堕天
もやし
第1話
天使さま、というものがこの世界にいるとして。
その羽を捥いでしまえたなら、私たちの目にはどんな風に映るのでしょうか。
****
「空を、見ているんです」
初めて聞いたあの子の声は、そんな言葉だった。
沈みかけの夕陽に照らされて尚白い陶磁のような横顔と、寸分違わぬ儚さを帯びた声だった。
「綺麗ね」
殆ど無意識に、限りなく小さく呟いたそれを、それでもあの子はどうやら聞き取ることができたようだった。只、少しばかり違う伝わり方で。
「……いえ。私はそうとは思いません」
あの子はきっと、この空のことを想っている。
仰いだ太陽すらも否応なしに翳らせる、いちばんの笑顔で。
「だから私は、空を見ているんです」
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つい昨日、親の仕事の都合でこの町に越してきた。半周を山々に囲まれ、隣町まではとても歩いて行けるようなものではない。丁度この夏休みが終わると通うことになる中学校の校区に収まるくらいの大きさの町。
そんな田舎町だから、余り遊びに行くような場所もない。当然まだ友達も全くいないから、家でする趣味もない私がすることと言えばもう散歩くらいしかない。引っ越してきたばかりだからすぐ近所の景色も新鮮なものばかりだ。これまで育ってきた街とは全く傾向の違うそれを、十分に楽しみながら歩いていた。
この町の、山のないもう半分の外周は海に面している。打ち付ける海風は、仄かな涼しさと蒸し暑さを同時に運んでくる。
その海沿いの堤防の上、ぽつんと一つ置かれたベンチに、あの子を見付けた。
町の中心部からは少し離れて、だから通行人もほぼいない。視界に映るのは紅くなりだした太陽と、照らされた海。微かに橙に染まりだした世界を一筋切り裂く、あの子の影。
首を微かに上に傾けてただ一人佇んでいたあの子に、何故だか声を掛けてみる気になった。
今思えばあれを、見蕩れていると云うのだろう。一目惚れという奴だ。
何をしているの、と、どう考えても初対面の相手にこの状況で言うことでもない質問をした私に、あの子はその貌を一切こちらに向けることなく、然しながら丁寧に応えた。――空を見ているのだ、と。
****
「……ところで、貴女は?」
そう問われた時、私は暫しの間固まってしまっていた。
何故かと問われれば、それは不意にこちらを見据えた金色の瞳の所為であると言う他にない。日頃見慣れないそれはあの子の美しさと相まって、あの子をどこか画面の中の女優のような、或いは神話の中のモノであるかのような感覚を与えてくる。物語の登場人物と会話をすることはない。そのことと同じような隔絶を、私はあの子に対して覚えていた。
「あぁ、そうね。私は葵。三雲葵」
「葵さんね。私は……そう、私は水無瀬。水無瀬って呼んで下さい」
取り敢えず座って下さいとベンチの端に寄って、空いた座面をぽんぽんと叩く水無瀬さん。今まで見下ろす形で話していた事を謝りながら、なるべく距離を取って腰掛ける。
「えっと、水無瀬さん。さっきは御免なさい。急に話し掛けたりして、驚いたでしょう」
「いえ。確かに不意だったもので少し驚きはしましたが、それよりも……急に、不躾な事で申し訳ないのですが」
敢えて空けた人ふたり分位の空間の、丁度真ん中辺りに手を付き身を乗り出して、
「私の、お話し相手になって下さいませんか?」
古いベンチは微かに軋み、その音は夕陽を背に飛んでいく名も知らぬ鳥の声にすぐに掻き消される。
俄かに近づいた琥珀の瞳はゆっくりと元の位置まで離れていって、それでも私の目を確と捉えたまま続ける。
「実は、恥ずかしながら同年代のお友達があまり居なくて。……というより、同じ位の歳の方とお話させて頂いたことも、この片手で数えられる程しか記憶にございません」
はにかみながらひらひらと、ベンチに付いていない方の小さな左手を振ってみせる水無瀬さん。
そうした仕草に見蕩れ惚けてしまわぬように努めて、何とか返事を絞り出す。
「ええ。私で良ければ喜んで」
言うや、水無瀬さんは分かりやすくぱっと顔を明るくして、そしてすぐに繕うように一度きつく瞬いて向き直る。こほん、とわざとらしく咳払いをして、
「有難うございます。……ええと、本当は今すぐにでもお話したいことが幾つもあるのですけれど」
白樺の枝の先みたいな華奢な右手首の腕時計──パステルカラーな水色の、可愛らしいデザインの──をちらっと見て続ける。
「申し訳ありませんが、私はもう帰らなくちゃいけません。もしお暇でしたら、明日も此処に来て下さい。……できれば、もう十分ばかり早く」
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