いざよひ断章 13

 方位にして東北のことを鬼門と呼び、悪しきものたちはそこより侵入ってくるという。比叡の山を守護の要とし、幾重にも厳重に封じられ堅くる京の、その涯てには、奇しくもかのクニが在る。

 追い立てられるように、導かれるごとく、経清は乾いた硬い足音を立てながら、風のを見据えて走った。

 月の照らさぬ陰に、幾度が蠢く影を目の端で捉えた。

 ある軒下には、まるで五節の舞姫のような装束で、七つばかりの童女がひとり立っていた。ざわざわと沸き立つようなあちらこちらの陰を童女が、手にした衵扇でさすと、それらはふと凪ぐ。

 童女は経清を見向かなかったが、経清はこのあからさまに異様な存在に息をひそめるようにして傍らを走りぬけた。

 夜を跳梁するモノ―――盗賊、鬼妖。対を為す検非違使や術者。いずれにしても、つねびとならぬ。普段ならば、同じ京の、違う時間を生きるそれらの、この闖入者を窺う、ひそやかな呼吸を肌に感じながら、もう間近と感じる幾つ目の辻を横切った時だったろうか。

 ――蛍?

 一瞬、そう思ったが、秋も深まりつつある時期いま、いくらなんでも季節外れに過ぎる。

 改めてそれを目で追い、息をつめた。

 淡い燐光を散らせて飛ぶ・・・こぶしほどから人の頭ほどまで、銀と金の中間の――明度や色合いはひとつひとつ微妙に異なるが――光の球。俗な言い方をすれば、人魂。

 背後から、あるいは別の小路から角を曲がって、いつしか周囲を埋めつくす。

 ちょうど正面に懸かった十六夜の月光を映した金色の川の中に立ち尽くしているように、流れていく光。

 恐怖は、なかった。

 ゆるゆるとこみ上げたのは、切ないほどの――懐かしさ。

 自分の周囲を窺うように飛ぶ幾つかの光球に静かに手を差し伸べる。腕のまわり、そして肩のまわりへと距離を縮めてくるそれらに、微笑みが零れ、頬を伝う涙にまた微笑った。

「・・・行こう。」

 再た歩き出す。

 行き先は

 あの河原だ、と納得し、なにがあのなのか、と不審に思う。分かっているのに、分からない。夢だと分かっている夢から醒められないときのようなもどかしさに、経清は掌に爪を立てた。

 追いかけるよう、誘うよう纏わって飛ぶ光球が、形を変容えていく。

 大きく、長く――それは、ひとのすがたと成る。彼らは粛々と河原へ、ゆらゆら揺れる薄野の中へ歩みだしていく。薄の波のあちら、銀に輝く川へ流れ込む金の支流がそこにできたようだった。実際は銀の流れの僅か手前で、金の流れは止まる。膝を折り、地に額を擦り付けるように深く礼をとり、光の粒を撒いて“すがた”は霧散する。光球へと戻って、まるで蛍が宿るように薄の穂に留まる。

 金の灯明を飾られた無数の薄がゆらゆらと、の左右で揺れている。

 彼は、跪拝する「彼ら」のひとりひとりを、柔らかな笑みと労わるような眼差しで迎え、腰をかがめて手を差し伸べる。その手をおしいだくようにして、「彼ら」は静かに“すがた”を風に溶かすのだ。

 彼は――かれは。

 風か頁をめくるように、あっけなく、それは訪れた。

 なにが

 瞬間、血が沸騰した。

「あの、やろ・・・っ」

 ぜったいぶん殴る、と拳を固めたが、荘厳な雰囲気を醸す拝礼を蹴散らしてまでは突進できない理性に憮然とする。

「――驚いた。」

「なに考えていやがるっっ。」

 土手を駆け下りてきたその腹心を向けて怒鳴った。

「なにが噛み付かない? 厄介をかけて申し訳ないから、せめて軽減しよう、だッ?」

 話したら命がない、と脅すのより性質が悪い。選択権があるけれど、まったく問答無用で「口封じ」にかかったのだから。

「まあ、落ち着け。」

「落ち着けるか、ひとを虚仮にするにも程がある!」

「・・・まあ、そうだな。」

「そうだなじゃないッ。」

 喋っているうちに頭に血が昇り、肩で大きく息をして守衡を睨みつける。

「目的は思いやりだったんだが」

「どのへんがだ!」

「記憶がなければ、余計な詮議を受けたり、勘繰られたりすることもないだろう?」

「そんな重大な付き合いをしたか? まあ、妙な目にもあったが。道案内して、一晩泊めて。それくらい普通だろ!?」

「確かにあんたにはほとんど理解らない。だが、それでも来ただろう? あんたを胡乱な目で見た奴等が。」

「・・・ああ、」

 だから、あんなモノが同行していた。端から会話を無意味とし、「拷問」でしか自分からは「言葉」が得られないと、きめつけて。

「あんたを関らせるべきではなかった。今更だがな。だから、せめて、ここに残るのなら、あんたはなにも知らないほうが良かったんだ。」

 ここに残るのならルビを入力…、という表現がひっかかった。居る、ではなく、残る。何処に行かずに? 否、何処へ、どうして。

 ――どうして、自分はここへ来たのだろう。

 ふいに心が凪いだ。経清は、金の光景のひとつひとつへゆっくりと眼差しを廻らす。

 彼らが、阿弖流為――瑠依に随従して京へやってきて、瑠依の処刑後、捕囚とされ、異郷の地で死んでいったひたかみの者たちなのだ。

 理解って

 いままさに、に還ろうと、呼ぶ声に応えて、ここに至ったのだと。

 ――ならば。

 自分は何故に辿りついた?

 行かねばならぬと思った。吹き行く風のさきで、待っていると感じた。

 銀と金の狭間に立つ彼から、経清は傍らの守衡に視線を戻した。守衡は静かに肯いた。

「・・・そんなのは・・・知らない。」

 源頼義に仕える、下総の産の武士。それが自分だ。

「ああ、オレもオレでしかない。だから、それでいいんだ。あんたになにを強制するつもりはない。あんたはちゃんといまを生きているのだから。」

「・・・強制したじゃないか。」

「来ない、とあんたは空里に答えたろう? でも、あんたが預かり知らずとも、こちらにはあんたをと認めた自体で義務が生じる訳で。」

 大きなお世話という言葉をたぶん顔に大書きしたのだろう。守衡は苦笑して肩を竦めた。

「せめて、少しでも居心地よく、と願った。」

「こらこら、あなたのため、ばかりは公平じゃないわよ。」

 ふわ、と小さく空気を揺らして上空から降りてきた早桜は、すすきの高さほどに体を宙に浮かせたまま、こんばんは、と礼儀正しく挨拶して、会話に交じった。

「あなたを諦める理由づくり、でもある。」

「わたしを、諦める?」

「攫ってしまえ、って私も守衡どのも勧めたんだけど。」

「・・・おい、」

「厭なんだって。我侭よね。自分を忘れさせなければ、我慢できないくせに。でも、まあ、預名方だし・・・そんなもの?」

 早桜は守衡にむかって首を傾げた。

「さあ、いったいオレのなにをしてくださったのか、いまもって不明ですから。」

「そぉ? 私は理解わかったけどね。」

 少女は、そこで奇妙な発問をしてきた。

「空里ってどんなひと? 一言でね。」

「は・・・?」

「私は、我侭、かな? ってことで、はい、まず守衡どの。」

「はあ・・・手がかかる、意外と、」

「じゃ、経清どの?」

「え、あーと・・・見てて、あきないヤツ・・・?」

 お互い褒めてないな、と経清と清衡はちらと目を合わせたが、少女は満足そうに笑った。

「日高見で空里と近しいだれに聞いても、絶対にそんな言葉は出てこないよ。だから、有夏や鷹里たちじゃなく、あなたたちが預名方なんだわ。」

 清衡は自分の内を見つめるような目をしたが、経清の頭には疑問符が舞う。

「よな、なに?」

「預名方。空里はあなたに名前を教えた。だからあなたは空里の預名方になった。」

「風斗たる冠の空里がどうたら言ってたな。・・・あれは、呪文だろ。」

 その「名」を口にした瞬間に、「発動」したのを思い出し、怒りがまたふつふつと起こる。

「きっかけにしたのは【風斗】まで。【空里】は彼が望んで、告げた。」

 青年から「名」を告げられることは、彼らにとってどうやらとても特別なことらしい、ということは察せられたが、

「端から忘れさせる予定で?」

 厭味たらしくなる口調に、少女は静かに応えた。

「うん、でもそれでも、空里はあなたに知って欲しかった。――って、なんで経清どの思い出しているの?」

 早桜は、そこでいきなり目を瞠った。

「ぞうですとも。手を抜いた・・・筈もないのですが。」

 なんで? とふたりに混じりけなく不思議そうに見られ、思わず経清がたじろぐ。

「分かるか。」

「――たぶん、おれのせいですよ。」

 また新たな声が割って入ってきて、三人は三様に――経清は純粋にぎょっとし、早桜は少し高さを上げ、守衡は太刀の鯉口を切って――振り向いた。

「その瞬間、全力で防御しましたから。陰陽寮の者にはきっちり効いてましたが、おれの術下にあった経清どのも間接的に影響が軽減されたということでしょう。もっとも、糸がぶらさがっていてもひっぱりたいと思わねば綻びぬものですが。」

「・・・何者か?」

 自分に向かうものではないと明らかに分かっていても、守衡が発した低い声に、経清は知らず身構える。実戦を――命のやりとりを知っている者の凄みだ。

「・・・香佑どの、」

 それは、ついさっき見送られてきた若者だ。

「納得はしてもらえたかな? 経清どのには。」

。」

 若者が自分にしたことも思い出した訳で、経清は皮肉を込めて応えた。

「あんたの知り合いか?」

「あいつの予告通り、昼間、昨日の件を聞きにわたしを訪ねてきた陰陽師のひとりだ。」

「正確には、陰陽寮に雇われた鬼市きいちの香佑と申します。の方。」

 香佑は台詞の途中から視線を経清らの背後に向け、丁寧に一礼した。

「鬼市のかみどのには話を通したぞ。」

 行列は、いつの間にか終わっていた。寄せては返す波のように揺れるすすきの向こうから、張り上げているわけではないが、よく通る声が応じた。

「伺っております。」

「すべては約定どおりだ。鬼市こそ約を違えるか?」

「――あなたがあざやかすぎるから。」

 苦しげに、香佑は言葉を吐き出した。

「古き森羅の輝きをお持ちの御方には、閉じられた京の澱みは不浄でしかないのでしょうが、この闇が生み出した、この澱みにこそ生まれついた者がいるのです。この闇なくしては、祓われたら、生きてはいけない者もいる。」

「必要最低限を約したぞ。」

 不機嫌な声に、

「分かっております! それでも、あなたの気配はあまりに眩しい。近づいては焼かれるだけと知っていても、大きな炎に惹きつけられていく蛾のごとく我らは、あなたという強きひかりに息を飲み、それ故に怯えを深くしていく。あなたは我らを灼きつくせる。」

 香佑は平伏し、頭を地に擦りつける。

「守は信にたる方だとおっしゃった。けっして守を信じぬわけではありませぬ。ですが、力弱きものほど、あなたの、その存在がたまらなく恐ろしいのです!」

「・・・それで、あえてあんたは守どのに逆らう振る舞いに出て、俺に接触、監視する姿をもってそのものたちを安堵させようと?」

「鬼市を離れる覚悟はしております。」

「させるまいよ。」

 上に立つものの静かな慈愛をもって青年は言った。

「良い次期どのを鬼市は持たれている、と申し上げよう。」

 つと腰を屈めて、青年は足元から弓を手に取った。

「見届けて参られよ。俺のを止めるために、おいでになったのだろう? 」

「ご不快とは存じ上げますが、置いていただきたく、」

「いや、香佑どのがに参られた、それ故に、わがクニ人らの歩みは妨げられることがなかった。人望だ。感謝するぞ、香佑どの。」

 辻の闇陰で、こちらを窺う気配をもって蠢いていた影の――あれが鬼市のものだったのか?

 香佑は再び深く頭を垂れ、その後青年をまっすぐに見据えて端座した。

 早桜がふわりと宙を移動し、青年の傍らに降りた。何事か短いことばを交わし、少女は微笑んで、青年は距離があっても切ないと分かる瞳で、微笑う。一、二歩、少女は彼から距離を取り、青年は姿勢を正す。

 手に持った弓の弓幹は真っ直ぐに伸びたまま、まだ弦をはられていない。箙もみあたらぬ。まさかこれから弦を張る気か、と首をひねった経清は、青年の手の中で弓幹がしなり、みえない弦を張って形を整えるさまに、唖然とし、それからため息をついた。最後まで非常識は続くらしい。

 青年の右掌で、一握りほどの紅い炎が揺らめいたと思うと、それはぐんと細く伸びて、矢の形と為る。将軍塚より得てきた【気】だ。

 鏑矢の体裁の深紅の矢を、青年は緩やかな動作でつがえ、引き絞る。

 月は十六夜。いざないの、とむらいのつき。

 風はなく、だれも、なにも動かない。澄んだ、はりつめた大気。川の流れる音こそ絶えないが、それが逆に静寂を意識させる。

 狙いは東北に。鏑矢は放たれる。独特の長く響くうなりをたてて、夜空に吸い込まれていく。その音を合図に、薄野が大きく波打った。金の光球が、一斉に空へと舞い上がる。蛍のような淡さではなく、稲妻のような激しさではなく、昼のような眩しさではなく、鮮やかでいて、儚く柔らかな光が河原を満たした。

 青年は一射目の紅い光跡が消えぬうちに、掌から出現した次の矢をつがえ放っている。全く同じ軌跡を描く矢を追いかけて、また次を射る。そしてまた次・・・と、矢継ぎ早の導きの紅の光を追いかけて、金の光も次々に中空へと駆けていく。

 不思議な光景だった。瞬きひとつで天へ飛ぶ、明の星のような輝きの逆流れ星が寄り集まったそれは、まるで逆立ちをしてみる滝と、全く誌的ではないことを頭の隅で考えながら、経清は息を呑んで夢幻の光景を眺めて、静かに息を吐き出した。

 

 あお、をみたような気がした。濃い紺の

 ――北天の、蒼。

 ――同胞はらからよ。

 かの、あお、へ――。

 いざ、帰還らん。

 

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