できれば十年後に

ムラサキハルカ

深い森の中で……

 深夜。私は半ば思い詰めるようにして森に迷いこんでいる。逃げたくて仕方なくて、夜を駆け抜けていた。

 道順も知らなければ、明かりもない。時々転んだりもする。状況は決していいとは言えなかったけれど、かえって都合が良かった。

 程なくして、体力の限界がきて、ぶっとい木の幹に座りこみ、肩で息をする。帰り道はわからなかったものの、元より戻るつもりもなかった。絶えず耳に飛びこんでくる虫の鳴き声にうんざりしつつ、天を仰ぐ。枝の隙間から星でも見えないかなという希望はおびただしい数の葉に遮られていた。

 残念。そう思い、顔を伏せた。途端に睡魔が襲ってくる。特にあらがう理由もなかったので従った。願わくば、少しでもましな状況になっていることを祈って。


「おはようさん」

 目覚めた途端、若いがっちりとした男と目が合った。彼が手にしている懐中電灯の光のおかげで、探検隊みたいなベージュのジャケットを着ているのがわかった。まだやや気温が高い季節なので少々暑苦しそうだ。

「えっと……おはよう、ございます?」

 応じると男は面倒臭そうに頭を掻いてから、こんなとこでなにしてんだ、と問うてくる。

「家出……ですかね」

 そうとしか言いようがない。男は、そうだろうな、と頷いてから、

「帰る気はあるか?」

 と尋ねてくる。私は首を横に振った。

「そうか」

 それだけ言ったあと、男は私の対面に腰かけ、懐中電灯を立て置いた。

「休憩だ」

 私の表情から疑念を察したのか、男は即刻そう応じた。怪しいと思っていると、彼の後ろに大きな図多袋があるのに気付く。表面の盛り上がりからするに、中身はぱんぱんに詰まっているようだ。こんな森深くまで持ってくるとなればけっこう苦労したのではないのだろうか。

「そいつが気になるか」

 相も変わらない察しの良さを発揮する男に問われて、少々迷ってから頷いた。男は、そうだろそうだろと笑ったあと、袋に手を突っこんで一升瓶を取りだす。なんだ、私物を入れてるだけかとホッとした。

「ここには酒盛りしに来たんですか?」

 尋ねると、男は、まあそれもあるな、と瓶を開けてからラッパ飲みをはじめる。喉仏が鳴るのを耳にしながら、無言で見守った。やがて、気持ち良さそうに酒臭い息を吐きだしてから、

「ちょっとしたタイムカプセルを掘りにな」

 これからトイレに行く、とでも言うような気軽さで口にする。私は驚きつつも、その一方、どこか腑に落ちる感じもしていた。なんとはなしに袋を一瞥すれば、に見えた。

「じゃあ、その袋の中身は」

「言わなくてもわかるだろう?」

 男の唇の端がニィっと歪む。やっぱりか、と思うと同時に背汗がぶわっと噴きだす。空気が冷たいだけに、放っておけば風邪を引くかもしれない。

 男はもう一度、口のあたりで一升瓶を傾けたあと、私に差しだそうとする。

「いるか?」

「けっこうです」

「そうか」

 残念だ、と答えてから男は、また瓶に口をつけてぐびぐびやりはじめた。目の前の男を見ながら、私はこれからどう振舞うべきか頭を巡らす。

 たぶん……ここで埋められたくはない。かといって、この場を逃れたからといって、その後の計画がなかった。強いていうならば、逃げればいいのだろうけれど、逃げる宛もない。結局、待っているのは袋小路だ。

「こいつは、あくまでも提案なんだが」

 男はおっとりと切りだす。何事かと思い身構えた私に、彼は、そう固くなるなよ、とひらひら手を振ってみせてから、

「お前の話を聞かせてくれないか?」

 そんなことを言ってくる。

「話、と言うと……」

「例えば、なんで家出しているのかとか」

 無理にとは言わんが。付け加える男の口ぶりには、そこはかとないどうでも良さが漂っていた。暇つぶしでしかないんだろう、と察する。この調子では話しても話さなくても同じだろう。そう悟り、口を開く。

「とてもとてもありきたりな話です」

「それは、俺が決める」

 ごもっとも、と頷いてから、話しはじめる。

 父が再婚したこと。新しく義母となった女が舐めるように私を見てきたので、父に相談したところ気のせいだと切って捨てられたこと。そうこうしているうちに義母の振る舞いは私の体の膨らみへの接触に進化したこと。やはり父に相談しようとした矢先、交通事故にあって帰らぬ人になったこと。葬儀が済んですぐ、義母に二人だけになっちゃったけど仲良く生きて行こうね、と不気味な笑顔とともに抱きつかれ、お尻や腰、胸などをべたべた触られたこと。そして今日、愛していると言われ、身体をもとめ……

「そりゃまた……」

 私の言は男の想像の外にあったのか、ぎょっとした目をこちらに向けてくる。

「そんなわけで、家出してきました」

「警察とかには行かなかったのか?」

 もっともな疑問だ。

「義母はすごく外面が良いですから、大抵の人は向こうの言い分を信じますし……仮に、義母を告発できたとしても、行く宛がありません」

 おそらく顔も知らない親戚か施設へと行くことになるのだろうが、上手くやれる自信がない。義母の元で暮らすよりはマシだろうけど、もしももっと悪い状況になってしまったなら……そんな可能性が頭にチラつき、どうにも動きだせない。

「そりゃ、お気の毒に……」

 無機質な声音は、どこまで私の言葉を真剣に聞いているのかわかりかねたものの、なんら関心がなさそうなのが逆に安心できた。


 それからしばらく自分の話を続けていると、強く葉を踏みしめる音が耳に入ってきた。誰か来たのかと前方を見やれば、茶髪のロングヘアで黒い半そでの水商売風のドレス姿の女をみとめ、身体が固まる。女は私のよく知る人物――義母だった。

「探したわよ」

 私の姿を認めた途端、義母は安堵の表情を浮かべ走り寄ってくる。途端に身体中に怖気が走りそうになった。止めて。来ないで。これ以上近付かれたら、私は……

 直後、私の前に大きな影があらわれる。

「待ってください」

 先程まで私と話していた男は両腕を広げて、義母の前に立ち塞がっていた。

「あんた、誰?」

 ドスの利いた義母の声にも男は、ただの大学生っすよ、と気軽に応じてみせる。

「それでそのただの大学生さんが何の用かしら」

 男の身体が壁となっているせいで表情こそ窺えないものの、声音からははっきりとした苛立ちが伝わってくる。

「それ以上は娘さんに近付かない方がいいんじゃないっすか」

「なんであんたにそんなことを言われなきゃならないわけ」

 声を荒げる義母の前で、男は少しだけ背筋を伸ばしてから、

「娘さんは、あなたのことを嫌がってますよ」

 はっきりと告げた。直後に女が男に詰め寄る。たぶん掴みかかっているみたいだけど、シャツが伸びるせいか上手くいっていないようだ。

「あんた、私とこの子の邪魔をしたいわけ」

「いいえ。ただ、娘さんの望んでいないことをするのはどうかと思っただけです」

「あんたにこの子の何がわかるのよ!」

「少なくとも、嫌がっているか嫌がってないかくらいはわかるってるつもりです」

 熱を増していく二人の言葉のやりとりを、私は震えながら眺めていた。

 しばらくの間、会話の応酬が繰り返されたあと、懐中電灯の光を何かが反射した。私が光の正体を認識した直後、義母がうめき声をあげながら男に縋りつき、すぐさま痙攣しだす。そして、男の肩越しに私の姿をみつけたらしく、歓喜に打ち震えるように目を大きく開いたあとそのまま動かなくなった。

 程なくして、男が義母だったものを土の上に放りだしてから私の方に向き直る。

「やっちまった……」

 手を滑らせて皿を割ってしまったくらいの言葉の調子とは裏腹に、男の手にはべっとりと血がついている。最初に刃物らしきものが光った場所からするに、武器を手にして襲いかかったのは義母の方なのだろうが、今立っているのは男だった。

 私は、どうしていいかわからず立ち尽くしていたけれど、

「どうしようか、これ」

 困ったように頭を掻く男に毒気を抜かれたのと、つい先程まで自分を悩ましていた問題の一部が地面に転がっているのを見て、これはものすごくいい状況なんじゃないか、と思い直す。

「提案ですが」

「聞こう」

「埋めません?」

「そいつはいいアイディアだな。あんまり気は進まないが……」

 そう言って、男は図多袋を引っくり返した。中からは大型スコップやらガスコンロやらカップ麺の山やらが出てくる。

「元々、今日一晩かけてゆっくりタイムカプセルを掘り出す予定だったんだがな」

 どうやら男は本当にタイムカプセルを掘りに来たらしい。勝手に死体を埋めにきたと勘違いしていた自らを恥じる。

「他の人はカプセルを掘りに来ないんですか?」

 そう尋ねると男は不器用そうに頭を掻いてから、

「俺は小学校のクラスメートのタイムカプセルからはハブられててな。自分だけないのも嫌だなって思って埋めることにしたんだけど、連中と同じところに埋めに行ってみつかったら恥ずかしいなって」

 だから森の奥に、ということらしい。何から何までずれているな、と思いつつ、そうですか、と短く応じた。


 それから交代で地面を深く掘って義母を埋めた。その途中に出てきた銀のブリキ製のタイムカプセルの中には、『未来の俺よ、自由に生きろ!』とだけ書かれた手紙が一枚入っているきりだった。

「お前は、これからどうするんだ」

「どうしましょうか?」

 どうなるのかもよくわからない。けれども、目の前にいる人のおかげで、心はかぎりなく晴れている。

「お酒って残ってますか?」

「ああ」

「じゃあ、ください」

 男は苦笑いして、一升瓶を手渡してくる。私は彼のやり方をなぞって、瓶を傾けてラッパ飲みする。それからすぐに濃く甘い味に耐え切れず吐きだしてしまった。もったいねぇ、と目を丸くする彼の顔を見ながら、重い頭を片手で支え、ありがとう、を口にする。

 できれば十年後くらいには吐かずに一緒に飲めるようになればいいな、と思った。

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