知らない誰かが僕を助けてくれる理由 KAC20228

斜偲泳(ななしの えい)

第1話

 二見海莉ふたみ かいりはヒーローの存在を信じていなかった。


 架空のキャラクターは言うまでもなく。

 なんの得にもならないのに、善意や正義感から困っている人に手を差し伸べ、己の立場を顧みずに邪悪に立ち向かうような――そういったヒーローみたいな人間がいるわけはないと決めつけていた。


 そんな事はない。


 広い世界を探してみれば、ヒーローみたいな正義の人はいるものである。

 けれど、彼を取り巻く狭い世界には存在しない。

 なら、いないのと同じだろう。

 だから、信じる事は出来ないのだ。


 みんな自分が可愛いから、わざわざ自分の身を危険に晒してまで人助けをしたりはしない。それどころか、ただ面倒だという理由で見て見ぬふりをする。むしろ将来的な危険を排除する為に、率先して悪に加担して保身に走る。人間とはそういう存在だと決めつけている。


 それはそれとして、海莉はヒーローの助けを必要としていた。

 自分の力ではどうにもならない問題に直面したら、他人の助けを頼るほかない。

 海莉だって、自分の身は可愛いのだ。

 だから、ヒーローなんか信じていなくても、祈らずにはいられない。


 お願いです。誰でもいいから僕を助けて下さい。


 現実は無情である。それが叶わぬ願いである事は彼も分かっていた。

 それでも、そんな風に祈らなければ、彼は希望を失って死んでしまうだろう。

 それくらい、二見海莉という少年は追い詰められていた。


 高校二年生になる彼は、ひどいイジメを受けていたのである。


 ところで、人生とは無情だが、それ以上に奇妙でもある。

 いい加減イジメられるだけの生活にうんざりして、いよいよクソッタレな人生を終わりにしようと決断しかけた時。


 一切の脈絡もなく、唐突にヒーローが現れたのである。


 †


 いじめられっ子の二見海莉は学校で完全に孤立していた。


 優しくしたり普通に接すると、仲間だと見なされて自分もイジメのターゲットになるかもしれない。そんな風に誰もが思っているようで、空気のように無視するか、自分はイジメる側だと証明するようにイジメに加担する人間ばかりである。


 そんな空気はクラスのみならず、学校中に蔓延していた。同学年は勿論、上級生や下級生も彼をイジメている。一度も喋った事のない、顔も名前も知らないよう者達までもである。


 軽いイジメなら通り過ぎざまにいきなり「わぁ!」と脅かされ、怯えた様子を笑われたり。背中に悪口を書いた紙を貼られる事などしょっちゅうだ。ノートに落書きをされるくらいはマシな方で、虫の死骸や犬の糞を挟まれていた事もある。机の中に悪趣味なエロ本を入れられたり、トイレに行くのを邪魔されて漏らした事だってある。女子には謂れのない噂を流されたり、嘘の告白をされた事もある。


 先生は見て見ぬふりだ。一度勇気を出して相談したら、やり返さないお前が悪いと言われた。そして翌日、チクってんじゃねぇよとイジメっ子グループにボコボコにされた。親も似たようなもので、海莉はそれ以来誰かを頼ることはなくなった。


 そんな感じで毎日ひっきりなしに、なにかしらの嫌がらせや暴力を振るわれていた。


 憂鬱な朝を迎えると心を殺して、灰色の一日が通り過ぎるのを待つ。そして惨めな気持ちで家に帰り、明日なんか来なければいいのにと枕を濡らしながら眠りにつく。

 身も心も限界だった。最近は夢の中でもイジメられていて、海莉は不眠症になっていた。


 そのせいでぼんやりしていたのだろう。

 あろう事か、クラスの不良グループの一人に廊下でぶつかってしまった。


 普段なら、その場で胸倉を掴まれて殴られてもおかしくない場面である。けれどその時はなにも起こらなかった。いじめっ子の少年は幽霊でも見たような顔をして海莉を見つめていた。困惑し、怯えたような顔で足早に去って行くのである。


 もしかして自分は自殺した事を忘れていて、幽霊になってしまったんだろうか? 海莉は学校中でシカトされているので、そうなっても気づくことは出来なそうだった。けれど自分には足があるし、両親とだって会話している。コンビニの店員とも普通に話せているので、幽霊になったわけではなさそうだ。


 そんな馬鹿げた事を考えてしまうくらいの異常事態だった。あるいはあの少年は、今にもウンコが漏れそうで、海莉に構っている暇がなかったのかもしれない。それなら、チビってたらいいのに。他に不審な点があるとすれば、彼の顔に殴られたような痣があったくらいだろう。


 その意味に気づくには、もう少し時間が必要だった。


 そんな事があってからも、海莉はイジメを受け続けた。不特定多数の生徒に因縁をつけられ、意味もなく殴られた。体操服や弁当を便所に捨てられ、すれ違いざまに唾を吐かれたりした。


 けれど、あの時海莉がぶつかったいじめっ子が手出ししてくる事はなくなっていた。それだけでなく、彼をイジメる人間の数が徐々に減りつつあるようだった。


 違和感は日増しに大きくなっていった。

 暫くして、不意に海莉はその理由に思い至った。


 もしかすると、ある時を境にして、彼に手を出した相手は、それ以降イジメを行わなくなっているかもしれない。


 そんな馬鹿なと思うのだが、記憶を振り返ると、確かにその法則は合っているようだった。だから、少しずつイジメを行う人間が減っているのだろう。


 でも、なんで?


 冷静に考えてみると、気になることがあった。最近校内で、やたらと怪我人を目にするのである。そしてその数は、日増しに増えているようだった。


 全員、直近で彼にイジメを行った生徒ばかりである。もっとも、かなりの数の生徒が直接的なイジメに加わっているので、たまたまなのかもしれないが。


 もしかすると、誰かが自分に代わってイジメっ子をやっつけているのかもしれない。

 そんな考えが頭をよぎるが、あり得ない話だった。


 海莉は完全無比に孤立していて、友達は一人もいない。相談できる相手は勿論、気軽に話せる相手もいない。学校で挨拶出来る相手すらいなのだ。助けてくれるような人間は本当に一人も心当たりがないのである。


 けれど、その考えは当たっていたらしい。


 ある日海莉がノートを開くと、汚い文字で落書きが残されていた。

 それ自体は全く全然珍しい事ではないのだが、内容は変わっていた。


『これからは俺がお前を護ってやる。だからお前も頑張れ。イジメなんかに負けるんじゃねぇぞ』


 簡単には信じられなかった。

 ぬか喜びさせて反応を愉しむ悪戯の可能性は十分にある。


 けれど、実際にイジメの数は減っているので、もしかしたらと思ってしまった。

 それから色々な事があって、海莉は謎のヒーローの存在を信じるようになっていた。


 色々な事とは、例えばこんな事だ。


 授業中、とある女生徒が悲鳴を上げた。どうやら、ノートに虫の死骸が挟んであったらしい。数日前に、海莉は同じような目にあっている。


 クラスメイトが話しているのを聞いて、とある一年生の外履きがズタズタに切り裂かれているのを知った。やはり数日前に、海莉は同じ目にあっていた。


 生意気だと海莉を殴った三年生の男子生徒が事故で脚を骨折したという話も聞こえてきた。


 友達がいないので詳しい話を聞ける相手もいなかったが、似たような話があちらこちらで囁かれるようになっていた。


 誰かが自分の代わりに仕返しをしてくれているのだ。


 それが誰なのか。なぜそんな事をしてくれるのかも全く分からないが、事実そうとしか思えない出来事が起きていた。


 だから海莉は信じる事にした。

 この世界にはヒーローはいるのだと。

 見知らぬ誰かが、僕の事を助けてくれているのだと。


 どうやらその噂は、学校中に広まりつつあるらしい。

 今や彼をイジメる者はほとんどいなくなっていた。


 ヒーローによる制裁を恐れてか、過去にいじめを行った生徒が怯えながら謝罪に来る事すらあった。

 それどころか、大勢の生徒は海莉自身を恐れるようになっていた。


 当然だ。


 僕になにかしたら、ヒーローにやっつけられるんだから。


 もう海莉は、廊下の端を怯えながら歩く必要はなくなった。

 横柄な態度で歩いてくる生徒にビクビクしながら廊下で道を譲る必要もない。

 トイレに誰かがいないか心配する必要もない。


 逆に、生徒達は海莉に怯え、道を譲り、トイレで出くわすと気まずそうに出ていくのである。


 なんていい気分なんだろう!

 海莉は心から謎のヒーローに感謝した。

 あなたは僕の恩人です。


 どうにかしてお礼を言いたいのだが、それが誰なのか、いまだに海莉は知らなかった。


 友達がいないので、誰かに聞く事も出来ない。

 自分をイジメたり、見て見ぬふりを続けていた生徒達と今更友達になる気もなかったが。


 そんなある日、久々に海莉はイジメを受けることになった。


 帰り道を歩いていると、不良が多い事で有名な近所の工業高校の生徒が因縁をつけてきた。


 どうやら、海莉の学校で最近大怪我をした三年生と友達らしく、それを海莉のせいだと思い込んでいるらしい。


 金髪にジャラジャラとピアスをつけた、凶悪な顔つきの少年である。見るからに不良といった感じで、背が高く体も大きかった。


 海莉は違います、僕じゃないですと泣いて謝ったが、聞く耳を持っては貰えなかった。一方的にボコボコにされる内、段々と腹が立ってくる。


 これまでの海莉ならやられるばかりだったが、今は違う。


 僕にはヒーローがついてるんだ。

 こんな事したら、ただじゃすまないぞ!


 ぐしゃぐしゃに泣きながら、破れかぶれでそう言った。


 不良少年は腹を抱えて笑い、ヒーローがいるなら呼んでみろよ! と海莉が気絶するまでこっぴどく痛めつけた。


 満足して立ち去ろうとする不良少年の後頭部を、唐突に容赦のない一撃が襲った


「望み通りに来てやったぜ」


 その少年は二見海莉と同じ声で話し、同じ顔で笑っていた。


 そして、同じ体を動かすと、隠し持っていた携帯用の警棒で不良少年が動かなくなるまで滅多打ちにした。


「やっぱ自分の身は自分で守らねぇとな」


 皮肉っぽく呟くと、ヒーローは海莉の心の奥に引っ込んだ。

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