いざよひ断章12

 ふと縁に立っていった青年が静かに右手を宙に差し伸べた。掌にまとわりついた風をそっと握り、また空へと返した。

「・・・よろしかったのですか?」

 振り向いた青年に、守衡が声をかけた。

「なにがだ?」

「大和のを纏っていても、も還るべきもののはず。」

「嫌だというのを、無理やりかっさらっていくわけにもいくまい。袋に詰めるにもでかすぎる。」

「あなたが、と申されるのなら、」

「言わぬ。」

 きっぱり、と答え、青年は諭すように言を続けた。

 昼の青が薄れ、西から朱に染められ始めた空を振り仰ぎ、横顔が静かに語る。

「還る日があるのなら、あれは自らの足で辿りつくだろう。」

「・・・予言?」

 絵草子を風にめくらせて覗き込んでいた彼の風織姫が目を上げて口を挟んだ。

ねがいだ。」

 痕跡を絶ち、追っ手の目をくらまし、なにより大和にて生きる彼のこれからの立場を損なわぬためとはいえ、記憶を封じた行為と相反する言葉に、守衡は僅かに眉を寄せた。

「意地っ張り?」 

 からかうような風織姫を、青年は軽く睨む。

しまえば、諦めもつく、ものね。」

「大和で生きる、というんだ。ひたかみわれらの記憶は大和ここでは要らない。」

「でも、欲しいくせに。いいなあ、って思ってたの。守衡どのにもだけど、経清どのにも、空里はすごく普通に笑って、鷹里や水来、有夏たちが聞いたらぽかんとするくらい、普通の男の子同士の会話をしてるの。ああ、預名方ってこういうもので、空里はやっぱり風斗として生きてるんだなあって。だから良かったなあって。」

 まとまらない、というように顔を顰めたが、

「だから、素直に誘拐ってしまえば良いのに。」

「素直に・・・って、だから、大の男を。」

 それは俺の都合だろう、と苦笑いをして、青年がふ、と目を細め彼方を見る。

「もどかしさや不満や焦り、決して順風満帆ではない現状ところで、それでも投げださず日々を生こうとする魂が気に入った。だから、それを損なうような強制はできぬよ。」

 彼らの鼻先を撫ぜて、風は静かに吹き始めた。

 夜の中を、暁に向けて。


 昼のうち凪いでいた風が紫闇の降りる頃、少しずつ強さを増しながら吹きだした。

 この夜は宿とのい直だった。頼義邸の周囲を巡回していた筈だがいつの間にかざわめく梢をぼんやり見上げていた経清は、通りがかった同輩から怪訝そうに声をかけられ我に返った。常ならば篝火を門前をはじめとした各所に灯し、結構な明るさになっているのだが(費用は莫迦にならないはずだが、界隈の治安維持に一役買っていると近隣では、頼義公の評判は高い)、今夜はあまりの風の勢いに早々に火は消してしまった。それでも、雲がほとんどなく、あとはどんどん吹きちぎられて、十六夜の明るい月光をさえぎるものはないのは幸いなことだ。

 月光に透かして気分が悪いのかと案じる相手に、首を振って笑うと、相手はそうか、と経清の肩を叩いて脇を通り抜けていった。

「・・・そういえば、先刻の来客はなんだったんだ?」

 思いついたのか、肩越しに問われた。

「来客?」

「なかったか?」

「いや・・・ああ、そういえば、そんなのあったな。」

 首を傾げながら曖昧に言う経清に、呆れたように笑って同輩は立ち去っていった。

 その背を見送って、また経清は梢を――正確には、渡っていく風の行方を見遣る。

 昇り始めたときは、濁った紅の、大きく膨れて地上を圧するようだった月は、いまは一番高い枝の先にあって、青白く、遠い。普段ならば、朱の月こそ不安を誘うが、今夜は月が昇り行き、白さを増すほど落ち着かない気分にさせられた。まるで枝が月をひっかいているようだ、と思い、心をひっかくものに唇を噛む。

 この・・・焦燥感。

 ここに居てはいけない--否、ところがある・・・?

 根拠も論理も思いつかない。だが気のせいというには、あまりに胸苦しい。

 小さく罵りの声を漏らして経清は紛らわせようとしたが、続いて出たのはため息だ。

 駆られる気持ちを認めたところで、どうしろという?

 視線を無理やり闇に沈む街路へとおろした。

 務めを投げ出してはどこにもいけぬ。

「手を貸そうか?」

 反射的に太刀の柄に手が走ったが、間近に声をかけられるまで気配を微塵も感じなかったことに驚愕する。濃い色の衣のせいなのだろうか。まるで闇からにじみでるように、声の主は距離をつめてくる。経清が鯉口を切っているのは確認できているだろうに、頓着する様子はない。

「・・・だれだ?」

 知らない顔だ。年齢は二十歳ほど。括り袴で、素足に草履。京洛の民の一般的な服装だが、ただものには思えなかった。背筋をなにか不快なものが滑って、ついと視線をそらした経清に軽く目を瞠り、彼はおもしろそうに笑む。

「さきほどはどうも?」

「・・・なんのことだ?」

「と、なってしまうことだ。」

 不審きわまりない、と経清はますます眉の間を深くしたが、

「苦しいだろう?」

 顔で突然そう言われて、

「心は応えるが、現実からだは応えることを許さない。」

 虚を、つかれた。

「だから、手を貸してやると言っている。行きたいんだろう?」

「・・・なにを」

「ここに、と思うあんたは、そこに行くべきではないのかもしれないけれど?」

 懐から彼は手の平大の紙を取り出す。人型のそれにフ、と息を吹きかけた。宙を舞い、経清の肩を掠めるように飛んで、数間先の暗がりで大きくそれは膨らんだ。正面も後ろもない、のっぺりとした大きな泥人形のようでなそれを、経清は薄気味悪く見返る。

「そいつが留守番だ。その手を握ってやれば、あんたのかたちを写す。反応は限定されるが、見回りしている人間の挨拶ぐらいならこなす。ただし曙光が差し込むまでだ。」

「式神とかいう代物か?」

「とは違うな。おれは陰陽師ではないから。」

 さらりとした答えだったが、何かひっかかって不審な顔をした経清に、またおかしそうに唇の端を上げた。

「――何故?」

 いたれりつくせり、という言葉が頭をかすめる。

「あんたに手を貸す理由か? 勿論、ただの好意じゃない。あんたが行けばいいな、とオレは思うんでね。」

「それはどうして・・・」

「たいへん不審で悪いが、あんたが行ったなら納得してもらえる筈だ。怪しすぎる、と思うのはもっともだから、それで行かない、というのなら、オレはこのまま消える。」

 馬鹿げた選択肢だと思う。見も知らぬ、怪しすぎる奴の。

 だが――行きたい、と思う気持ちはものだ。

「さて、どうする?」

 不審も警戒も山のようにある。だが、今夜は理性ではなく感覚が経清を支配していた。

 経清は人形へと踏み出した。手を差し伸べてから僅かに逡巡したものの、しっかりと握った。もとは薄い紙切れのはずなのに、棒を握ったような堅さに戸惑い、顔を上げてそこに顔を認めて、心の臓は振り切れるかと思うほどに飛び上がった。御揃いの着物を着て、男は黙って身を翻し、闇の中に踏み込んでいった。

 呆然と見送り、落ち着けと頬を叩いて、眦を正す。

 何処へ、と問われても答えられない。だが、分かっている。

 この、風の、、だ。

「気をつけて。」

 ひらり、と彼が手を振った。


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