いざよひ断章15

 夜更け、経清は柵を脱けだした。

 結局、あのまま守衡と別れ、道を引き返した。有夏はすっかり無口になり、沈黙は馬の足を速めた。往きの一日分に近い距離を半日で稼いで、日もとっぷりと暮れた頃に柵まで辿りついていた。用意された部屋で床に就いたのだが、ぽっかりと目が醒めてしまった。くたくたに疲れて就寝した筈なのに、僅かしか眠っていないのにもかかわらず不思議に身体も気も冴えていた。僅かに紐を緩めただけの、昼の姿のまま横になっていたから、身支度は易しい。乾いた小さな音をたて遣戸を開くと、煌々たる月光が溢れて、目を射るようだった。見張りは――いなかった。それどころか、部屋を出て廊下を幾つも曲がり厩に至るまで、この大きな柵に人気が絶えたように、ただ自分の足音だけを耳はとらえていた。殊更気配を隠したいわけでもなかったが、何となくその雰囲気に息をひそめてしまう。馬たちもまた静かだった。経清が衣川から乗ってきた馬を引き出して馬具をつけ、表に引き出しても、身震いや息遣いは聞こえても、見知らぬ自分を前に、いななきの一つや二つ、いや四つ五つあってしかるべきはずなのに、奇妙な静けさを保っていた。

 北門を出たのだが、ここにも見張りも歩哨も見えなかった。暫くはもしかして何かの企みかとも考えたが、静かなまま遠ざかっていく柵の様子に腹を据えて、経清は馬の速度を上げた。

 ものの輪郭を青白く縁取り、冴え冴えと月光は降る。見知らぬ道だが、迷いは起こらなかった。

 やがて川へつきあたり、果たして其処に「彼」は待っていた。月明かりの、遠目の後姿でも、一目で確信する。

 月と薄と川と・・・彼。ここは当たり前の夜の河原の風景ではあったけれど、時が巻き戻されたような感覚が起こり経清は軽く頭を振った。馬を降り、彼と自分を隔てる薄を掻き分けて進もうとした瞬間、フ、と風が頬に触れて、そして不意に眼前が開けた。

 ざわりと薄は大きく身を動かし、ひとすじの道を経清から彼まで形成った。道のあちらで、振り向いた彼がうすく笑っていた。

 道は経清が通り抜けるとその部分は背後で緩く波打って閉じていく。居心地悪そうに見返りながら進んできた経清は、鈍い銀の流れを背に立つ彼の前に辿り着いた時、大きく息を吐き出した。

 ひたかみの装束の彼は当然初めてだ。見慣れないから落ち着かない気はするが、違和感はない。ああ、こうだなと思う。しかし、ろくに手入れもしていないひげに覆われた面には眉をひそめる。

「――安倍貞任?」

「大和ではヤツらしいな、俺は。」

 く、と喉を鳴らして嘲笑う。

「ひたかみは知らぬヤツだ。」

「・・・空里、」

 経清の唇からこぼれた己が名に、彼は満足そうに目を細めて肯いた。

「会えてよかった。」

 と、再会した瞬間に別れの挨拶のような台詞を吐き、実際立ち去りそうな雰囲気である。

「・・・何か用があってわざわざ出向いてきたんじゃないのか?」

「顔を見に。」

「――あとは?」

「俺の顔を見せに?」

 大真面目・・・に見える。脱力しかけながら、経清はとりあえず確認する。

「・・・そのために私はここまで呼び出されたのか?」

 確証はないが、確信している。

「会いたい、だけでは駄目なのか?」

 だから、そういう台詞は女に言え、ともいいたい。

「それで、こんな夜更けに、わざわざ、こんなところまで呼び出すか?」

 人目を憚るわけでも、彼を阻む城門もないだろうに。

「お前に会いたいだけだからな。」

 ・・・彼が、拒んでいる・・・のか。

「骨だったがね。なかなか刺激的な道行だったろう?」

「だれも刺激など求めてないッ。」

 やはりあの静寂は誂られたものだったが、それにしても、柵にどれほどの人数がいるものか、夜半、大方は眠りについて宿直の者だけとはいえ、広範囲、さらにここからと考えると遠距離で、どうするものなのか、全く見当もつかない。

 ――そんな力を備えるひとは・・・ひとか?

「多芸なヤツだな、まったく。」

 言葉は茶化して吐いたが、慄然とした思いが背を駆け抜けた。

「おう、芸は順調に増えているぞ。」

 応えた口調もおどけていたが、どこか虚ろな、昏い瞳を気がかりに見返した。

「・・・守衡から聞いて、それからすぐに追ってきてくれたのか? しかも?・・・まさか単騎か?」

 異能を置いても武名高く、思い返せば恐ろしいことに僅か二人で京をうろついていた位だから、自国の奥深くなどなんの心配はないのかもしれないが、経清には頼義公の子息が幾ら腕が立とうとも一人で他出させることなど考えも及ばないことだから、軽々しすぎるのでは、といらぬ心配をしてしまう。

「半刻前かな、・・・あちらを離れたのは。」

「着いたのは、じゃなく?」

「着いたのも、だ。」

 理解できない。突然、目の前風が渦を巻き、それが瞬きひとつで失せたと思うと、川向こうで彼が大きく手を振った。唖然とまた一つ瞬く間に、もとの場所に在って、微かに浮かんだ額の汗を拭っていた。

「――こういうことだな。」

 思わず後ずさった経清に、彼は薄い冷笑を浮かべたのだが、

「芸達者だろう?」

 ふ、と眉を寄せたと思うと、腕を強く引かれ近場の石に座らされた。知らず力のぬけた肩を、呆れたように見て、水筒が差し出された。掌で水筒の感触を感じているうちに、川の水にひたした手ぬぐいがつきつけられた。顔をぬぐって水を含むうち、動悸は収まりひきつっていた頬が緩んでいくのを黙ってみていた経清は、一言、

「・・・手間のかかる・・・、」

 彼は目を瞠り、それから肩を揺すって笑った。なんだ、と不審そうな顔にゆっくり肩を竦めた。

「驚嘆と、畏怖と、歓喜には慣れているんだが。ひとでなければないだけ、俺は確かに風斗だと。」

 ひとつ深呼吸して真顔で言を継いだ。

「そのくせ、お前はひとなのだから、と言うのだ。・・・俺はひとだ。ひとのまぐあいから生まれ、例外なく土に還るひとりだ。だが、俺は風斗だ。大地アラハバキのひとかけらを宿し、ひとを導く者だ。」

『ひたかみの風斗たる空里』と名乗った、かつての鮮やかなほどの自信と誇りのかわりに、倦みがある。

「俺はだれのために、なにものであるべきか・・・なんて小難しいことを考えてるんだろうと我ながら思いもする。」

 なぜ、と息を飲み、そして経清の脳裏に、昼間有夏が言った『兄上の大事なものを壊した』という言葉が過ぎった。原因は、

「・・・早桜どの、は。」

 貞任の正室には、嫡子たるべき男子が有るはずだ。

「ひととして御館になる者として、その務めを果たせと望まれて・・・手を離したのは俺だ。」

 すさんだ色が頬を滑り、

「たかが女一人喪って腑抜けたと。理性ではそうなんだろう。他人のことなら俺も嘲う。」

 自嘲となる。

「だが風斗は、早桜で形成つくられた・・・形成られている。血を失って、肉をかき、骨をなくして、立っていることなど不可能だ。俺は肝心な所で間違えた。忘れた。早桜が応える応えないなど、関係なかったんだ。風斗であればこそ、離してはならない手だったのに。」

 かたく引き結んだ唇をやがて吐息で解いて、繰言だと川面に呟く。さらさらと微かに波打ちながら流れる銀の流れに、金の月が揺れる。

「いまの俺はあの・・・月のようなものだ。」

 ひっそり微笑う。

「既に満ち、あとはゆるゆると欠けて、やがて跡形もなく消えうせる。」

 言葉に誘われるように十六夜の月を見上げた経清は、そっと目を伏せ、それからまっすぐに彼を見据えた。

の月だ。」

 既望。既に満ち、そしてまた満ちゆくための最初の月。はじまりの、のぞみの月。

 彼は目を見開いて、経清を見返し、まったく・・・と、なんともいえぬ苦笑いを散らし

 て肩を竦めた。

「――有夏を頼むな。はっきり物を言い過ぎるかも知れんが、気持ちの良い娘だとわが妹ながら思う。」

「・・・正式に決まったわけじゃない。」

「おや、ふたりで旅に出ておいて、」

 からかうように笑った顔は、今夜初めて往時の彼を思い起こさせた。

「なにもなかったからな!」

「ああ、そこまでは期待してないだろう。」

「・・・あ?」

「俺に会わせるって有夏が誘って、お前は頷き、鷹里・・・宗任とお前さんの上役も了承したんだろ。まさか、お前、単に俺と再会させたくて有夏自ら案内をかってでたとは思ってないだろうな? 預名方を連れていけば俺が顔をみせるだろう、という目論みもあったろうが・・・傍からすれば、ひたかみの次期総領に会わせたいとその妹が言って、婚姻を申し出ている相手が肯、と言ったら、それは立派な既成事になるだろが。」

 固まった経清は、ぽんぽんと肩を叩かれる。

「心強い弟妹だ。」

「胸を張るなって。・・・参ったな。」

 それが大前提で参集させられたとはいえ、まさか自分がくじにあたるとはひたかみみの深奥へ赴けるという期待ばかりで、そういう現実的なことはさっぱり考えていなかったから、瞬きに動揺があらわれる。

「参るなよ。まさか、有夏が気に入らないというんじゃあるまいな?」

 凄むように彼が言う。

「文句のつけようがあるなら言ってみろ。」

「・・・綺麗で、頭の回転も速いから、話をしていて楽しい――とは思う。でも俺には彼女を惹くようなものはない。あんたの預名方とやらと知られなければ、きっと・・・、」

 顎先に指が触れ、くい、と仰向かされた。なに、と目が点となった経清に、

「お前はよい男だよ。」

 妙に甘く囁くこいつは絶対に楽しんでいる。 

「俺はとても気に入っている。一目でと思ったし、理屈じゃない。」

「・・・遊ぶな。」

 脱力しながら、経清は顔をひいて彼の手から逃れた。自分たちはよく似てる、と言われると彼が言った。

「俺が気に入ったものは、有夏も好みだし、逆も然り。つまり、今回は俺が先だったから、俺が先に口説けて、お前が俺の預名方になっていたってことだ。」

 自信を持て、と笑った。

「有夏に趣味を褒めて、よく攫ってくれたと。」

「伝えるかよ!」

 顔を顰める。

「俺は多賀城の部将で、城館は亘理だ。俺に・・・本当に、嫁ぐのなら、俺が攫うようなものだろ。」

「形式にはこだわらない。」

「実質だろ。」

 彼は答えず、意味深に笑みを刻んで肩を竦めた。

「さて、そろそろ戻る。」

「柵に寄らないのか? 会いたい様子で、辛そうだったぞ。」

 肩がもう一度竦められた。

「決めたのは俺だ。責める気はない。だが、間違えた自分を思い出すのが苦しい。・・・俺はそんなに強いひとじゃない。――希われているほどには。」

「・・・どうやって帰る気だ?」

「そりゃ来た方法で、」

 経清は言葉を遮る勢いで腕を上げ、自分が乗ってきた馬を指し示した。

「あれで戻れ。」

「お前はどうするんだ。」

「俺は一刻あれば歩いて戻れる。」

「馬だと朝になるんだなあ。」

「それが普通なんだ!」

 やれやれと苦笑いし馬の方へ視線を飛ばした彼は、高く響く口笛を鳴らした。駆け寄ってきた馬の鼻面を撫で、馬上のひとになる。

「――何色が好みだ? 栗毛? 青毛? 」 

 突然馬の毛並みの好みを問われたが、特段好みはないというか、えり好みできるような経済状態ではなかったから、経清は色へのこだわりなど持ったこともない。足が速くて勁い、と答えたところ、条件以前だと駿馬の国の跡取りに本気の入った厭な顔をされた。

「鹿毛――かな、似合いそうなのは。有夏との婚儀が決まったら贈ろう。」

 臨席はしないと言外に告げ、手綱に指を滑らせ馴染ませながら、暇を告げる目をした彼は、その刹那に柔らかく微笑んだ。

「――おかえり、」

 

 ――おかえり。

 知らない、と経清は思う。自分の中の事実は、ここが見知らぬ異国だということ。けれど、ここに吹く風は心地よく肌に馴染むそれも事実。

 覚えず仰いでいた十六夜の月の残像を瞼に躍らせながら、帰し方を振り向いた経清は、月光に輪郭を輝かせた馬の轡をとって佇む有夏に気づいた。

「眠れなくて高楼にいたのよ。」

「――申し訳ない、勝手に抜け出して。」

「・・・兄者が何かしてる、とはなんとなく感覚かんじてたから。」

 謝ることはない、と有夏は男が去った方をぼんやりと眺めつつ言った。

「・・・時間が戻った表情をしてたわ。預名方はやっぱり特別・・・ね。それともあなたには罪がないからなのかしら。」

 罪、と声のない唇の動きを目ざとく見取って、

「私も鷹里も、父の御館も。ひたかみから風斗を喪わせ、贖う術も見出せない罪人。われらに風斗を与えてくれたのが、忘れた恩知らずな者達。」

 乾いた声は、既に嘆きつかれて、けれど嘆き果てることは許されない苦しみをつたえる。そして。

「――戻りませんか?」

 ひどく静謐な面でひたかみの娘は言った。

「宜しいのですか?」

 いま追えばまだ間に合う、と去りし方へ視線を流した経清に、娘は小さく笑った。着物の裾が夜露で濡れていて、彼女が着いたばかりではないことを伝えていた。

「私が居たことなど、分かっておいでよ。それでも一瞥も寄越さなかったひとに追い縋るなんて・・・こっちにだって意地があるんだから。」

 強がっていることは明らかであったけれど。

 誘われるまま相乗りして帰路につく。

「きぼうのつき、とはきれいな言葉ね。」

 きぼう、既望、希望・・・と何度もまろく彼女は呟いた。

「私達は――間違えた。」

 よく似た面立ちに、同じ自分こそを責める表情を浮かべている。やさしい、本当に互いを思いあう仲のよいきょうだいなのだと理解る。だからこそ、擦れ違う心が苦しい。

「それでも。信じてもいいのかしら・・・幾夜、黒雲に覆われていても、その雲のあちらで間違いなく月は満ちていくことを、」

 彼女が静かに経清を振り仰ぐ。月光を写して、銀の星を煌かせた瞳に息を飲んだ。

 ああ――静かに息を吐く。

 惹かれている。ひととしてその兄にかつて魅かれたように、だけどいまは男として女としての彼女を――愛しいと、欲しいと思う。そして、彼女にも――兄の預名方であることからの興味だとしても――悪からず思われていることは、眼差しや仕種が伝えてくる。政略としての婚姻で、互いを気に入って決められるなど十分すぎる好条件だ。

 本当は・・・決めるべきではないのだ。国府が最も警戒する安倍の嫡子と親交(それもかなり特殊な)を背負った自分を、国府は安倍の婿にはしないだろう――知られれば。有夏と宗任に口止めを願い、闇衛からは漏れないようになっているが、国府に忠実な一部将としては自ら申告するべきだ。

 ば、とか、べき、とか思考している自分に、経清はそっと肩を竦めた。

 ――奥六郡の娘を娶ればどうせ区別だ。どうせ空里・・・貞任と縁がある者と区別されるのは避けられないのだとしたら、それで他人のものになった彼女を眺めるのなら・・・そう、毒を食らわば皿まで。繰言ではなく、後悔がいい。少なくともいまの自分には選択の余地がある。

「私にはなんの異能もありませんが・・・雲が切れるときを待ちましょう。――ともに。」

 手綱を取る経清の掌に、そっと有夏の掌が重ねられた。その感触とぬくもりが答えになった。

 

 そうして。

 はじまりの月に照らされて、彼らはひとつのかたちと為って、の風が渡る大地を駆けだした。

 

 彼方へ――まだ見えぬ何処かへと。



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