第2話
何時の日か窓の向こうを飛んでいた名も知らぬ鳥の雄大を今はこの手のひらに触れる処に幻視するのです。
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起伏に富んだこの町は、少し歩くだけでさっき出てきた我が家を地平の向こうに隠し去ってしまう。だから後ろは振り向かない。
遠くに聞こえる潮騒を道導として、昨日とは違う道を、昨日と同じ方角へまっすぐ歩く。
結局昨日、水無瀬さんは私が最後に返事をするとすぐに帰っていってしまった。あれはこの真夏ならまだじゅうぶん明るい時間だったけれど、もう少しすれば夜の色が空に映りだすくらいの時間。きっと家が少し遠いか、もしくは少し門限に厳しい家なんだろうと取り敢えず合点して、私も帰路についた。水無瀬さんの家は私と逆方向なんだ、あっちの方にはまだ行ったことがないなと、そんな事を思いながら。
何に為るでもない回想を頭の中に木霊させているうち、気がつくとあの堤防が眼前に聳えている。バリアフリーの語を知らないらしい急角度の石階段を危うく後ろに転けそうになりながら上って左を振り向けば、そこに水無瀬さんがいる。
昨日と同じ、夕焼けの空を見上げる横顔。昨日よりも随分早くこちらに気付いたようで、私の方に向き直るそのかんばせは眩く綻んでいた。
「今日は、葵さん」
「ええ、こんにちは。……ここには、毎日来てるの?」
「はい。三か月くらい前からでしょうか。初めてこの景色を見てからは、毎日」
「そう。好きなのね、ここが」
「ええと、ここが好き……というのは、少し違う、かもしれません」
「違う、っていうと」
「その、今はあんまり上手く言葉に出来ないです。でも……」
「でも?」
「……いえ、何でもないです。……そうだ、葵さん」
一度言葉を切ってから、ぱんっと掌を合わせて言った。話題を変えたがっているのが簡単に伝わってきたから私もそれ以上追求はしない。
「私たちお互いにほとんど名前しか知らないですよね。自己紹介、しませんか?」
「ああ、うん」
「では、改めて。私は水無瀬。……こうしてみると余り話す事が思いつきませんね。……歳は15歳。趣味は本を読むこと」
私に紹介するというより、寧ろ自分で確認しているような語り方。それに言ったようにすぐに言葉が途切れたので、引き継ぐように続けて話す。
「私は葵。……は昨日言ったね。一昨日引っ越してきて、暇だから散歩ばっかりしてる。まだこの辺りのこと何にも知らないから、教えて貰えると嬉しい。それと、私も15歳。奇遇ね」
水無瀬さんは大分小柄で、話し方も相まっててっきり一つ二つ年下くらいだと早合点していた。とはいえ今更口調を変えるのも何だかなと思ったので変えはしない。
「それじゃあもしかして私達、あんまりお友達がいない同士、だったりします?」
そう言って首を傾げ微笑む顔には揶揄う様な色が浮かんでいるけれど、同時にそういった事に慣れていない様子が声色に顕れている。
「私、こっちに来てから家族以外で初めてお喋りしたのがあなたよ」
「そうなんですか! それは、何と言うか、とても光栄な事で……」
と照れ笑いするものの、急にしゅんと下を向いて、
「その、実は私、あんまり、とかほとんど、とか見栄を張りましたけれど、本当は記憶に残っている限り全く、です。……それがちょっと悩みでもありました。だから、葵さんがこうしてお話してくれて、本当に嬉しい」
「お友達第一号ね。お互い」
揶揄い返すつもりで呟いてみたものの、言ったこちらが恥ずかしくなってきた。頭の上を飛んでいる鳥たちには今の私達は二つ成りの桜桃にでも見えているだろうか。
二人笑って見つめ合ううち、先刻までは僅かに見上げる位置にあった夕陽が、今は寧ろ水無瀬さんの頬の下を掠める程になっていることに気がついた。
「私、暗くなる迄には帰らないと」
言って、気付く。
「そう云えば、水無瀬さんは昨日もっと早い時間に帰っていたのだと思うけど。大丈夫なの?」
「はい、今日は事前に言ってあるので。……といっても、私も流石にそろそろ帰らないといけませんね。それでは」
立ち上がって振り返る。ふわり翻るロングスカートが、たゆらに紅い陽光をはらむ。その動作ひとつが何らかの芸術作品で在るかの如きうつくしさを湛えて、私の意識を刹那に貫いていく。
「また明日、お会いしましょう」
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