いざよひ断章9
家に辿りつき、訝しがる家人には適当に言い訳して、奥の部屋に運んだ。母が生前使っていたそこは、小さいながら独立した造りになっていて、この際都合が良かった。
昏々と眠り続けること――既に二刻。陽はすっかりくれて、
別段苦しんでいる訳ではないが、余りに深い眠りだ。
青年からまた書物に目を戻した経清は、虫の声が止んで、夜風に慌ただしい空気が混じったのに眉を寄せ、立ち上がった。
門と塀を申し訳程度に備えているが、通りの音がつつぬけるような敷地である。その貧弱な門前に、というかこの界隈にまったくそぐわない、忍びようにやつしていても、殿上人の持ち物だと一目で知れる牛車が止まっていた。先んじて出ていた郎党が、混乱した顔で経清の気配に振り返ったが、経清にしても何が起きようとしているのか見当もつかない。
立ち尽くす経清主従に軽く礼をした随従が、牛車の後ろにまわり御簾をあげる。
「ご苦労だったな。主殿にはくれぐれもよろしく――まあ、聞きたくもなかろうが。」
降り立った男は、別の随従から錦の袋に入った長い棹――弓――を受け取った。そのまま牛車は男を残し、動きだす。軽く視線を流して、逃げるような勢いのそれに嘲笑を刷き見送った男は経清に向き直った。
「
成る程、昨々夜、青年と連れ立っていた男だ。上質な直垂姿の彼は大家の貴族とみえなくはない貫禄だが、ひたかみの人間がわさわざ大和貴族のなりをして、いったい何処で何をしていたのか。青年はあからさまに胡乱だが、一見まっとうそうにみえたこの男もやはり正体不明だ。
奥へ、と誘った経清に、持ち込んでも?と弓を軽く振って問う。構いませんが、という返答に、
「頼まれものでね。」
と、肩を竦めて、それから改まって頭を下げた。
「本当に申し訳なかった。驚かれただろう?」
どれに、という表情をしたのだろう。少しくだけた、人当たりのよい笑顔をみせる。
「オレも、かなり心の臓に悪い体験をしたよ。訪問先でひとと会っていたところに、天井を突き抜けて姫君が現れた時には。聞き知ってはいたが、会うのは初めてでな。這いずって逃げる前に、彼の名を唇が刻むのに気づけたから、京の亡霊でないと知れて、なんとか醜態を晒さずにすんだが。」
にこにこと柔らかな語り口の中、一瞬、だれかを嘲笑うように歪まった唇が印象に残った。
広い屋敷ではないから、あっという間に青年が休んでいる部屋に至る。青年は目を覚ましていて、半身を床の上に起こして彼らを迎えた。
「・・・なにをやっているんですか、まったく。」
冷たい声を守衡は青年に降らした。
「心配ない、無茶はしない・・・で?」
「無茶などしていない。」
灯下ですら、明らかに悪い顔色で、
「不慮の事故だ。」
と言い張る青年に、片眉を上げて応じた守衡は、ふいに経清を振り向いた。
「こちらまで歩いては戻ってこれなかったのだろう? 背負うのもひきずるのも、この大きさじゃ、オレなら道端に捨てたくなるな。」
「挙句に、証拠隠滅で土をかけそうだ。」
「我が身がかわいいので。」
男と青年の気の置けない会話に苦笑いして経清は荷車で、と答える。
「散財をさせたな。」
「いいさ。たぶん・・・わたしのせいだろう?」
窺うようにいってみた言葉に、青年がにやっと笑って、守衡を見上げた。
「共鳴しやがった、こいつ。」
守衡がはっとしたように息をつめる。
「
「京以外で身罷られたものもいるでしょうから。風に乗り、水に流れ、ときになにかに宿りながら・・・そうやって自らの天地を目指す魂がある。・・・そうですね、やはり還りたいと願うのでしょう。」
「ああ、だから・・・還すぞ。」
深い声、深い眼差し。その横顔に、経清は思わず目を奪われる。視線を受けている守衡が引き込まれるように頷いた。
「それは・・・あれか?」
「ああ、見込みどおりに。」
守衡は手にしたままだった弓を、袋から取り出し、青年に示した。
受け取り、弓幹に手を滑らせる青年は、
「弦を張った形跡もない。持ち腐れにしてくれるものだな。くれてやったのは十年は前だぞ。」
「この場合は好都合でしょう。」
「まあ、な。大事にはしまわれてはいたようだから余計な気にも染まず、未だひたかみの気を纏っているのだから助かるが、腹が立つのとは別問題だ。」
「珍品の家宝扱いはしてたようですが、姫君のおかげで全くあっさりと。以後は、ここまで牛車で送ってくれる程の丁重さで。」
くつくつと喉の奥で、笑いをころがした。
「船の件も、大和の公家らしく話をこねまわしていたのが、姫君の前には本当に素直なものです。起請文も素早く書き渡してくれまして。」
「・・・風織姫を物の怪もどきに仕立てるなよな。」
青年は憮然とするが、
「構わないけど? 私の演技はどうでした?」
突然、朗らかな、若い女の声が割り込んできた。
「空気を素早く読んでいただいてありがとうございます。」
経清は身構え、青年も瞬間目を瞠り、待ち構えていた余裕の守衡がにこやかに言った。
「あそこまで脅えてくれるのは新鮮だわ。というか、
「大和人はとうに
「こちらこそ。ようやく挨拶ができたわね。空里がいないと声が届かないというのは不便よね。早桜でいいわ。経清どのも、彼の面倒をみてくれてありがとうございました。」
部屋を横切って、彼女は青年の傍らに座った。
「――顔色、まだよくないね。」
「そうか? まあ、でもなんとかな。」
彼女が守衡や経清に視線を向けている間、どこかムッとした面持ちだった青年が、途端に笑み崩れる。
「ここまでどうやって?」
「守衡どのと牛車で。」
「・・・ふたりで。」
ふーん、と唸った青年の瞳に、あきらかな妬心の影がある。
「馬でも良かったのですが、それでは姫君が目立ちすぎますので。」
あまりにもわかりやすくて、守衡の『言い訳』は、やれやれというような苦笑を隠しきれない。
「賢明だ。・・・検非違使や陰陽寮は困るんだろう?」
淡い光を纏っているような彼女がそのへんの夜道を歩いている姿を想像して、経清は深く頷いて助太刀する。
「裏手で抜けて、塀を越えてきたの。こちらの家の方を嚇かしては申し訳ないもの。」
これは有難い気遣いで、軽く会釈した経清に、彼女はふんわりと笑った。
「さて、空里、あなたにはまだ休養が必要だと思うけど。」
「・・・お前が居るのにか?」
「たぶん、このまま居ることになると思うわ。
「――京でなら、ずっと居られるのか。それなら京も悪くないかもしれん。」
結構真顔であるが、
「あなたがひたかみ以外で生きられるとは思えないけれど?」
彼女は真顔で、そして真っすぐに語る。
「・・・ああ。」
ふ、と息を吐いて、青年は身体を床に倒した。
守衡が目顔で経清を促した。並んで立ち上がりながら、
「何か、腹に入れるものを運ばせるか?」
「・・・いい。喰うとたぶん吐く。」
実はまだ恐ろしく具合が悪かったことを露呈して、青年は眩暈をこらえているのか天井を睨みあげる。
「水をお願い。飲むのと、盥にと。あと、手ぬぐいも。」
「わかった。」
「妻戸の外で構いませぬか、早桜姫?」
「ええ、大丈夫。おやすみなさい。」
蔀戸を下ろし、妻戸も閉め、経清と守衡は離れを後にした。
所望の品を下女に運ぶように命じ、中には入らず声をかけたら縁に置いてきていい、と言うものの、ものを素通りする彼女がどうやって室内に運ぶのだろうか、とふと首を傾げた。
「“風”を使うだろう。盥のひとつやふたつ、視線ひとつで動かすさ。あのひとたちは。」
経清の自室で、遅い夕餉を取り、数献めの酒を飲み干した守衡が、こともなげに応じた。
「・・・ひたかみではこういうのが普通なのか?」
「オレはできんよ。程度の差はかなりあるが、彼の弟ぐらいだ。昔は・・・瑠依----阿弖流為の頃までは彼の血筋ではわりと普通だったらしいが。」
ひたかみの人間であることをさらりと認めて、守衡は薄く笑う。
「風織姫は・・・ああいう風織姫は昔語りにも聞かないが、昔語りの姫たちも万別だしな。なににせよ、神代に迷い込んだような気にはなる。」
「・・・あのふたりは、」
経清は昼間、青年と交わした会話を思い出している。
「そりゃ、見ての通りだろう? 相当、参ってる。」
ある意味身分違い――確かに。
どうしようもない――物凄く確かに。
どこまでも普通とはとてもいえんヤツだ、と溜息をつく経清の向かいで、守衡は皮肉っぽく唇を歪める。
「年寄りどもが案ずる訳だ。」
「とは?」
「とうに身を固めていい年齢だというのに、ってことだ。恐れ多くも神姫にどんなに執着してようが、加護はありがたいが、生身の女じゃない以上は跡継ぎはのぞめんだろ。彼女が地上に降りる決断をするならともかく・・・あれだけ臆面なく口説かれていながら、感覚が違うのか鈍いのか、親密なのは間違いないが、そういう瞳じゃない。」
守衡は鋭く分析してみせた。
「・・・せいぜい姉と弟・・・彼女の感覚はそんなもんじゃないのか?」
彼女の口調には年下を扱うような響きが宿るときがあったのを思い出し、経清は頷く。
「彼女と初めて会ったのは十年ほども前だそうだが、彼女はその時から寸分も変わらないと聞く。いまの外見は逆転していてもな。」
「難儀だな。」
経清は同情の響きを宿らせたのだが、
「物好きだ。ひたかみの娘で、彼が本気で望んで手に入らない女なぞいないというのに、な?」
と、守衡はばっさりと言うが、目は柔らかい。
「だからこその風織姫なのだろうが。」
互いの雰囲気を探るような沈黙の中で杯を幾つか干し、折敷にかわらけを置いて経清が切り出した。
「佐渡でひたかみの船が大和の官船を襲ったという話を聞いている。」
なにかしらの関わりはあるだろうと踏んではいたが、
「ああ、救出された絶世の美男の蝦夷の頭が、なにを隠そうオレだ。」
と、どうやら聞かれていたらしい(大きな声であったとは思うが)一昨日の会話にかける余裕で、平然と明かされて絶句するしかない。
「なに、人相がきが出回っているわけでもない。昨日の今日で、逃げ出した虜囚が京大路を歩いているとは誰も思うまいよ。」
成る程、とは思うが、豪胆で、果てしなく図々しい振る舞いである。
「――間抜けを晒した上、有難く連れ帰られるわけにはいかんのでな。土産物探しに参上した。」
表面上はおどけた言葉を並べているが、ひやり、とした口調に目を上げた。
「船を、佐渡で拘束された時に押さえられた。若狭の港に移されていたのは確認済だ。強引に奪い返すのは容易いが、これ以上大和の心情を逆撫でするのもなんだ。話し合いでの返却を求めに来た。」
その相手が、先刻の牛車の持ち主なのだろうが、そんな決定権を持てる有力者に蝦夷がひょいと行って、そもそも会えるものなのか、と首を傾げたが、守衡はせせら笑って首を振る。
「欲の皮を膨らましたいために、便宜をはかってくれる貴族はたくさんいる。そうだな、二度それなりのものを贈って、三度目に赴けば、今後のつきあいを期待して、高貴なるお顔をみせて恩を売ってくれるぜ。」
上級の貴族のそうした汚さは耳にしているから、溜息をつくしかない。
「・・・で、あんたは海賊なんだな?」
「大陸との交易商だ。売られた喧嘩以外では、おとなしく真面目な。」
素直には頷き難い自己評価に胡乱な顔をしてみせる。
「なら、なにをして捕まったんだ?」
「密貿易だそうだが、つまりはオレが“蝦夷”だからだ。」
なにげなく吐き出された言葉が孕む、敵対する国への毒。
「とにかく
「“蝦夷”が必要、って、」
「示威か揺さぶりか、大和の上の方のだれかがひたかみのなにかが欲しくなったんだろう。身代金か、もっと直接的な、久方ぶりに征夷戦を仕組む端緒にしたいのか――。ただ、ここまでひたかみの対応が早く、荒っぽいというのは予想外だったろう。オレも、まさか海戦で奪い返されるとは思わなかったくらいだから。この思い切りの良さは、今までの日高見には無かったものかもな。吉とでるか凶となるかはしらんが。」
運任せのような台詞を吐くが、瞳は理性と「覚悟」を語る。
蝦夷とは、こういう男たちばかりなのだろうか。京洛人が抱くごく一般的な「蝦夷」像は、それこそ野卑で理性の欠片もない熊の如き野人だ。だが青年も守衡も、洗練されたといっていい物腰で、よく鍛えられた機能的な身体つきに回転の速い頭を持っている。蝦夷との戦と聞いて同輩らはとるに足らない烏合の衆相手のように、勝つ気で高揚していたが、恐らく「蝦夷」の上層部にあたるこういう男たちに率いられる軍勢は、決して侮ることのできない相手ではなかろうか。
戦を起こすのなら、自分の仕える源家が大和の剣として任じられる可能性が極めて高く、そうなった時自分もまた陸奥に従い、そして彼らと刃を交えるのだろう――否、彼らと直接刃を向け合う機会はきっとない。彼らは指揮官で、自分はただの侍だ。立場が違う。戦が本当に終盤にならぬ限り、彼らは矢面には立つことはない筈だ。
生まれついた
「というのが、オレの事情だ。」
自分の思いにいつの間にか沈んでいた経清は、守衡の声に我に返った。
「オレの拘束が十三湊(とさみなと・日高見の交易本拠地)に報らされた時、彼はちょうど叔父君を訪問中でな。船団に乗り込んで救出に参加して下さったらしい。救出後、面識を持ったオレが京に寄るというので、大和の京をこの機会に見てみようと同行してきたところ、件の気配に気づいて奔走されているというところだ。」
「・・・待て。救出後に面識って、もとから知り合いじゃなかったのか?」
思い返しても、十年越しの付き合いのような雰囲気である。
「十日になるか?――明日で。」
たぶんものすごく不審な顔をしたのだと思う。苦笑いして守衡は続ける。
「オレの方は十年近く前に遠目で見たことはあったが。住処は遠いし、当主はお互いまた親父で顔を合わせる機会があるわけでもない。まあ、彼と知己を得られたことは今回の騒動の唯一の僥倖だったかな。」
皮肉の棘を内包するというのか、斜めに構えたような口調が、青年を語る時だけ奇妙にまっすぐになる。
「ずいぶんと入れ込んでいるようだな?」
からかうように言ってみると、軽く目を瞠ってそれから、そうだな、と自分の内を見つめるような瞳で頷いた。
「預名方になった時は打算が先立っていたんだがな。今回の失態で、オレをお払い箱にしたい連中も、風斗の庇護を受けた者をそうそう軽んじるわけにもいかないから、口を噤むだろう。せっかくだから、せいぜい気に入られてやろうと思っていたわけだが-------闇衛の御館------まあ、ひたかみの主、というような方でも、彼が本気で否といえば、どうしようもない、あたりまえに誰もに崇められるひとが・・・こんなに放っておけないひとだとは思わなかった。」
明るい愚痴、というよりは、惚気だろう。
「・・・確かにびっくり箱のような男だな。」
経清の台詞は守衡の気に入ったらしい。屈託のない笑い声を立てる。
「ひとならぬ方だからな、諦めろということか。」
開け放った蔀戸から見渡せるささやかに樹木を植えた小坪は、月明かりに青白く輝いている。そういえば今夜は満月だった。中天にさしかかろうという刻限で、室内からは庇が邪魔をしてみえないが、覗ける夜空の明るさから煌煌たる月の様子が窺い知れた。
どちらともなく再び杯を取り上げた。だが先刻の張り詰めたような空気はなく、月光が滑り落ちる枝影に視線を漂わせて杯を重ね、夜は静かに更けていった。
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