求した。
倫太郎と「一緒に行こう」と誓い合ったすぐ後、私たちは悠と連絡を取った。なんとなくそうなることを予想していた悠は驚きもせず、淡々と「逃げるなら幸尽祭の前日の夜にしよう」と告げた。
その日は祭りの準備で島内が忙しいし、私は身を清めるとかなんとかで夜は他人との接触を禁じられている。だから悠が言ったように、その日は逃げるにはかなり都合が良かった。そして万が一私が居ないことに気づかれても、フェリーの最終便が出た後ならすぐに追いかけてはこれないだろう、というのが悠の考えだった。
「倫太郎があっちの港まで迎えに来てくれるの」
「あー、そーだ、言ってたな」
「……悠は迷ってる?」
私の問いかけに首を左右に振った悠は、「お前だけでも絶対に逃がすよ」と力強く言い切った。
「悠も一緒じゃないとダメだからね?」
「……うん。俺はお前がそばに居てくれるなら、本当にどこでも構わないんだ」
そう言った悠はじっと海を見つめている。どうして私の方を見てくれないんだろう、と不安な気持ちを誤魔化すように、私も悠に倣い海を見つめた。
私たちはこの窮屈な島を抜け出して幸せになるんだ。
それなのに、幸せ……その単語が浮かぶたびに、あの言葉がこだまする。自由に生きたいと思うことは、身の破滅を心配しなければならないほど贅沢な願いなのだろうか。
▼
普段この離れには寄り付きもしない父が「巫女神楽の調子はどうだ?」と尋ねて来たのは、幸尽祭の前日であった。
正直に言えば、今日の夜この島と決別する私には、明日の巫女神楽のことなどどうだってよかった。もちろんそんなことは口が裂けても言わないけれど。
「はい、仕上がっています」
「そうか。幸尽祭のあとこの離れに来るようにと、悠くんには伝えている。思う存分子種を注いでもらいなさい」
父は私に用件だけを伝えに来たようで、それが終わればさっさと離れを後にした。もう今更父に期待などしていないが、関わるたびに嫌悪感と憎しみが肥大していく。
しかしこれも今日でおしまい。私がいなくなった後の父や母のことを想像すれば、可笑しくて堪らなかった。なにせ貴重な巫女様が姿を消すのだ。怒り狂った信者たちに思いっきり責められればいい。そうなれば私の溜飲も少しは下がるってもんだ。
「よう。準備はできてるのか?」
父と入れ違いにやって来た悠はなんだか晴れやかな顔つきであった。悠も漸くこの島と決別できるのだから、スッキリとした表情になるのも納得できる。
「バッチリ!絶対に必要な物だけをまとめたよ。悠は?」
「ん、俺?俺もばっちり。後はその時を待つだけだ」
「ドキドキするね……」
「不安か?」
悠が私の顔を覗き込んだ。私を真っ直ぐ捉えた悠の瞳の方が、余程不安そうに揺らいでいる。
そりゃそうだよね。故郷と家族を捨てるなど、簡単にできることではない。まして悠は、この幸尽教のこと以外は家族と上手くいっているのだ。ということは私がいなくなれば、悠はわざわざこの島から、家族から逃げなくていいのかもしれない。
「はるか……悠はやめてもいいんだよ?」
「……え?それはどういう、」
「私に付き合って島を出て行く必要はないんだよ?私を守らなきゃって思わなくてもいいの」
「…………、なんで今、いや、そうか」
幼い頃から事あるごとに「巫女様を守れ、巫女様と子をなせ」と言い聞かせられてきた悠。最早それは呪いや洗脳の類であった。
「私のことは心配しないで。倫太郎がいるから、大丈夫」
彼を安心させたくて、とびっきり優しい笑顔を見せれば、悠はハッとしたように目を見開いた。
「そうか、そうだよな。倫太郎……そうだ、小夜には倫太郎がいるんだ」
「うん、そうだよ。私には倫太郎がいるから」
そりゃもちろん、悠がそばにいないのは寂しい。だけど、悠には悠の人生がある。その人生を私に費やすなんておかしい。もっと早く私が言ってあげられたら良かった。ずっとずっと悠の優しさに甘えていた。
「今まで甘えてばっかりでごめんね」
「さよ、」
「私はもう大丈夫だから。悠は悠で幸せになって」
フェリーの時間に悠が来なければ私は一人で行くね、と伝えると、悠はこくりと深く頷いた。
「もしかしたら、会うのこれが最後かもしれないから」
私のその言葉に弾かれたように顔を上げた悠は、「最後、」と繰り返した。
「あ、でもでも、悠が島外に来る時に会えるか!最後は大袈裟だったね」
「小夜は俺に会えなくなっても平気なのか?倫太郎がいればそれでいい?」
えへへ、と笑った私の言葉など届いていないのか、悠は漆黒の瞳を虚にさせた。
「そんな、そんなわけないよ。悠と会えなくなるの寂しい。倫太郎と悠は同じぐらい大切だよ」
「……うん、そうだよな!」
急に明るくなった悠の声にゾクリと寒気がした。だけど「もう一度よく考えてみるよ」って言った悠の顔があまりにも清らかだったから、私は「うん!」と満面の笑みで答えた。
そう、私は結局悠の気持ちの上に胡座をかいていたわけだ。私のことが大好きで、なんなら崇拝に近い感情を抱いている悠のこと、きっとどこかで無下に扱ってた。今更謝ってもどうにもならないんだけど。
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