第39話 黒い犬と犯人


「……セレイス様……」


 整った顔を見上げながら、私は思わずつぶやく。セレイス様はとても優しそうに……とても嬉しそうに笑った。

 幸せそのもののようにうっとりと笑い、でも目だけはただひたすら黒くて無表情なままに見えた。

 その黒い目が、ふと動いた。

 セレイス様の足元に向いている。それでやっと、黒い犬が一緒に入ってきていたことに気が付いた。

 まるでセレイス様の目のように黒い犬は、私を見て笑った。


 銀色の目がまぶしい。

 でも近くで見ると、思っていたより犬っぽくなかった。長く鋭い牙は魔獣そのものだ。それに長い毛は緩やかに波打っている。


 優雅で、おぞましく、総毛立つような美しい犬。

 ……違う。これは犬じゃない。魔獣でもない。小型化して犬の姿に近くなっているけど、本質は犬のような動物ではないようだ。



「……蛇……?」

「おお、君にはわかるんだね! さすが我が女神だ。彼はとても美しいだろう? 彼も君に興味を持っていて、協力してくれているのだよ。だからね、君のその美しい髪を、少し彼に分けてあげてほしい」


 浮かれているのか、セレイス様は少し早口だ。でも私は、セレイス様が異国語を喋っているようで何一つ理解できなかった。

 この人は何を言っているんだろう。

 なぜ、短剣を抜いて近付いているのだろう。

 魔法の光を受けて輝く抜き身の刃を見つめながら、私はゆっくりと立ち上がった。

 セレイス様の顔は見ない。あの黒い目も見ない。物騒な刃と優雅な痩身だけを見ながら、少しずつ動こうとした。でもその方向にいつの間にか黒い犬がいて、足を止めてしまった私を嘲笑うように牙を剥き出しにした。


「だめだよ。僕のリリー・アレナ。君の美しい肌に傷をつけたくないんだ。ああ、短剣が怖いのかな? 大丈夫だよ。今日は少し毛先を切るだけだから。ほんの少し……毛先を揃えるくらいだから」


 セレイス様は優しくそう言うけど、問題はそこじゃない!

 そう叫びたいのに、体が思うように動かなかった。鎖がどんどん重くなる。持ち続けることができなくて、床に落としてしまった。

 ガチャン、と重い音が部屋に響く。

 同時に、足輪も重くなって私は思わずよろめいて膝をついてしまった。


「やりすぎじゃないかな。肌を傷つけたくないのに」

『傷など、後でいくらでも癒せるだろう。そんなことより、さっさと切り取れ。我にその者の一部を与えよ』

「せっかちだなぁ。でも、リリーはお転婆な子だから、そのまま押さえ込んでもらおうか」


 セレイス様は動けない私のそばに膝をつき、私の髪を持ち上げた。白い髪の房を見つめ、うっとりと微笑んでから短剣を動かす。

 サクリと小さな音がして、セレイス様が持ち上げていた髪が自由を取り戻して落ちていく。切り取られた一部が手の中に残っていた。

 ……切られた。

 お姉様に褒めてもらった私の髪が、切られてしまった。

 ほんの一房だけど。

 でも、私は自分でも想像しなかったほどショックだった。セレイス様の手の中に、癖のある真っ白な髪が乗っていることに傷ついてしまった。



「切り取っても、まだ美しいな。惜しいが……」

『報酬をよこせ』

「強欲な異界のものめ。受け取れ」


 セレイス様は微笑みながら白い髪を犬へと投げた。

 ふわりと髪が広がり、でもすぐに吸い取られるように犬の方へと集まる。犬はそれを一飲みにして、満足そうに笑った。


『ふむ。やはり良い味だ。いったい誰の縄張りに隠れていたのやら』


 黒い犬の姿をとる異界の存在は、くるりと私の周りを歩く。

 硬直する私を見て、口を大きく開けて笑った。口の中で二股に分かれた舌が蠢いていた。

 ああ、やっぱり蛇なんだ。

 本質は蛇の形なのに、全く生態の異なる犬の姿をとるなんて、どれだけ力がある魔物なのだろう。そう考えると背筋が寒くなる。

 なのに、セレイス様は気安く黒い犬に話しかけた。


「さて、報酬を渡したところで、注文をつけていいかな」

『なんだ』

「その鎖、少し無粋すぎる。せめてもっと細くしてほしい。リリーは小さな女の子なのだよ。動きを封じる目的なら、腕輪をつけてもいいんじゃないかな」

『おや、人の方が強欲ではないか。まあ、そのくらいの注文なら受けてやろうか』


 黒い犬がそう言った途端、手のひらくらいの大きさだった鎖が小さく細くなった。まるで装飾品のような美しい銀色の鎖がさらりと床に伸びている。

 代わりに、私の両腕に腕輪が生じていた。これも銀色で、細やかな模様がある。


 何これ。魔物って趣味いいんですね。

 私は半ば自棄になってそんなことを考えていた。

 動きにくさは少しなくなったけど、魔力によって押さえ込まれる作りになっていると思うと、少しも嬉しくはない。

 でもセレイス様は満足したようだ。

 短剣を鞘に納めて、うっとりと私の顎に触れた。



「その鎖、よく似合うね。でも元気に歩き回る君も好きだったから、王都を出たら鎖は外してあげるよ」

「……私を、どこかへ連れ出すつもり?」

「君は何も心配しなくていいんだよ。僕と一緒に暮らすのだから。ああ、でも僕は王都を出なければいけない。ずっと君と一緒にいたいところだが、父上が監視をつけていてね。いろいろうるさいから、あの犬と一緒に、先に外に出てもらうよ。何も怖いことはないから大丈夫だよ。一瞬で移動できるから」


 とろけるような甘い声だ。でもそんなに優しく語りかけられても、ちっとも嬉しくない。

 私は腹が立った。だからつい睨んでしまったけど、セレイス様はもっと嬉しそうな顔をしただけだった。チッ、変態め!

 そう憤慨していたら、セレイス様が優しく微笑んだ。


「……ねえ、リリー・アレナ。美しい狭間の女神よ。君の本当の色を見せて欲しいな」

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