風にこの由を聞きて 10
あの、遠い日のように、ふわりと丘の上に佇んていた彼女が振り向いた。
肩が動いた瞬間に、緊張で身体が強張った。行くな、と反射的に念じた。彼女は思い出の中のように
――気がつけば、柔らかな草で何度か足を滑らせ、幾度か無様によろめきながら丘を駆け上っていた。
「遅いよ。」
腰に手をあてて、早桜は唇を尖らせてみせた。
こっちは(全く一方的な訪れを)十数年待ち続けたとか、文字通り飛んできたんだぞとか過ぎった台詞はばらばらと砕けて、風斗はただ彼女を見つめた。
瞳の形、頬の流れ、唇のへこみ・・・・なにもかも確かに彼女そのもので、けれど透けていないその質感に戸惑う。
右手をあげて彼女に向けて伸ばし、けれど空中で凍りついたように止まった。早桜はちょっと首を傾げ、微笑むと男の指を掴んだ。びくりと大きく震えて目を見開いた風斗を見上げた早桜の唇は、少し迷って彼の名前をそっと押し出した。
「空里、」
「・・・・早桜……」
「うん。びっくりしたよね。どうしてこうなったのか、私もよく分からないんだけど、目が覚めたらここで、それで有夏に出会って……きゃっ!?」
ぐい、と手を掴まれた。
早桜の右手を両手で包むようにして風斗は己の額に寄せる。まるで神聖な儀式のように。
「感謝します……!」
それは祈りの声だった。
彼方で、ひたかみの大河は陽をはじいてきらめいていた。
明るい、眩しい、その午後――。
「髪、伸びたな。」
川風にさらわれる髪を抑えた早桜は、
「目醒めたら、ね。」
と、苦笑を浮かべた。
それから軽く唇を噛むと、真剣な瞳で風斗を見据えた。
「・・・・私、ずっとここは夢だと思っていた。この空間もだれもかれも、私が見ている――私が創りあげた夢の世界だと。」
「――俺は夢じゃない。」
「分かってる。怒らないできいて。ここは現実だわ。でも、私はたしかに眠っていたの。ここでは十数年が過ぎたけれど、私には連続する・・・・まどろみ、ここにいて、またまどろむ・・・というような長いひとつの・・・・。まるで目が醒めたように鮮明な時間であっても、ここは私が目覚める筈の場所じゃないから、」
足の指先に触れるちくちくとした草の先端と、草履ごしに感じる大地の固さ。
「なのに『夢』の場所で目が醒めて私がどんなに混乱したか分かる? 突然、『夢』が現実になって、じゃあ私の目覚めるべき場所は何処に行ったの?」
考えるほどに、思考が千切れていく。
「私じゃない『私』の場所があって、でも私はその『私』が分からなくて。」
キオクノナイカラダ。カラダノナイキオク。
この触れられる『夢』と触れられない『
「・・・・早桜、だろう。あんたは。」
「――そうだね。私は『早桜』しかしらないもの。」
川面を見遣って頼りなく揺れていた瞳が、ゆっくり戻って早桜は微笑んだ。
「だから・・・・この髪の長さ以外、爪の先まで私自身が違和感もないけれど、でもこれは私じゃない。このひとの身体に私のこころがある――たぶんそういうことなんだと思うの。」
今まで際物の様に考えていたけれど、魂、というものが、たぶん、あって・・・この『世界』は『夢』ではなく、自分の『
では、この身体の魂はどこに在るのだろう。
ならば、自分の身体はいまどうなっているのだろう。
そして――無我夢中で自分はここまで来てしまったけれど、多賀城に行く筈だったこのひとが消えて、このひとのまわりにいた人たちはどうしているんだろう。
ひたかみをめざすのでいっぱいで、屋敷の位置うろおぼえだが、だいたいのあたりは分かるから、風斗に頼んで様子をみてもらうのは可能だろうか。大和の領域だから、多賀城の部将に嫁いだ有夏に頼んだ方がいいのだろうか。
現実的な対応に気がまわるようになった、と早桜は少し自分に満足した。
釈然としない顔で軽く首を傾げている風斗は、困惑を察して案じてくれているだろうが、恐らく理解はしていないだろうと思う。彼は聡いひとだが、彼の有する世界観ではどうしようもないこともある。例えば、自分を神姫だと疑いなく信じているあたりで、現在自分の頭の中にある他次元とか異世界とか(浪漫とは思えど、存在を真面目に考えたことはない)、そういうファンタジックな理解は思考の範囲外だ。
それでいい、と思う。
夢ではないのだから、ここですんなり彼が理解するのは都合がよすぎる。
これは夢でないゆえの、現実のもどかしさ。
「・・・・その
視線を上から下へと滑らせ、風斗が言った。
現実の、齟齬の起きない話に移るのは、だから当然の成り行き。
「うん、そう。嫁ぐ前のだとか言ってた。有夏って趣味がいいよね。」
そして使われている布も、さすが闇衛の姫らしい見事なものだ。
「蔵の反物から好きなものを選んで、いくらでもあつらえるといい。お前の好みにあまり合うものがなければ、
「借りたもので十分事足りているけど。」
「俺がそうしたいんだ。ずっとお前にいろいろ贈りたかったけれど、かなうことじゃなかったから。だから、いいだろう?」
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