第30話知識チートだ 山国甲斐で塩作り(上)



氏真や太郎らが正月の準備で忙しく立ち働いていた頃、アントワーヌ・レグノウを名乗るルイーズ・ド・モンモランシーの一行はラ・ドーフィネ号で赤道を越えたところだった。

ロンドンを出てブレストに寄港するとビスケー湾を横断、リスボンからカサブランカを経てカナリア諸島からカーボベルデと回り、西アフリカ沖を航行してギニア湾に至る。



「Bonne annee!」


「Happy New Year 1561!」


船内で続くフランス語での新年の挨拶にフランシス・ウォルシンガムも思わず英語で同じてしまい、図らずもみずからがイングランド人であることを思い知らされてしまう。

とかくイギリス人というものは舌が二枚も三枚もあるなどと呼ばれ、ひどい時にはブリカスなどと揶揄されたりもする。


空気を読み過ぎることと約束を重んじすぎるがゆえに、

複数の約束が縺れ合う状況ではすべての約束を重んじようとした挙句、

「英国人には舌が何枚もある」と揶揄される結果となってしまっただけなのだが……


「決断しないことを決断するのが我々イングランド人の悪い癖でもある」


苦笑と共にワインを呷ったウォルシンガムはそう独り言ちる。

それにそもそもこの頃の西洋では、新年は一月一日からではなかった。

十二月二十五日のクリスマスから新年が始まるヨーロッパ諸国の中でも当時のフランスの新年の開始は遅く、

ユリウス暦で三月~四月にある復活祭で新年に切り替わる。

そんな風に新年の始まりが他の諸国よりも遅いフランスにおいて、一月一日が新しい年のはじまりとなるのは、ユリウス暦で今から三年後、1564年のことである。

ちなみにイギリスで新年が一月一日からとなるのは十八世紀も半ばの1752年だった。


「貴殿の母国イングランドの新年はクリスマスからでしたな」


男装したルイーズがワイングラスを片手に話しかけるとウォルシンガムは苦笑いを浮かべる。


「フランスでは新年はイースター(復活祭)からとお聞きしましたが、ユグノーの皆様はどうやら違うようですね」


ウォルシンガムの返しにルイーズはそう来たかと笑んだ。


「アドリア海の女王たるヴェネツィアに続きドイツ人の神聖ローマ帝国、

 スペインポルトガルにプロイセン、デンマークスウェーデンと一月一日を歳旦とする国が増えておりますのでいずれはフランスもそう変わりましょう」


――貴国はどうですか?

そういう意味を籠めてルイーズが答えるとウォルシンガムは薄く笑う。


「当分は無理でしょうな。

 我々イングランド人は決断できない国民性ですから……」


これにはルイーズも曖昧な笑みを浮かべて黙り込むしかなかった。

ここで「そうですね」などと肯定の言辞を述べるわけにはいかないし、かと言って否定すればいいというものでもない。

背後に国という看板を背負った者同士の会話などはそういうものだ。

抱えているものが重ければ重いほど口も重くなる。


そんな彼らが水と食料を求めてセントヘレナ島に立ち寄った際に一大事があった。


「国王陛下がお亡くなりになられた……!」


アントワーヌが絶句する。

彼女たちのロンドン出港からほどなくしてフランス国王フランソワ二世が崩御。十二月五日、享年十六歳の早すぎる死であった。


「後嗣はおそらく弟君のシャルル殿下。

 殿下は叔父上を慕っておられるゆえギーズ公も力を失うと見ていいか」


これが国王崩御の一報に触れてのアントワーヌの感想であった。

腐っても鯛。

ルイーズも伊達に公爵令嬢をやっていたわけではないようだ。

叔父のコリニー提督に近しいシャルル九世の即位で宮廷の空気も親ユグノーに変わると読む。



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ずずずっ……


年越しそばの試作品を手繰りながら俺が考えていると、そんな俺の様子を見取った氏真が声をかけてきた。


「どうした。太郎」


「美味い塩が欲しい……」


「塩か……駿遠の塩ではいかぬのか?」


怪訝な顔で氏真が問う。


「ああ、もっと美味い塩があるんだ。すぐには手に入らないだろうけどな」



とまあ、こんな問答があって、新年の歳旦祭を迎える。

衣冠束帯姿の氏真が斎主(いつき)となった神事の後、

家臣一同に振舞った初お披露目の蕎麦切り=年越しそばは家中での好評を得た。


「皆の者、これが蕎麦切りの作法だ」


こう述べた氏真が音を立てて蕎麦を啜り上げると重臣もそれに倣う。

それを見た下の者らも慌てて「ずずずっ」とやる。

俺の隣に座ったお市に目を遣ると、彼女はためらい気味に音を出してそばを手繰っていた。

人前で音を立てて食事を摂るのは武家の姫として気恥ずかしいらしい。

そんなお市が雑煮の椀を手にしてつぶやいた。


「今頃は兄上たちも……」


宴の喧騒にかき消されるほどに小さな声だったが俺の耳にははっきりと届いている。

ホームシックだとは思うが俺としてはまだまだお市を手放す気はない。

だから知らないふりをして雑煮に向かう。

ややあって、お市の箸も動き出した。



「今一度聞くが、本当に俺でいいのか?」


宴の後で氏真の居室に呼ばれた俺は甲斐武田への年賀の使者を頼まれた件をもう一度確認する。


「そうだ、太郎に行ってきてほしい」


氏真に言わせれば、武田の国策を内政改革に変えさせた俺が新年の挨拶に赴くのが良いという。

正直なところ願ったり叶ったりではあるのだが、客である俺に任せてもいいのだろうかという疑問があった。

だが、それでも俺が良いと氏真は言う。

そこまで言うならばと俺も承諾する。

贈答品は昨年中に甲斐に送り出してあるので氏真から俺が預かるのは目録だけだ。

書状を油紙で厳重に包んで俺は内懐の袋に仕舞う。


「では行ってくる」


「ああ、頼んだ」


こうして俺はお市を連れて甲斐へ出向くことになった。

静岡から甲斐府中までは百キロほどだから普通に歩いていくと二日はかかる。

元旦の夕方に出ても到着は三日の夕刻になるだろう。

できれば三が日の間に年賀の挨拶に行きたいと思った俺はお市を背負って爆走することにした。


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