いざよひ断章10

 経清は勤め人である。前日が休みならば、当然翌日は勤務となる。

 頼義邸の朝は早いから、住み込みでない経清は陽が登る前に自宅を出ねば間に合わない。月が傾いて暫くまで飲んでいたから、うつらうつらした程度の眠りとなごる酒に、ぼんやりした頭を、冷水で顔をあらってなんとか出勤できる顔にする。

 暁の薄明、薄く滲むような青の空気。この時間は嫌いではない。自分の足音だけが聞こえる道で、そのうち光の粒が踊りだすように白くなっていくあたりと、はじめは遠い葉擦れのように始まり満ちてくる人の気配。一日がうごきだしていくのを肌で感じる。

「お早う。」

 門の外、柱にもたれかかるようにしていた青年に、経清は驚いて瞬間棒立ちになる。離れの妻戸は堅く閉じていたからまだ休んでいるのだと思っていた。

「どうしたんだ?」

「見送り。それから礼。昨日言いそびれてしまったから。ありがとう。助かった。」

 青年は経清に向き直った。

「そして辞去のあいさつ。今夜済ませ次第発つ。」

「――そうか。気をつけて。それまで家で過ごしてもらっても構わない。家の者には言ってあるから。」

「ああ、助かるな。」

 笑った青年は、ふっと表情を引き締める。経清を見つめ僅かに唇が開いたが、声を吐き出すことはなく再び結ばれた。

「・・・どうした、次郎どの?」

「――お前のそういうところがいいな。俺が呼ばれていないことは分かっているだろうに。」

「名乗らないのなら、俺に呼ばれる気はないということだろう。」

 こっちにも意地がある。

 道の先に視線を流して時間を気にした経清に、青年は手で歩き出すように促して自分も隣を行く。

「今日はどんな仕事があるんだ?」

「殿が参内されたり、ご子息方が出掛けるのなら警護の番がまわってくれるかもしれないし、なければ鍛錬して武士団の雑用をして、あとは館の警備・・・か。」

「――満足してるか。」

「・・・厭だとは思わない。」

 ――ただ。

 胸の中で転がした言葉の先。いつもなら目を瞑ってしまう奥底の。

「倦怠を覚えるときが・・・ないわけじゃ、ない。」

 変わらない日常、動かない未来。

 このまま何処へ――否、何処にも行けず、京の片隅に埋もれて終わるのかという、どうしようもない行き場のない怒りをはらんだ焦燥。

「・・・来ないか?」

 静かに声はかけられた。

「我らのクニに。」

「わたしが?」

 余りに思いがけない言葉で、目を見開いた経清は、思わず笑ってしまった。

「まさか。」

  他にどんな答えがあるというのだろう。見も知らぬクニ。たった一日のつきあいの男に誘われて、ついて行きたいと思ったら、沙汰だ。

「・・・そうか、」

 青年は静かに目を伏せて、上げたときにはからりとした笑みを浮かべていた。

「おまえに会えてよかった。息災で。」

「ああ、なかなか刺激的な時間を過ごさせてもらった。」

 別れ際だから、死にそうな目にあったとか、そういうことは置いてみたのだが、待ち構えていたような青年の台詞に思い切り顔をしかめるはめになった。

「だったら、せっかくだからもう一度刺激を味わって終わりというのはどうだ?」

「・・・選択権はあるのか、それは。」

「突然ですごくはらはらしたいか、経過を楽しむか。どっちがいい?」

・・・何かが起きることは確定ってことだな!?」

 ドスの効いた声にひるむようなヤツではないから、当然すずしい顔で、で?と勝手な「選択」を迫ってきた。

「・・・心臓に悪いのはいやだ。」

「心配するな。人がひとりかふたり訪ねていくだけだ。」

「炎で出来てたり、透けたりしてるようなか?」

「見かけは当たり前のひとだ。ちょっとした芸当を備えてはいるが。」

 見かけはまったく普通の、かなりな芸当を身につけたヤツがなにをいう、である。

「簡単にいえば陰陽寮の陰陽師がくる。」

「なにをしに!?」

 陰陽師は星のめぐりや天地の気から、吉凶を占い、その術をもって京を守護しているというが--------そんな連中との縁はない。

「昨日の件を聞きに。」

「ならば、あんたのところだろう!?」

ら、連中はあの場に残った気を探っただろう。、お前にはたどり着く。だが、吹いた風の行き先を突き止めることができないように、俺を見出すことはできない。」

 特殊な【能力】の話にはやはりついてはいけない。眉を顰めた経清に、青年は懐を探って一本の編み紐を差し出した。

「どこかに結わえて身につけておけ。なるべく肌に触れるように。」

 返ってきたそれは胡乱な目に、

「噛み付いたりはせんよ。厄介をかけて申し訳ないから、せめて軽減しようという心遣いだ。」

 手触りはごく普通だが、経清は油断は禁物だという顔つきで手首に巻いた。

「・・・これでいいのか?」

「取るなよ。陰陽師どもが訪ねてきて、そうだな、たぶん昨日だれといたかと聞くだろう。そうしたら、こう答えろ。『たる冠のといた。』と。」

とたる・・・。」

「風に、北斗星の斗に空の里だ。」

 思わずじっと見つめた経清の瞳をのぞきこむように見返した青年は、そこに何かを探すように、そして何かを刻むように、微笑った。

「俺の名は空里だ。」

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