いざよひ断章 1
京の闇は冷えた水の匂いがした。
何かがひょいっと夜の底から凍えた腕を伸ばして、絡め取られそうで気を抜けない肌触りだ。その夜に十二年居た。生まれ、初冠までの十三年を送った坂東の地は、緑の混じった雨の匂いで追憶する。それは父を亡くした日の午後に直結している。己の運命が決した時だと、多分認識しているからだろう。
此処は――風の匂いがする。
風に匂いなどあるものか。それは風が含み運ぶものの匂いだろう。例えば食物(そのものの、調理の)、花の、緑の、大地の、ひといきれの、生き物の。然りと頷き、けれど、と思う。
柔らかく、微かに、猛り、激しく。この地ではまるで一時も止むことがないように吹き渡っていく風は、何だろう、ひどく心をざわめかせる。
彼方へ、彼方へと、
――けっして不快ではなく。
どこか懐かしい気さえする・・・。
「・・・経清どの、」
名を呼ばれ、辺りが現実の質感を取り戻し、いつの間にか惚けていた自分に気づいた。
「ご気分でも?」
同輩である藤原景季が、周囲をはばかった小さな声で尋ねてきた。
大丈夫、とゆっくり頭を振ってみせると、景季は経清の二の腕を軽く叩いて離れていった。
――気を散じている場合ではない。
景季が叩いていったあたりをもう一度己で叩いて、経清は眼差しに力を込めた。
和議が成ったとはいえ、奥六郡――この土地のものはひたかみと呼ぶ――は敵地と呼ぶべき場所で、しかもその敵の領袖の館に自分たちはいるのだ。
衣川の柵(城・砦の意味)、と呼ぶ安倍一族の本拠地は、規模こそ彼らの京におよばぬが、街並みの見事さと活気に圧倒され、館の広壮さには息を飲むばかりだ。今回が三度目の衣川訪問となる佐伯経範、藤原景季の二名はともかく、聞いてはいても初めてまのあたりにするその『都』の活況に残りの面々は落ち着けずにいる。
「
ポツリ、と誰かがこぼしたが。
まさしく、と経清は思う。『辺境』だと、そう聞いてきた。けれど、此処は大和の外れではなく――大和風のものはあっても、大和の名で名づけられていても、匂いが違うのだ。確かに。
我らは異邦の
「ようこそおいで下さいました。」
奥庭を抜け辿りついた客殿にて、陸奥国司の名代を今回務める佐伯老に上座をすすめているのは、経清と同年代位の青年だった。当主・安倍頼時の子息なのだろうと見当をつけていたが、景季から、
「安倍三郎宗任。」
と、囁くようにして教えられ、成る程あれが、と聞き知った名と実物の姿を重ねて頷きあう。
多賀城国府との折衝役の他、現在、父頼時の補佐役として奥六郡の内政を司っているという。
嫡男である次郎貞任が鬼切部合戦の武名で猛々しい印象で主戦派と目されるのに対して、国府へ礼を尽くした対応をする宗任は穏健派といった感じで、実物の容姿もそれを裏切らぬ生真面目そうな雰囲気だ。
奥六郡には多くの柵(城)があり、頼時の息子たちが柵主を務めている。宗任も鳥海柵を預かっているが、ここ一、二年は殆ど衣川柵で過ごしていると聞く。和議以来、貞任が衣川の更に奥地、厨川柵に籠もり、衣川でのその嫡子としての責務を放擲しているのに代わってのことだ。
宗任が安倍の正嫡になるのではないか、と多賀城では囁かれてもいる。貞任と宗任は母を同じくし血統に優劣はない。責を果たしてこその次代だ。既に数年、義務を投げ捨てている貞任は、嫡子の座を放棄したと見なされてもおかしくない筈だ。
「今の度は初めてお見かけする顔が随分ご一緒ですね。」
「おお、若い者共に見聞を広めさせようよ、という頼義さまのおことばがあってな。」
白々しい会話だ、と『若い者』とくくられた彼らはそっと目を交わして苦笑する。
一行の誰もが京に在りし時から頼義公に仕えてきた坂東(東国)出身の
「――宗任兄者。」
一同の視線を集めた、童子をようやく抜け出したところといった若武者は軽く会釈をして、目顔で宗任を招いた。
「み・・・重任、いかがした?」
兄者というからには兄弟なのだろう。宗任は佐伯老に一礼して縁に出て行った。膝を折った兄に、重任と呼ばれた少年は二、三言耳打ちをする。宗任はきつく眉を寄せた。
「――弌夏姉上は・・・分かるが――それでは、」
叱責するような口調が、思わず耳をそばだてる大和の一同の耳に切れ切れに届く。困ったように兄の言葉を受けていた少年が、ふと視線を動かし、天を仰ぐような仕草をした。それを追って宗任は振り返る。
「有・・・ッ。」
鋭く発しかけた声を飲み、立ち上がった宗任は、瞬き一つで苛立ちや困惑を柔らかな表情の下に押し込んで、そちらへ手を差し伸べた。
――大和人のだれもが恐らく息をのんでいた。
奥六郡(ひたかみ)の装束を纏った娘は、夏の光に花弁を輝かせる鮮やかな花のようだった。
「佐伯どの、これは我が妹にて、」
「有夏と申します。お初にお目にかかります。大和の殿方。」
艶やかで、挑戦的な笑みを、彼女は『求婚者』たちに投げかけた。
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