第33話

 ジェランドさんの話に混ざって、「ふっ」「ふっ」と、かすかな音が聞こえてくる。何の音かしらと考え、すぐに、それが自分の吐息であることに気がついた。


 私がジェランドさんを想うように、ジェランドさんも私を想っていたという事実に、どうしても心身の高揚を抑えることができない。私は、小さな体を伸ばすようにして、テーブルに置かれていたジェランドさんの手を握った。


 なんて、はしたない――


 もちろん、そう思った。


 愛は冷めているとはいえ、まだヘイデールと婚約しているのに、他の男性の手を握るなんて――


 当然、そう思った。


 でも、もはや理性では、私の行動を止めることはできなかった。いつだったか、ジェランドさんが言った『男女間の愛情は、時に理性や常識の壁を打ち破るもの』という言葉が、不意に頭をよぎる。


 私は、熱に浮かされたような状態で、愛を叫んだ。


「私、私も、あなたのことが好きです……! この前、夜の公園で、憔悴しきっていた私に声をかけてくれた時から、私はヘイデールよりも、あなたのことを……っ」


 想いを口に出してから、とんでもないことを言ってしまったと思う。何せ、ヘイデールという婚約者がありながら、あろうことか彼の執事に愛の告白をしてしまったのだから。


 しかし私は、ほんの少しも後悔などしていなかった。それどころか、今まで感じたことのないような情動に魂が震え、瞳からは、悲しみや痛みとは全く違う種類の、熱い涙が溢れていた。


 ジェランドさんの手を、さらに強く握り、私は言葉を続ける。


「連れて行ってください、私も、あなたの旅に……! 私、何もかも捨てて、あなたについて行きます……!」


 しばらくの間、ジェランドさんは何も言わなかった。彼の表情には、かすかな驚きがある。『旅に出ませんか? 私と一緒に』とは言ったものの、まさか、私がこうも早く決断し、想いの告白までしてくるとは、予想していなかったのだろう。


 静かな喫茶店の中に、沈黙が流れた。

 だがそれは、嫌な沈黙ではなかった。


 何も言わなかったが、私とジェランドさんは見つめ合い、何度も小さく頷きながら、互いの想いを確かめ合った。この歳まで生きてきて初めて、気持ちの通じ合った男と女は、言葉を交わさずに会話ができるのだということを、私は知った。



 その日から私は、ジェランドさんと共に故郷を離れる準備を始めた。


 まあ、準備と言っても大したことはしておらず、小さなトランクに、少々の衣類だけを詰め込み、長旅の使用にも耐えられるブーツを新しく買ったくらいである。

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