卒業(推し活)

 推しの卒業発表も、さほど話題にならなかった。ただ、静かにトピックにあらわれて、消えた。

 長いようで、短い推し活だった。

 活動の痕跡を巡ろうにも、マイナー故に、たどるほどの距離も蓄積もない。グッズは少ないが、レアリティの低さが幸いして、さほど資金繰りには困らなかった。狭い生活空間が圧迫されることもない。

 遠征費用も同じだ。そもそも回数が少ない。

 ただ、現場で感じた疎外感は拭えなかった。いわゆるトップスターその周辺、期待のホープ、あるいは熟練度の高い先輩格や長老格。それらを推す方々の分厚さに、苦笑を浮かべて佇む他ない。

 マイナー勢がメジャーになった途端、さめてしまう場合もある。だからといって、マイナーなまま、時間を費やすのも切ない。

 推し故に、奇妙な義務感や使命感に疲労してしまったり。望まぬ方角へ路線変更されてしまったり。いきなり卒業してしまったり……。

 卒業後、変わらず推せる場合もある。

 だが、その活動中だからこそ、推せたのであって、そうでなくなれば、推せない。高まり、湧き上がり、破裂しそうなほどの衝動が生まれない。

 散財にもパワーが必要なのだ。

 だから?

 だから!

 彼女は、今夜もベッドの上で。自作の抱き枕にしがみつきながら、堂々巡りを繰り返す。

 推しの居ない世界で、推しを感じない生活をして、新たな推しと巡り合うべく、生きていくべきなのだろうか。

 彼女は。ふと思った。

『あたしも卒業なのかなぁー』

 その部屋の壁にはっつけたお手製のウチワ、なぜか、ずるずると滑り落ちた。拾って元の場所へと飾る余力を彼女は持ってない。

 目を閉じて、抱き枕に顔を埋める。推しの匂いがする、そう思ってる。なぜなら、推しが使ってた香水、いつも与えていたから。

 香水も安かった。よりどり3点セット売り。

 二本はお目当てのもので、もう一本は謎。よくわかんない、読めない文字のラベル。香りも確かめてない。

 二瓶目もさっき費やした抱き枕も、捨ててしまう日が来る。

 すっごいショックで、ロスって、激しく落ち込むこともできたら。彼女が過ごす夜も、違ったものになっていただろう。

 なまじ、想定内で心の準備をしてしまったため、取り乱すことができない。それはそれで、マイワールドに没頭できない。

 ずり落ちたウチワ、そして鏡台、並んだ化粧品。もちろん、例の香水も置かれてた。

 なんとなく起きて。なんとなく抱き枕も引きずって。なんとなく鏡台の前。その瓶を開けて、香りを確かめて。

 やはり、よくわからない。推しの香りを浴びすぎて、鼻が拒絶しているのかもしれない。

 捨てよう。

 彼女は自分に命令するかのように、自然と口から言葉が漏れた。

 ふたも閉めず、瓶を置いたきり。ゴミ収集のカレンダーはどこにしまったっけ? と独り言を続けながら、あちこちガサゴソ。

 抱き枕、まだ左手に。

 例の香水は、じんわり気化し続ける。大袈裟な速度で。まるで、開放された監獄から、こぞって囚人たちが飛び出してゆくように。

 カレンダーが見つからない。いや、探しにくい。抱き枕を置こうとしたら、腕から離れない。

 彼女は自分の腕、その枕を見て驚き、慄き、恐れのあまり声をあげた。

 推しが!

 掴んでいる! 彼女を!

 抱き枕が、彼女を抱いた……いや、捕まえたというべきか。押し倒そうとするから、彼女も反射的に抵抗する。狭い部屋、どちらが振り回されているのやら。

 ぶつかった鏡台、散らばる化粧品、例の瓶、彼女は勢いよく踏みつけ、割れて。そのせいで転んで。痛みを感じたとき、抱き枕ではなく、推しがいた。

 夢ではなかった、足の裏の痛みがあって。いや、夢でもよかった。言いたいこと、聞きたいこと、たくさんあって。

 壁ドンではなく、床ドン?

 彼女は体温を急速に上昇させたまま、推しの顔を観察しながら、言葉を待った。

 数秒の沈黙、長い静寂、短い心音。

 推しは、こう言った。

『捨てよう』

 何言ってんだ? と素直に彼女は思う。

 捨てるのは、あの香水で。

 嗅覚が急に再起動した。

 その香りたるや、容赦なく彼女の脳髄を揺さぶり、禍々しく『黄昏地帯』を叩き込む。そして、推しの存在が彼女を圧する。

 だから彼女は、阻むことも、拒むこともしなかった。ただ、懸命に推し活に没頭していた、あの短期間を脳内反芻する。


 ゴミ収集車がやってきた。

 今日は可燃物収集。布類もある。

 ウチワの柄がゴミ袋から飛び出していても、作業員は黙々と収集車に放り込もうとする。やけに変な匂いのする抱き枕、やけにリアルなプリント、恍惚とした彼女……だが、そのゴミ袋は透明ではないから。

 誰にも見えない。

 発見できる奴は、めざとく見つけるかもしれないが。

 捨てよう。

 ゴミだ。

 

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