風にこの由を聞きて 7
空は蒼から薄い、光を帯びた青へと移り、池から立上る朝霧が微かな風に、帯のように幾重にも重なり合い流れていく。
手の中で玩んでいた小石を、指先で弾いた。
遠くで上がった鳥の囀りに、小石が水面を叩いた音は消されて、揺れる小さな水紋を早桜はただ見つめた。
『夢』が始まって三日目の朝が間もなく明ける。
いまだに醒めない。だいたい、どうやったのなら目が覚めるのか皆目見当がつかないのだ。昨夜などは、夢まで見てしまったのだから笑える。
――いや、笑っている場合ではないのだが。
早桜は重い溜息を吐き出した。
腰掛けている石についた掌に力をこめる。
硬い、確かな質量感。現実の……。すべてが現実の空間であることを指示す!!
決して触れられなかった『夢』が、現実にとってかわった。……では、これまでの自分の『現実』は何処へいってしまったのだろう。
胃が重くなるというか、自分の「正気」すらおぼつかなくなる居心地の悪さ。
「……だめだ。考えるとぐるぐるしてくる。」
前髪を乱暴にかきあげ顔を顰めた早桜は、ふと風を伝わる緊張を孕んだ気配に反射的に振り返った。
瞬きを忘れたように視線を据えたまま、早桜は石から滑り降りた。
からだの奥底から息苦しいものがせりあがってきて、唇を開かせ、小さく震わせた。
「……空里、」
その後姿に名前を呟いて、男は自嘲に満ちた笑みを染み上がらせた。
肩のかたち、首筋の線、頭の傾け方……彼女に似たところを見ては、どきりとする。
有り得ないとそう自嘲いながら、それでも確かめずにはいられない。
彼女でないことを。
手の中で弄んでいた小石を池に放ったその女は、苛立たしげな様子で前髪をかきあげる。
やわらかな線で描かれた、その白い横顔――どくんと、全身の血が波打ったような、そんな感覚が、男を襲う。
――あれはひとの横顔だ。
透けていない、当たり前の人の姿。
そんなに都合のいい話があってたまるものか。
自分を嘲笑ってみる先から、呼吸が浅くなって、指先から震えが広がる。
――けれど!
刹那、ふ、と少女が面をこちらに巡らした。
「早桜ッ、良かったッ。消えたかと……ッ。」
飛びこんできた声に、緊張は破れた。
「そんな薄着で、・・もう、裾なんか露で濡れてしまっているじゃない。寒くない?」
「……有夏、探してくれていた?」
「妻戸が開いていたから、中を確かめた侍女が姿がないって言うから、・・・いってしまったのかと。」
しっとりと湿った早桜の髪に手を滑らせ、帰還ってなくてよかった、と彼の妹がついた安堵の息を、目を醒ます手段を思考していた早桜は複雑な思いで受け止める。
「ごめんなさい。早く目が醒めてしまったから・・・。」
「……そういうことか。」
低い声に、有夏がぎょっとしたように目を向けてきた。
「あ、風斗兄者……?」
彼女がやってきた位置からはちょうど死角になっていたのだろう。兄の存在を認めて、有夏は驚いた声をあげた。
「また……お前らの仕掛けか。」
いまいましげに早桜から目を反らした。
「――!? え、ちょっと待って、風斗兄――、」
「たいがいにしろ。」
冷たく吐き捨てると、風斗はくるりと背を向けた。
一片の言葉も聞かぬ、と告げている背が遠ざかる。
「……有夏、あなたたち、」
思いきりはねつけられた訳だが、傷ついたという顔ではなく呆気に取られた面をしていた早桜は、ふいに何かを察して友人を顧みた。
「――なにをした訳?」
「……鋭いわね。」
溜息をついて、有夏は早桜の二の腕を軽く押して、彼女の小館へと戻りながら応じた。
「怒らないでよ?」
と、前置いて、それでも言いづらそうに打ち明けられたことに、
「……よくそんな馬鹿げたこと、」
辛辣さと呆れを半々に首を振る。
「こっちは必死だったの!」
「似たひとを探すのは、それは大変でしょう。」
ぜひ、そのうち会わせてみせて、と皮肉に言われて、有夏はかちんときた。
「それは――あなたが、」
思わず言い返して、言葉を呑んだ。
「私が?」
早桜が強い口調で促した。ちらり、とその瞳を見、有夏が口を開く。
「あなたの姿がなくなってから、風斗兄者は、いっさいのことに関心を示さなくなった。政にも、軍ごとにも、私達にも……自分にも。」
拒絶というよりは、無関心。
あてつけているのかと思ったけれど。
――空ろに凪いだ瞳に、言葉を失った。
「だから……焦ったの。短絡的だとは現在にしてみれば思うわ。香と酒と灯火で誤魔化して、なんとかなる……はずもないのに。その程度のものならば、心配もいらないはずだもの。……ねぇ……早桜はすぐ分かった?」
「なに?」
「あんな風体で……分からなくはなかったの?」
「だれかとは思わなかったな。」
空里はいつだって空里だ。
時が彼をめまぐるしく
でも、と早桜は肩越しに来た方を見遣ったが、木立に遮られて既に中庭は見通せなくなっていた。
「……構わない格好だったわよね、そういえば。山ごもりをしていて慌ててでてきたみたい。」
「――まあ、確かにそんなようなものね」
いまはもう厨川の柵から出てくるのは、神事の折だけ。風斗としての大地に
「……うーん、今更、ちょっと腹が立ってきたかな。つまり、私だと信じられなかったわけよね? 私を目の前にしているのに?」
軽い憤慨をこめて言う早桜に、有夏は苦さを滲ませた微笑をそっと浮かべた。
「……どうして信じられるの?」
「――なにが?」
「あなたが触れられる位置にいることが、こうしてあなたに触れてみても信じがたいのに。あなたが、こうして此々にいると、そんな都合のいい夢があっていいはずがないのよ。」
有夏は早桜の顔を覗き込み、ぎゅっと両の腕を掴んだ。
「早桜、ねぇお願い。いかないで。そして・・・・どうか------兄を救って。兄はあなたの風斗でしょう!? あなたでなければ駄目なの。どうか・・・風織姫。」
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