風にこの由を聞きて 8
そうび-----薔薇----の館と呼ばれる小館は、有夏が嫁いだときに彼女とその夫の滞在用に準備された。
見知らぬ建物を、目新しいというより備えを確認する武将の目で眺め回しながら、彼は立っていた。
おいでなさいませ、とにこやかに迎えでた妹に、険のある視線が返る。
「はるばる厨川からお運びで、さぞお疲れになっておられましょう。でも、さすが風斗兄者はわきまえがおありですわ。ここは闇衛の
舌打ちを辛うじて抑えた気配にも、しらりとして続ける。
「無論、お引取り願いましたわ。ひとの館を訪ねる姿ではございませんでしょう? やたらな者を出入りさせては、主人の品位が疑われますし、闇衛の沽券にもかかわるというものですわ。」
一度は今朝の意趣返しもあってつれなく追い返しはしたが、二度めはどうであっても通す気ではいた。まさか、こうまで取り戻せるとは予想もつかなかった。
かろうじて一つに束ねてはいたが伸びるままといった具合の髪にきちんと櫛を通し、人相をすっかり隠していた髯も剃って・・・。往時の端然とした佇まいを目にして、胸の奥底からこみ上げた、熱くて苦くて切ないものは、暫し有夏の呼吸を止めた。
――なんて身勝手で。
――なんと単純で。
「で、何用でしょう?」
ぴく、と微かに頬がひきつるのをめざとくとらえながら、有夏はさらににこやかに笑ってみせる。
「・・・・あれは?」
「あれ、とはなにかお入用なものでも?」
「――彼女は?」
「彼女。風斗兄者のお目に止まったのはどの者でしょう。そうびの侍女はみな見目良いものばかりですけれど、嫁入り前の行儀見習いで預かっている娘も多いものですから、たとえ風斗兄者でも生半可なお心でお呼びになられては困ります。」
「・・・・お前が今朝方連れていた娘だ。」
苛立ちが皮膚の下で波打っているのが分かる。
騙りだと言い捨ててみたものの、こうして足を運んできたのだから(しかも終には身なりまで整えて)、信じたいのだろう。
――けれど、それでも、信じられないのだ。
早桜が現れてもう二十年近く・・・・その間に積み重ねてきた『絶望』は深くて。
「おりませんわ。」
「・・・・ぺてんをかける前に用済みになって、そうそうに帰したというわけか。」
「ぺてんとおっしゃるのなら、彼女がどうであろうと関係ございませんでしょう。」
「――そのわざとらしい、馬鹿丁寧な話し方はよせ。」
「風斗兄者こそ、その喧嘩ごしのおっしゃりよう、風斗ともあろう御方のなされようとしてはいささかならずご配慮に欠ける態度だと思いますけれども。」
はったとにらみ合った後、有夏は肩を竦めて言い継いだ。
「とにかく・・・出かけているのは本当です。」
「・・・・何処へ?」
「どうやったら帰れるのかって思案中で、全てのはじまりの・・・最初に気がついたところに行ってみたいって出かけていったわ。」
「ひとりか!?」
「まさか。水来をつけて送り出しました。」
「最初の・・・・
さらり、とした風斗の口調の罠に有夏は気づかない。けれど、応えは罠を飛び越えて遠くに着地したのだ。
「私と大里兄者(故人となった時点で冠は次代のものとされ、真名となる)が散歩してて、そこに風斗兄者が走ってきて。風織姫に会ったと言った。秋のはじめで、薄が一面に茂っていて。そうよね・・・・やっぱり。でも早桜は丘の上で、遥かまで河の流れが見晴らせる場所に行きたいって言ったのよ。そこがはじまりだって・・・・風斗兄者?」
「・・・ひたかみを見晴らかす丘――そう、言ったのか!?」
「え、ええ、」
噛み付くような剣幕にあっけにとられながら、有夏は頷く。
「早桜の話から、だいたいの見当をつけて、ほら
「分かっている。」
誰にも話したことはなかった。夏の、昼下がり。眩しい光の中。何に零したのか水晶のかけらのように涙を散らせていた神姫の横顔。その瞳を見たくて、自分を見て欲しくなって、畏れもなにも考えられずに声をかけた。驚いたように振り向いた少女の瞳には一瞬、確かに自分が写り、そして姿はかききえた。
彼女とすら、そのときを振り返った
言葉もなく、何者か考える暇もなく、再び見えることを望みもせず、刹那の、幻のような遭遇―――まだ出会いではなく。
目の奥がちかちかと白く発光する。震える指先をかたく握りこんだ。
「―――早桜なのか、本当に。」
こんなに頼りない、どこか縋るような兄の声をはじめて聞いたと有夏は思う。
「ええ、風斗兄者。」
ほんの少しだけ母親のような気分にすらなって、有夏は柔らかく微笑んでみせた。
「早桜なのよ、確かに。」
「そうか・・・・あれは・・・・だったのか。」
深く深く、吐息をもらして落とした瞼を上げた風斗は、その感傷を振り払い改めて妹に問いかけた。
「水来が一緒なのだな?」
「そう。もうあちらに着く頃合だと思うけれど。試しに、という感じで、これで直ぐに早桜が帰ってしまうということはないとは・・・・風斗兄者!?」
小坪に降りていった風斗は隅の井戸へ真っ直ぐ歩をすすめ、水をくみ上げた。桶を片手に振り返り、無造作に中身を撒く。半円を描くように撒かれた水は地面に向かって広がる
代わりに、上空へ向かって吹き上がり、一滴も地に跡を残すことなくその場から消えた。
なにを始めたのかと濡れ縁にたって兄の行動を眺める有夏の前で、風斗はもう一度水を汲み上げ、今度はそのまま桶を地面に置いた。
揺れる水面が鎮まり、それからやや暫く。水面を流れる雲を見つめるように桶を見下ろしていた風斗が、すっと桶に屈みこんだ。
「・・・・水来。」
風もないのに桶の水面が震え、ぼんやりとした影が滲み出すように広がっていく。
浮かんだ影は明確な形を映し出すことはなく、輪郭を不安定に揺らす。一言、弟の名を呟いた後、深く桶を覗き込んでいた風斗の横顔が険しくなっていくのを有夏は息をつめるようにして見守っていた。
顎をひくようにして、すっくと兄が立ち上がるのと同時に桶に浮かんでいた影は消え、水はもとの透明度を取り戻した。
「・・・・風斗兄者?」
「――有夏、」
腰を屈め桶をゆっくりと持ち上げながら風斗は、妹を見据えてその名を呼んだ。
「出てくる。」
どこへ、とは問わなくても分かったから、では馬を、と言いかけた有夏はぽっかりと口を開いた。
風斗は再び桶の中身を宙に振り撒いた。
今度は水は道理にしたがって日差しをはじきながら流線を描いて落ちていく。そして滴たちがすべて地面に吸い込まれたとき、その向こうに立っていた風斗の姿は忽然とかききえていた。
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