[1-5]とっておきの子守唄を歌ってあげましょうか?
細い眉をつり上げ、ドレスの裾をさばきながら美女がゼレスのもとへ近づいてゆくのを、僕とヴェルは黙って見守った。
当の本人はきつく睨まれて顔を引きつらせていたものの、ついに覚悟を決めたらしい。椅子から立ち上がり、ゼレスもローズのもとへ近づいていった。
「ひっどいクマ! 一体、何日寝てないの!!」
当然のことだけど、怒鳴られていた。
今のゼレスは疲れきった顔してるし、目の下に
普段は精悍な顔つきをしているゼレスも、さすがに恋人には弱いらしい。眉を下げて頼りなさそうな顔をしていた。
「悪かったな、ローズ。ここのところ会ってやれなくて」
「あたしは会ってくれないから執務室まで乗り込んできたわけじゃないのよ? あなたのことを心配してるの。ちゃんとわかってるの!?」
「分かってる。ちゃんと分かってるぜ」
腰に手を当てて迫るローズに対し、ゼレスは及び腰になっている。まるで痴話喧嘩みたいだ。
案外、ゼレスは満更でもないらしい。困ってはいるけど笑っているし、心配されてどこか嬉しそうにも見える。ヴェルによれば二人は仲のいいカップルだって話だし、やっぱりローズとの交際は順調なんだろうな。……この、山のような仕事さえなければ。
頑固で忠義狼のゼレスだって、さすがにローズの言うことには耳を傾けるだろう。
もういっそのこと、ゼレスのことは初めから彼女に任せておけばよかったのかもしれない。
「もう大丈夫だね、ヴェル。ゼレスもローズの言うことなら聞くだろうし」
無事に今回の仕事は完了と思いきや、どうやら弟の中では違ったらしい。ヴェルは端正な顔に難色を滲ませていた。
「うーん、それはどうだろうなあ。簡単にうまくいかないと俺は思うぜ」
「なんで?」
「だってさ……」
一体、弟は何を
ゼレスはくどくどと説教をまで始めていたローズの腰に突然腕を回し、彼女の身体を引き寄せ、なんと僕たちの目の前で抱きしめてしまったのだ。
「ちょっ、いきなりなにす——」
「ローズは怒った顔も可愛いよな。目がキラキラしててさ」
目を白黒させて困惑するローズとは対照的に、ゼレスは青い瞳をうっとりととろけさせている。
いやいやいやいや!
いい大人がなにやってんのさ。僕はともかくヴェル(息子)が目の前にいるんだよ!?
けれど、ヴェルは慣れたもので平然としていた。
かわいた笑みをもらしながら、僕に目を向け、トドメの一言を口にしたのだ。
「ほら、ゼレスってどんな母さんでも大好きだから」
まあ、うん。
そりゃローズだって、ヴェルと同じ
こんな非常事態にローズが色目なんて使うわけないだろ。
ゼレスのやつ、どんだけローズにベタ惚れなんだよ。というか、場所を選べよ!
息子を前にして恋人に抱きしめられる母親の気持ちを、少しは考えたらどうなのさ。
ほら、今だって細い腕でゼレスの腕を引きはがそうと必死になってるじゃん。いたたまれなくなってるんだよ。わかってあげなよ!
「ちょっ、ちょっと、ゼレス! こんなところでなに考えてるのっ」
「ローズ、心配かけてごめんな。でも大丈夫だ。おまえに会って元気が出てきた。まだまだ俺は仕事をがんばれそうだぜ」
「——はあ!?」
ものの見事にハモった。
今、この時。僕たち——つまり、僕とヴェル、ローズ——は、ほぼ同時に不機嫌な声で返事をかえした。
さすがローズ。勘のいいヴェルと同じ遺伝子を持っているだけのことはある。
低くなった声だけじゃなく、僕たちと一緒になって目を据わらせるさまなんて、ほんとにコンビネーションばっちりだよね。
ちなみに、ゼレス本人だけ、自分を心配する者たちの地雷を踏み抜いたことに気づいていないようだ。
だから彼は、今腕の中にいる最愛の恋人がブチ切れたことにもわからず、声音をやわらかくして
「穴埋めはいつか必ず、仕事が落ち着いたらする! だから」
「ゼレス、どうやらあなたはあたしの言葉をちっとも聞いていなかったようね? 仕事とあたしのこと、どっちが大事なの——、なんて、野暮なことは聞かないわ。でもね、あなたが仕事のことが心配で心配で夜も眠れないと言うのなら、あたしにも考えがあるの」
ローズは腕をゆるりと上げ、白く細い指でゼレスの精悍な顔を包み込んだ。まるで自分から目をそらすのは許さないとでも言うように。
顔を上げ、彼女は
「あたしが特別に、あなただけのためにとっておきの子守唄を歌ってあげましょうか?」
今度こそ、ゼレスの顔から血の気が引いた。思わずローズから手を離し距離を取ろうとしたけど、彼女はそれを許さなかった。
「そ、それは待ってくれっ! おまえが本気で歌うとシャレになんねえだろ!? 前後不覚で眠っちまう!」
「あら、だからいいんじゃない。これでもあたし、少し前までは首都ルカニアの酒場で大人気の歌姫だったのよ? うふふ、任せて。あなたが望むなら、あたしの膝の上で歌ってあげてもよろしくてよ?
実は、ローズの本職は歌うたいであり、魔力を込めた歌——呪歌の使い手だ。その実力はプロ級だったりする。
相手を深い眠りへ誘う子守唄はもちろん、体力を回復させたり、敵にダメージを与える効果を持つ多種多様な呪歌を操るのだ。彼女の実力は息子のヴェルはもちろんのこと、当然僕やゼレスも知っている。
だからこそ、今この局面で、ゼレスはローズを恐れているのだ。
おそらくそんな彼の心情を知っているであろうローズは、豊かな胸もとの前で両手を合わせ、顔を引きつらせた恋人に機嫌よく笑いかけた。
「安心しなさい、ゼレス。悪夢なんか見れないくらい、深く、泥のように眠らせてあげるから」
口で言って聞かないなら強制執行ということだ。
次の瞬間、宝石のような茜色の瞳が僕たちの姿をとらえた。
僕とヴェルはすぐに姿勢を正し、空気を読んだ。
黙って耳栓をし、背後からゼレスを羽交い締めにして拘束する。振りほどかれないよう最新の注意を払いつつ、僕たちはただ時間が通り過ぎるの待った。
こうしてゼレスはローズの予言通り、深く、泥のように眠り込む羽目になったのだった。
後で城仕えのメイドの一人から聞いた話によると、執務室からは思わず手を止めてしまうくらいの美しい歌声が聞こえたきたのだとか。その余波で、柱廊で眠ってしまった大臣たちが数名いたらしい。
……耳栓、持っててよかった。
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