いざよひ断章14

 風が吹いていた。

 気がつけば、あたりまえの顔の夜に戻った薄野に立っていた。

 月光の下、捧げるようにした弓が青年の手の中でさらさらと砂のように崩れて、水面へと散っていった。

 香佑が立ち上がり、青年に深く一礼を施した。経清と守衡にも目礼を残して、闇の中へと遠ざかっていく。こちらから視認できる境界で、小さな影と手をつないだ彼を見たような気がした。

「さて、我らも参るか。」

 青年は髪を結び直しながら歩み寄ってきた。

「結構派手にやったからな。陰陽寮の連中が寝ぼけてなければ、おっつけやってくるだろう。」

「・・・結構?」

「俺は慎み深い性質なんでな。」

「無理やり道案内に連れ出した挙句、ひとの記憶を黙って消すヤツが?」

 目を眇めて剣呑に見遣り、言葉と同時に経清は足をひょいと繰り出した。見事に足をすくわれて青年は尻餅をつく。心底、呆気にとられた顔でこちらを見上げる青年に、にやりと笑いかけて手を差し出した。

思いやりをありがとう。いつか足元すくわれるぞ。」

「すくってから言うなよ。」

 顔を顰めた青年は軽く経清の手を握り、しかし経清が腕を引く前に身体のバネを使って跳ね起きた。乾いた泥を払って、経清に向き直る。

「悪かった。俺が考えすぎた。」

 今度は青年から差し出された手に、経清がバンと手を合わせて、互いの瞳に笑いあった。

「元気でな。」

 笑顔の、明るい声。だが、切なさが内を満たす。

 ――それでも。

 対する青年がふ、と眉を寄せ、

「――共に行かぬか?」

 と再びいざなうのに、

「いや、」

 と、ためらいなく答えることができる。

「不自由はさせないぞ。土地でも屋敷も、立場だって、」

「ありがとう。だが、それはじゃない。」

「京に、お前のものがあるとは思えないが。」

 少し腹を立てたような物言いで、青年が言葉を返してきた。手厳しい指摘に苦笑いをして、

「確かに。だが、いや、だから、わたしは行かない。まだ、ここで私のなにも、はじめられてはいないのだから。このままに京を出たら、あんたのところでどんなにうまくやれても、満たされないを抱えたの人間になる。」

 恙無く、大過なく、そうして自分の上に流れた十年の時。

「と、いって、あてがあるわけでもないから、無為の身のまま終焉おわって、ここで行かなかったことを悔やむのかもしれないが。」

 を――あの風を思い出して、眠れない夜があるかも知れないけれど。

 揺るがない瞳に、青年が溜息をつく。

「・・・攫っていってもいいか?」

「蹴倒すぞ。」

「ひとっ走り、荷車の調達に行ってきますか?」

「真顔で言うな、守衡!」

「真面目に提案しているので、笑ってたら可笑しいだろうが。」

 ・・・眩暈がする。こめかみをかさえながら、経清はため息をついた。

「――とっとと行けよ。」

「おう、だから荷・・・」

「運ばれたのはおまえだ!」

 怒鳴った経清に妙に嬉しそうに青年は笑い、守衡は目を見開いた後、しみじみと言った。

「・・・やはり惜しいな。貴重だ。」

「はいはいはい。ほら、急がなきゃならんのだろうが。」

「流すなって。」

 じと、と見る目に、早く行けと邪険に手を振った。気心のよく知れた間柄の、気の置けない呼吸を感じながら。

 しみじみとした雰囲気は、既に跡形もなく霧散している。

 馬をつないであった木立まで彼らと連れ立ち、鞍と荷を確認するふたりを一歩下がって見守った。源頼義邸の厩には坂東産の名馬が揃っているが、それより一回りも体格が良いこの二頭はうわさに聞く奥州馬なのだろう。体躯で競り負けるな、とつい騎馬戦を想定して値踏む目になる。

「もし、追いかけてくる気になったり、困ったことがあったら七条の『吉次』を訪ねろ。」

 後日、通りがかったついでに探した其処は商家で、ただし軒先に日常品を並べる店ではなく、貴族や朝廷に納められるような渡来の品を中継していると、こじんまりとした造りながらどこか重厚な構えの屋敷だった。商いの傍ら、ひたかみの、京での外渉の窓口とひたかみ人の宿、諜報の拠点という内実を知ったのは、後のことだ。

「俺の名を言えばできうる限りの便宜を図ってくれるだろう。」

「あんたの名・・・?」

「ああ。」

 視線がぶつかる。誘いかけるような軽さに、ひどく真剣な色が裏打ちされている瞳を見据えて、

「・・・空里。」

 名を呼んだ。

 刹那、激しく風が吹き起こる。

 夕刻の罠が過ぎって、ぎょっとした経清だが、なにも途切れることはなく、鮮やかに笑った青年はひらりと馬上の人となった。

「大丈夫。めくらましだ。」

「あんたの大丈夫、心配ないは信用できん。」

 しかりしかり、と続いて馬に跨った守衡が頷いている。

 思わず顔を見合わせた経清と守衡が噴出し、傷ついたようにそっぽを向いてみせた青年も頬を震わせ、明るい笑いが満ちた。

 青年が手綱を手繰り、馬首を北東へとまわした。

「――風斗は京には現れない。」

 風が激しくなり、必死で踏ん張って漸く体を立たせている経清にはまだ、その言葉の深さは分からない。

、京の外で死ねよ?」

 縁起でもないと顔を顰めるのに、もう一度高く笑って、青年は馬の腹を軽く蹴った。

 西に傾いたいざよいの月を仰いだ経清は、風の向こう側へと遠ざかる、かき消されて聞こえない蹄の音に耳を澄ませながら、そっと目を閉じた。

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