結文

 その瞬間、風斗がどんな顔をしたのか覚えていない。

 もしかしたら見れなかったのかも知れないが、それも覚えていなかった。気がついたら、館の一室だった。開かれた蔀戸の向こう、小坪の木々の間に、対の屋の明かりが揺れている。肌を擦りぬけるのは透明な紫の、黄昏の空気。

 妻戸をでようとした早桜の前に、ひとつの影が走りこんだ。

 なにか宴があるのだろう、着飾った有夏は、大きく手を広げて、早桜の行く手を遮った。

 風斗がいなければ、互いの声は互いに届かない。少し怒ったように唇を結んだ娘を、早桜は戸惑って見返す。

 ややのあと、ふと早桜の後ろに視線を止めた有夏が、彼女を手招いた。

 まず灯台に燈を灯した有夏は、文机の上の文箱を開け、紙と筆を取り出す。

『このまま帰って。』

 まず、書きつけられた言葉に、早桜はぎょっとして、いまは気の置けない友人となった娘を見つめた。

『あなたを見たら、風斗兄者の決意が鈍る。』

 苦しそうに目を反らして、有夏は筆を進めた。

『風斗兄者は、妻を娶られる。間もなく婚儀が、広間で始まる。』

 一度、二度、文字を辿った早桜の目が、ゆっくりと大きく見開かれていく。

『風斗兄者に、これ以上つらい想いをさせないで。』

 有夏は、そこでしばらくためらって、

『もしも、早桜が降りて来てくれるのなら……』

 瞬間、紙がばさりと風に巻き上がるのを慌てて抑えて、有夏は早桜を顧みる。

「できるはずないでしょうがッ」

 聞こえる筈がない。けれど叫ばずにはいられなかった。

 みんなして、どうしてそんな望めないことを望むのだ!?

 口の動きと表情を読んだのだろうか。有夏がゆっくりと息を吐き出し、

『風斗兄者の傍らには≪現世いま≫をともに生くひとが要るの。こうして、どんなに近くて見えていても、あなたと私たちの間には、この世の理では計ることのできぬ距離がある。でも、錯覚してしまうの! あなたとあんまり当たり前に話して笑えるから。』

 唇を噛んで書き綴る。

『……風斗兄者を解放して、早桜。あなたがあれば、風斗兄者はあなたを見つめることを止められない――あなたという≪夢≫を手放せない。この世の中で決して幸せになれない。いいえ、幸せになろうとはしない。』

 だから。

 きっ、と彼女は眦を上げた。唇が動く。


 ――もう来ないで。


 最後、自分はいったいどんな顔をしたのだろう。

 《夢》だというのに、向けられる言葉は所詮は自分が紡いだものにすぎないのに。

 なににこんな傷ついているのか。


 ――空里。


 なにがこんなに苦しいのか。


 ――空里。


 なぜこんなに哀しいのだろう。


 ――空里。


 ただ、その名前だけが果てしの無い螺旋を描く。

 

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