風にこの由を聞きて 6

 ――桜は儚いから華やかで綺麗。

 桜の森から一本だけ離れた樹の下。すくうように上向けた掌を抜けて落ちて行く花弁に、少し唇を尖らせた。

 透ける身体が、と花びらで埋められるのは、感触がある訳ではないけれど想像すると相当気色悪い光景になる(そうだなと相鎚を打ったら、石を飛ばせて寄越した)と、毎年、少し離れた丘の上から、かすむように花びらを舞い散らせる桜の森に目を細めていた。

 ――凛としているのは、夏に咲く背の高い黄色の、月の名前の……。

 ――……月見草か?

 ――そういう名前だったかな。夏の青に向かってぴんと伸びる澄んだ黄色が好き。

 ――厨川館近くで、群生しているのを見たことがあるな。

 ――一番いっぱい咲くのっていつくらいかなあ? うまく来れたら場所教えてよね。

 ――ああ、連れていってやるよ。

 ――じゃあ、約束。

 ――手軽なヤツだな。そんな何処にでもある野花で喜ぶのか。

 いかなる名花珍花でも、大陸からでも、南海の向こうからでも、どんな金を費やしてでも、望むのならばその手に渡してやるのに。

 ――だって、この空の下、この大地の上に咲く花だから。


 人の気配で目が覚めた。

 瞼を上げる一瞬手前で、いまだに期待することは止まない。そしてだれもいない空間と向き合った瞬間に吹く、胸を抉る鋭い冷たい風を待ちながら、目を開けるのだ。

 手をやった前髪からはらはらと薄紅の花びらが落ちる。ふと見れば、着物と濡れ縁はすっかり桜模様に変わっていた。紫紺の空気の中でも、小坪の端の桜はもう緑が半分以上を占めていることが見取れた。

 ――春が逝く。

 そして初夏。

 あれから、まだ三回目の。

 あと、どれくらいこうやって季節を送れば、自分の時は……逝けるのだろう。

 困ったように立ち竦む気配に首を巡らす。衣を腕に抱えた女は、視線を受けて平伏した。

「お休みのご様子でしたので衣を、」

「……ああ、」

 男はうっそりと立ちあがり、女の脇を擦りぬけて立ち去ろうとする。

「――あ、あのッ」

 呼び止められて、男は意外な顔で振り返った。

「あの……有夏さまが、そうびの小館までお運びくださいますようにと。」

「有夏? あいつは戻った筈じゃないのか?」

「あの、お客様をお連れになられて、それで途中で引き返されていらっしゃったようで。」

「しょうがない気ままものだな。」

 呟いて、また歩き出す。

「あのッ、必ずお越しくださいと。」

「ああ、聞いた。」

 訪なう気などなかった。

 今夜、衆議に顔を出して、持ちかけられる幾つかの評定に首を縦にふれば、お役ご免だ。

 明日の早朝には、衣川を発つ。


 気がつけば囲まれていた。

 ばらばらと叢から飛び散って、ぐるりと自分を取り囲んだ影の頭数を数えることすらしない。

 次々に刀身を見せていく太刀――最初に引きぬいた「影」が声を発した。

「安倍次郎貞任どの」

「知らんな。そんなヤツ。」

「言い逃れなさろうとは、安倍一と謳われた武勇の主とは思えぬ胆の小ささよ。」

 木の葉がこすれあうような、低い嘲笑が渡ってくる。

「太刀を抜かれよ。それとも? 手が震えて抜けぬのであろうか?」

「退け。」

 太刀の柄に、手をかけることもせずに、男は言う。

「面倒だ。」

「……な」

 邪魔だ、というような調子に、唖然とした空気が場を支配した。

「……虚勢を!」

「それはそっちだろう? 俺ひとりにこれだけでかかってきながら、なにを怯えている?」

「……!」

 気色ばむ気配と、ざっと複数の地を蹴る音。

 だが、次の瞬間につづく筈の、金属がぶつかりあう音も、肉を断つ音も起こらなかった。

 奇妙な静寂を、という男の笑いが破る。

「第六感ってヤツは信じた方がいいんたぜ……っと今更遅いがな。」

 突然、指一本どころか声すらも出せない状況に陥った『影』の、恐慌と恐怖が空気を震わせた。

「名前はきちんと呼ぶものだ。ひたかみの天と地の間で呼ばれる名は力を表すのだから。」

 耳の奥底をひっかくような、キン、という風の気配。鈍い、ぞっとするような音がして、『影』から丸い影が外れ、ぽとりぽとりと地に落ちていく。

 再び歩き出した男の背後で、『影』たちが重い音を立てながら闇の底へと沈んでいった。


 ――風邪ひくよ?

 眉を顰めているような気配とともに、声がした。

 ――また、蕾も固い季節に、それもこんな夜中に水浴びしているなんて。

 ――水浴びじゃない。禊だ。

 ――みそぎ?

 きょとんとした表情で、岸辺から水に浸かったままの彼を見下ろす。

 ――……いいから、ちょっとそっち向いてろって。上がれないだろうがッ

 ――え、え……な、なによッ。もうッ

 彼の状態に気づいて、真っ赤になった少女が、慌てて木の向こう側に姿を隠した。

 ――普通は逆の構図だよなあ。

 木に掛けておいた衣を手早く身に着けながら、笑って言う。 

 ――普通、水浴びを覗かれるのは天女さまだろ?

 ――選んできたわけじゃないわよッ

 目を吊り上げた少女は、ふと彼の言葉を反芻した。

 ――……私の水浴びを覗きたい、と言いたいの!?

 ――いやいや、巡り合わせが狂っている気が……

 ――やっぱり、そうなんじゃないの!

 身支度を整えて自分の前にまわってきた彼の、濡れた髪に少女はそっと眉根を寄せた。

 ――……手ぬぐい! 

 ――あぁ?

 ――出しなさい。

 懐から取り出した手拭が、彼の掌から飛びあがって、ばさりと頭の上に広げられ忙しく動き出した。

 ――風邪ひくでしょうがッ

 ――……いてぇって! 加減しろよ、おいって。

 ――我慢するッ

 

 血は一滴も浴びてはいないが、血気の穢れを流水で禊いだ男は、髪を拭った手拭を畳んで懐に戻し、湿った髪のままの髪を一つに束ねた。

 藍から蒼へと色を変え始めた空を見上げて、男は歩き出した。夜露に濡れた下草が、湿った音をたてる。

 この三年、男が衣川館で過ごすのは、神事の折の数日だけだ。どこから聞きつけるのか――というか、一度わかってしまえば、瞭然の行動に合わせて、大和から刺客が繰り出される。彼が常住する厨川館はその要害たる性質上、余所者がうろつける処でないせいか、ひたかみの「都」入りを待ちかねて、まったく律儀に毎回現れる。

 現在、ひたかみの嫡子として負うべき政務のすべてを執っているのは、弟である鷹里であるにも関らず、隠居同然の男を標的にすることを大和は止めない。

 自発的な隠棲なのだが、大和を憚って、主戦論者である男を「蟄居」させているともみえなくはないから、戦功者であり次期当主たるべき男の警戒を止めることはできないのだろうが。

 ――面倒なことだな。

 男の感慨は

 以前、3年前であるならば、烈火のごとく怒り狂って、多賀城国府の焼き討ち――いや、暴風による倒壊をかけるくらいのことはしたに違いない。

 けれど、現在は――心に染みてこない。だから、なにも湧いて来ない。

 愛しい記憶が過るとき以外には。

 唇が音もなく名を刻む。

 

 ――……きらい、


 ――しらないッ


 が、になる。

 だが、このこころの傷みだけが、彼女と自分をつなぐ一瞬だ。

 痛くて、吐きそうなほどに苦しくて――それでも手放せない。

 いつか時が果てて、天地に還る最後の一息まで、こうして『早桜』を抱いていくだろう。

 『想』えるから、まだ自分はこの天地の時間に身を置いていたいと思う。


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