名前を知らない吾輩もまた猫である

Ray

名前を知らない吾輩もまた猫である


 吾輩は猫である。名前は……定かでない。

 人間どもは吾輩を見るなりなんだだかんだと決まって口を動かすが、奴らの言葉など到底わかるものではない。

 最近ここいらに迷い猫が現れ、やっと貰われたは良いものの名前はまだかー、名前はまだかーと首を長くして待っておる奴がおる。

 そいつは大変なおしゃべりでやれ主人がどうした、やれ女将がどうしたと家のことをなんでもかんでも話よる。

 どうせ日向でごろごろするだけだから聞いてやっても構わんが、あまりに長尺なので疲弊し、最近は夜のネズミ捕りがどうにもこうにもうまくいかん。寝不足のせいなのか、あんなに速い奴らだったのかと首を傾げ、そのままちょろちょろちゅうちゅう駆けずり回る奴らを眺めていたら吾輩何やら眠くなり、朝まで落ちていたから驚いた。

『夜行性なのになにしとるんっ、働かんかこの馬鹿垂れがっ』

とでも言いたげな主人は吾輩の朝飯を抜く始末。

 さあどうしてくれるんあの名前のまだないおしゃべり猫。今日はギンギンに目が覚めているから一喝お見舞いしてくれるわと探し回ったはいいものの、こんな時に限って一向に見つからん。

 仕方ないから日向ぼっこで昼寝をしようと思えども、ギンギンでどうにもこうにも眠れない。ああ恥ずかしい。『夜行性なのに夜寝た猫』などとあだ名を付けられるのではなかろうかとの不安を払拭するために、吾輩はふらふらとそこいらに散歩へ出かけた。


「あら、珍しい。いつもは寝ている時間ではないの?」

 三毛の雌猫が吾輩に声を掛ける。さあ何故眠れないのか。そうだあいつのせいだと思い出す。

「名前のまだないおしゃべり猫はどこにおる?」

と問えば、「いいえ、わかりません。どうかしたの?」と聞かれたからバツが悪い。初老の猫が寝不足で仕事にもならんともあれば笑い者にされるに決まっている。まあいいから住処を教えてくれ、一言二言言いたいことがあるからなどと誤魔化せばなんて事はない。そこから目と鼻の先にある平屋であった。


 邸宅の敷地へ近づけばバサバサと賑やかな音がする。塀にひょいと飛び乗って眺めれば、黄を含める淡灰色をしたおしゃべり猫が蝶を追ってあっちへばさっとこっちへばさっとして戯れておった。

「お前、何をしておる?」

 そう聞けば、「大したことない、こやつがひらひらと粉を飛ばすから追い払っているのさ」と答える。

 追い払うというよりは追いかけているだろうと思案しながら見ていると、奴は近くの水瓶へ飛び乗った。

「危ない危ない。そこは端っこがつるんとして爪が使えん。中に落ちでもしたら一溜まりもないぞ」

 そう言えばそいつはハッとして地面へ慌てて着地したので、鼻先でふっと笑ってやった。吾輩と違いまだ青二才の童かと思えば、先ほどまで憤慨していた気持ちも吹き飛んでいるから不思議である。

「ここがお前の家か」

と吾輩は塀から飛び降りて、前足で目をしきりに擦っているそのおしゃべり猫に近寄った。

「ああ、そうだよ。最近は来客が多くてねぇ。傍にいればおこぼれを拝借できるのさ」

 それを聞けば、今朝は飯を抜かれていたということを思い出し、腹がぐうと鳴った。

「なるほど。そういうわけで、今日はいつもの場所におらんかったというわけか」

 腹鳴りを誤魔化すようにそう言えば、ガラガラと扉の音がした。

「帰ったようだな。あれは来客の中でも頻繁に家へ上がってきてな……」

とまたおしゃべりを始めるおしゃべり猫に、吾輩はまたいつものあれかと、がくりと尾を下へ落とす。

 すると女の声が聞こえた。

 ギャーギャー甲高く荒々しいが何を言っているのかはさっぱりわからん。その剣幕でこちらへ近づいて来るので逆毛を立ててやったら余計に睨んで来よる。

 すると今度は男が来た。主人、という奴だろうか。

 吾輩男は苦手である。首根っこを乱暴に掴む癖があるからだ。ただ吾輩も男故、後ずさりしては情けない。ピンと前足を伸ばし、地面に爪を立て、にゃんと威嚇してやった。

 結果吾輩は首根っこを抓まれ、空へ宙づりにされる。だらんとだらしなく垂れ下がる吾輩の前足と後ろ足。いいさ、いざとなれば無抵抗と思わせて顔が近づく隙にそこへ鋭利なこの爪をお見舞いしてくれよう。

 だがあろうことかこやつは吾輩のプライベートな場所に視線を集中させた。何たる屈辱。やめろやめろと吾輩はもがく。

 男は女になんやかんやとぶつぶつ呟き、吾輩を無造作に放り投げた。

 寛大な吾輩の機嫌も遂に怒り心頭。おしゃべりな猫に目掛けこう言い放ってやった。

「お前たちは家族ぐるみで失礼な奴だ」

 吾輩はそのまま塀に飛び乗り、もう二度と来るかと不躾に尾を立てそこを後にした。


――それから月日は流れる。


「本当に来なくなっちゃったわね」

 三毛の雌猫が吾輩の縄張りに立ち入り、そんなことを言った。

「獣は人間と違い作法を守る生き物だ。そんな人間に取り入っておこぼれを貰いへらへらと猫を被っているのだろう。吾輩の大嫌いなタイプの猫どものようにな」

「そんなこと言って。まだ若いんだから、もう少し大目に見てあげないと、かわいそうよ」

 女は本当に甘い生き物だ。吾輩はふんと鼻を鳴らしそっぽを向くと、何処かへ消えて行った。

 

 丁度いい。うるさい奴が次から次へといなくなって清々するわい、と息巻いた吾輩。それからしばらくすればある悲報が耳に入った。

 三毛の雌猫が死んだのだそうだ。

 吾輩は少し動揺した。

 悲しいかなあいつが最後に語ったセリフが遺言になってしまうとは。おしゃべり猫を許してやれという説法が吾輩の脳裏に焼き付いて離れない。

 恵まれた環境にあったその雌猫は立派な墓を貰っていたので、吾輩は弔いの意を兼ねてそこへ通うことにした。

 そんな中の出来事だった。吾輩の耳に再び妙な知らせが入る。どうやらおしゃべり猫はあの死んだ雌猫に恋焦がれていたのだと。

 吾輩はとても気まずい心持になり、二度と会わんと決めた心にさえ揺らぎが生じていた。


 そして吾輩は、再訪することにした――。


 ある夜のことだった。

 意を決しあの忌々しい平屋に辿り着き塀を登るとあいつがいた。

 だが何やら妙な動きをしている。

 ふらふらとあっちへ行ったりこっちへ行ったり、足取りが覚束ない様子。またたびでも喰らったかと目を点にして見ているとうろうろと水瓶の方へ行くではないか。

「おい、危ないぞそこは。前にも言っただろう」

 若造は老い耄れの言葉にも聞く耳を持たないと再び怒りが押し寄せるも首の裏を後ろ足で掻き、自制した。


 ただその刹那あいつがした行動には目を疑った。


――そこへバシャんと飛び込んだのだ


「おい、お前、死にたいのかっ!」

 吾輩は慌てて塀から飛び降り、瓶に向かった。

 そうかわかったぞ。恋人の死に失意してあやつは自暴自棄になっているのかと合点がいく。

 だが中からはバシャバシャともがく音が聞こえる。

 死を覚悟した猫がさてもがくだろうか……

 さあ、どうするか。もし事故であれば見て見ぬ振りをすることになる。一刻の猶予も許さないようなこの状況で吾輩は必死に思考を凝らした。

「おい、誰かいるか! お前んとこのおしゃべり猫が溺れているぞ!」

と叫び、主人の家の扉を引っ搔いてみても音沙汰無し。

 何か登れるものをと板を見つけるが、前足で押しても、頭で押しても動きはしない。

 無念。猫の頭も猫の手も、こんな時には全く役に立たないのか。


 そしてバシャバシャという音はやがて鎮まり、吾輩の顔は青ざめた。

「おい、諦めるな!」

 吾輩は無我夢中でその水瓶の縁に飛び乗った。

「掴まれ!」

 苦しそうなそいつの顔の前に前足を延ばす。

 そいつも必死に前足を伸ばし、吾輩の足先を掴もうとするが数寸ほど足らない。

 得意のジャンプも水の中では使い物にならん。それでも吾輩は藁をも掴むようなこやつを奮起した。

「後ろ足で思い切り地面を蹴飛ばせ!」

 若造は遂に老い耄れの言葉に耳を傾ける。せぇので思い切り瓶の底を蹴飛ばし吾輩に、


――触れた。


 肉球と肉球が合わさる瞬間。


(痛いっ!)


 爪が互いの足先に突き刺さっていた。

 吾輩の苦痛の顔が見えたのか、そいつは自らの爪を、引いた。


 そのまま何やら人間の言葉をぶつぶつと唱えながら、水の中へ沈んで行く。

 ただそれは、とても幸せそうな、顔だった。


 南無阿弥陀仏



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名前を知らない吾輩もまた猫である Ray @RayxNarumiya

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