現五夜 風斗

 初冬。ひたかみ軍は、鬼切部にて陸奥国司藤原登任なりとうの軍と戦い、これを壊走させた。

 ひたかみの領有と扱っていた村で国府が税を取り立てようとして、自警団と小競り合いを起した。そこから村の領有権を巡る争議となり、国府軍がひたかみの驕暴をならして近隣の村を焼き払い、こちらに侵入したゆえの開戦だった。

 同年、大和朝廷は陸奥国司藤原登任を解任、新しく源頼義を任ずる。ひたかみと隣接する坂東地方に強い影響力を有し、坂東武士団を率いる当代きっての武将の登用は、大和がひたかみとの全面戦争に踏みきる覚悟と見えたが、翌春、頼義の多賀城国府到着とほぼ同時に、朝廷は今上帝の母后の病気平癒のために「恩赦」を発令する。

 恩赦!

 そのとき風斗は鼻で笑った。

 我らがいつ、しかも大和から許してもらわねばならぬ罪人になったのか。

 風斗は、戦の続行を主張したのだ。

 源頼義は、確かにひたかみにも名を聞かせる、切り札ともいえる武将だが、頼義を倒せば、武を野蛮と蔑む風潮の大和貴族に武人の人材などいないに等しい。

 名高き剛将を起用しながら、一度矛を治めるのは、みえすいた時間稼ぎにすぎぬ。

 ひたかみを本当に許すつもりならば、国司は武官ではなく文官を任じるはず。それは、恩赦は急に決まったから、とのたまうのはめでたすぎる。

 坂東下総の将門、西では瀬戸の純友、そしてまた坂東で忠常……ここ百年ほどの間に立て続いた大きな地方反乱を辛うじて大和は抑えてはいたが、地方の行政兵権を司る国司に任ぜられた貴族が都を離れることを厭い、家臣を遣わし自らは都に留まり続ける遙任を、朝廷がとがめだてしないというのは、機構が腐り始めていることを示し、即ち、旧来のように迅速な兵と兵糧の徴用がかなわないということだ。

 兵と兵糧と、地の利をおさえる時間を、頼義に与える必要はない。このまま討ってでるべきだ!

 ――風斗の意向は採られなかった。

 父は――闇衛の総領、広里こうり(頼良)は和議を(大和は「恩赦」だと言い張るが!)受け容れ、剰さえ同名であるのは心苦しいと、和名を頼時と改名して、新国司を膝を折って迎えたのだ。

 国府に赴く際、父は息子達の同行を求めたが、風斗だけは頑として肯んじず、自身が任されている厨川館に引き上げた。

 しかしそれは風斗個人の意地にすぎず、和議は成ってしまった。

 戦を好んでいるつもりはない。ひたかみに平穏な民の営みを護るのこそ闇衛の務めだ。だから大和の前に跪き物品を貢ぎ、国府の役人に一族の娘を送り……。だが、いつまで誇りを削るというのか。ある時の忍従は誇りだろう。慎重も結構。だが今は――いまこそは!

 これほどに、はっきり風がから吹いているというのに、なぜ、時が分からぬ!? 

 ぎりぎりと拳をかためた風斗の耳に、弓弦から放れた矢か、鋭く風を裂く音が届いた。縁を進むと、弓場に面する。集う顔をさっと見渡して、風斗はそっと眉を寄せた。

「兄者! お着きでしたか!」

 目ざとく彼を見つけ、弓を片手に駆け寄ってきたのは、鷹里。すぐ下の弟だ。ああ、と頷いた風斗は、お節介をやく輩がでないうちに、さっさとこの場を離れようとしたのだが、

「お待ち下さい。」

 聞き知らぬ少年の声が、みごとな早射で彼の足を射止めた。

「……随分仲良しになったものだな?」

 側仕えに弓を預け、弓場を横切ってくる大和装束の少年武者に目をあてながら、傍らの弟に皮肉っぽく囁く。

「あのようなお年の御曹司を女や酒肴でもてなすわけには参りませんでしょう。弓はことのほかお得意とのことですから、競射をとお誘いしたんです。」

「そもそも、なんだって国司の息子が、衣川館に居る?」

「……父上が招いたからですよ。」

「は。国館もみせてご機嫌とりか。」

「兄者!」

「にしても、国司も豪胆だな。内部を知る機会とはいえ、嫡子をして敵陣に送りつけるとは。要らぬ息子でもあるまいし?」

 これは聞こえよがしに言ってやったのだが。

「――父が、まことに安倍と誼みを結びたい、信頼している証とは取ってはいただけぬのですか?」

 武門の子息らしく大柄でしなやかな筋肉を纏わせた、陸奥国司の十四歳の嫡男は、縁の下から彼を見上げてにっこり笑った。

「・・・・あなた方の記録に阿弖流為と載る者の最後はご存知か?」

「ええ、坂上将軍に投降し、河内で斬首されたのでしょう。」

 投降か、と皮肉げに唇を吊り上げる。

 阿弖流為--闇衛瑠依、風斗にして水斗とまさしく真なる『御館』であった男が、どういう最後を遂げたのかひたかみわれらは忘れない。二百余年前、日高見の当時の『御館』は和議の為と京に連れだされたが、和議の場など一席も設けられず牢に繋がれ斬首された。

 困ったように首を傾けた若武者は、気を取りなおして名乗りをあげる。

「申し遅れました。わたくしは源頼義が一子、太郎義家と申します。以後お見知りおきを。」

「そのお年にして京では並ぶもののない弓の名手として名を馳せておいでだそうですな。」

 文弱の京で名手と称えられたところで、たかが知れてるだろう、という皮肉に、義家は少し眉を上げただけだったが、家臣の一人が詰め寄ってきた。

「貴様、無礼であろう!? 従五位下をいただく義家様を、その様に見下ろし、義家様が御自ら名乗られているというのに――地下人の分際で。貴様、早々に其処より降り、お答え申せ!」

「申し訳ありませぬ!」

 跪いたのは、鷹里だ。

「これに居りますのは、安倍あべの次郎貞任さだとうと申しまして、わたくしの兄でございます。京のしきたりにはうとい無骨者ゆえ、どうかご容赦下さいませ。」

「貞任、と申されれば、安倍の跡取だろう。跡取の、この始末は、安倍が大和を軽んじているとそう受け止めてよろしいのですな!?」

「いえ、そのような……。」

「――結局、こうなる、か。」

 口の中で小さく呟いた。

 大和は彼らの決め事を振りまわし、こちらで強要することに何の疑いももたぬ。それで従わぬのは不敬か反逆。

 風斗は素足のまま、階を下り、義家の前に額づいた。

「お初におめもじ申し上げまする。父君の国府ご到着の折は、あいにく日ごろの不摂生が祟りまして臥せっておりましたゆえ、ご挨拶が遅れました。安倍頼時の一子、安倍次郎貞任と申しまする。」

「……お手を、いえお立ちください。貞任どの。安倍どのは大事な友人。そのように畏まられては、こちらの身のおきどころがない。」

 義家の声に、面を上げ、片膝を立てるが、言葉のままに立ち上がる無礼はしない風斗に、国府の家臣団の空気が目に見えて和らぐ。

 それは、彼らのことわりに自分が従ってゆえの現象。

 とはいえ、心無くとも、こうして膝を屈す行為は、心を削る。

 そう……屈辱のくさびにひたかみはつなぎ続けられているのだ!

「……大きくていらっしゃる!」

 再び促されて、ゆっくりと立ち上がった風斗に、源氏の御曹司は感嘆の声を洩らす。

「父上も京貴族の内では見上げるようだと言われるが、まあ坂東武者に混じれば目立たぬ体躯ですが、……あなたの前では坂東者が小柄に見えそうだ。」

「恐れ入る。」

「あなたなら、頼時どのから献上されたあのような見事な馬にさぞ映えられるでしょうね。京の貴族では、鐙に足が届かぬ。」

 義家の言葉に、坂東出身者たちで占める家臣たちがどっと沸く。しかし軟弱と京を馬鹿にしながら、彼らは京の権威や官位、そういった飾りに弱い。ひかみみと境を接する坂東も、かつて大和と呼ばれぬ時代があったが、大和に呑まれた現在はもう、大和のことわりに囚われた者達なのだ。

 ――ひたかみはかならずであり続ける!

 特別な食べ物や鍛錬を尋ねられ、風斗は苦笑いで首を振る。

「この風を思いきり吸い、大地を踏みしめ、森の、川の、海の実りに感謝して食す……それだけですな。」

 体格の差は、生活の違いに拠るところが大きい。京貴族は、仏の教えに従い、穢れとして肉食を避ける風潮があるが、日がな一日屋内で過ごす貴族とは、活動量がけた違いに違う、武芸鍛錬をし平時には田畑の耕作をする坂東武者はそれでは身体が立たぬし、ひたかみも肉は当然の実りに数えている。

「若君はこれからが伸び盛りであろう。あなたがいま踏みしめられる大地を敬い、風を聞くならば、我らの天地はあなたを育むことを拒むまい。」

「私は、陸奥の国----そしてこの奥六郡が好きになりそうです。いえ、もうとても気に入っている。私はこの天地の間に私を刻むことを望んで、ここに来たのです。」

「それは……光栄だな。」

 穏やかな風景を見守るだれが、この――ひたかみと大和を名乗る――ふたりの間に、どうしようもない断絶が横たわっているか、気づいているだろう。

 ひたかみを認めよという風斗と、ひたかみという名ではないこの大地を欲する義家と、いつか交える鉾の音を聞きながら、笑みを浮かべ合う。

 十四歳。対等に立てるまで、まだいましばらくの時が要る。武将としての風斗は、高揚感を抱き、日高見の統領としての風斗は、昏い警戒心を覚える。風が肌を焦がすような予感ともつかぬ思いは、この若武者が日高見にとって、≪さだめのもの≫であることを告げているのか。

 この出逢いは、どちらにとって吉か凶か。どちらもというわけには決していかない。どちらかが、どちらかの破滅の使者になる。それでも、

「……気に入った、というのは無礼か? 義家どの」

「いえ。こちらこそ、若輩からの会えて嬉しいという言葉を、許していただけますか?」

 風斗はにやりと笑い、すずやかに義家は笑みを刷いた。

 だれもが友誼が生まれたと聞いただろう。いや、言葉に、思いに偽りはない。だが、現在を越えて、来るべき戦乱で出逢える最高の敵手までを言祝いでいるとは思わぬだろう。

 父を訪なうので、と踵を巡らした風斗は、再び呼びとめられた。

「一射、見せていたたげませぬか? 弟君の宗任むねとうどのも見事な腕前でしたが、武名の誉れ高い貞任どのの弓勢を是非拝見したい。」

 と、申し入れたのは、義家の家臣の一人だ。二十歳ほどで、坂東武者らしい引き締まって機能的な身体つきをしている。ちなみに宗任は、鷹里の大和名である。大和の名乗りに合わせた名を持ってようになったのは、いつからなのか。また苦さがこみ上げる。

「景季、」

 義家が咎めるように名を呼んだが、

「どうか。」

 と、食い下がる。熱心な面に老齢の家臣の一人が苦笑して、とりなしに出た。

「これは藤原景季と申して、この通りの若さですが、我が方でも五指に数えられる弓の名手でござる。しかし陸奥に参り、安倍どののご子息がみな巧みな弓の使い手ゆえ意気があがっておるようで……宜しければ一射ご教授願えませぬか? 宗任どの、兄君も素晴らしい名手なのだろう?」

 話をふられた鷹里が返答に窮して、窺い見てくる。そうだ、といえばもちろん、違うと言っても、件の合戦で鳴り響いてしまった武勇の前では、ご謙遜をと一笑されて、弓を押しつけてくるだろう。無知のもたらす嫌がらせだ、と胸内で呟くが、事情を説明してやる気は貞任と名乗った時点で既にない。

「……お前の弓に水をかけて来い。」

「兄者ッ!?」

 狼狽した声が返る。

「使を命ず。疾くせよ。」

 鷹里の身体を包むように風を送った。身が祓われたことを悟った鷹里が、面を引き締め身を翻した。鷹里が戻ってくるまで、成り行きが分からずきょとんとしている大和の一同の目に映らぬような小さな風を起して、身体の周囲を巡らせていた風斗は、清水の雫を受けてきた弓を受け取ると、大きな仕草で弓を構えた。

「この矢、実りの秋まで、この通り、たいらかに運び給え。」

 じき雨季であるし、豊穣なら幾度願ってもいいかと祭文を、口の中で呟き、ごく無造作にも見える姿勢で矢を放った。

 木の枝に吊り下げた的が、受け止めた矢ごと、宙に千切れ飛んだ。

「ど、ど真ん中……、」

 拾い上げた的を確かめて、大和の武者が絶句する。しかも風斗が弓を射た位置は、通常の射程距離の二倍近い処だ。

「なんとも、はや、」

「すさまじいな。人の業とは思えぬわ」

 さっさと一礼し安倍の嫡子が立ち去った後、残された大和人たちが興奮気味に言い合うが、

「神業ですからね。」

 一言放たれた声に、ぎょっとして静まった。

「馬鹿なことを申すでないぞ。景季。」

 八幡神(武の神)の神前で元服を執り行い、卓越した武芸から、その申し子と称される義家と、が同列のような口をきくものではない。

 もう少し困ればいいものをと、つまらなそうに呟いていた景季は、

「神の業なのですよ。」

 と、繰り返した。

 彼が弓をひく――風に矢を乗せるということは、「競弓」などで見せるべきではない神聖な業なのだ、この地では。

 まさしく神事。

の民は、そういうでしょう。」

「ばかばかしい。エミシに使うのも何だが出自正しい、安倍の嫡子だ。人の子は人の子だ。」

「それは我らのことわり。陸奥には陸奥のことわりがあるのですよ。」

「あの者がこの地の神だというのなら、義家さまの前に神は膝をついたぞ。我らに下ったということではないか!」

 あくまで戯言として、愉快そうな笑い声をたてる同輩たちに、やれやれというように景季は肩を竦める。

「名乗ったのなら、そうとってもよろしいでしょうけれど。」

「そなた聞いておらなんだのか? だから、義家さまにヒ膝まづいて……」

「安倍次郎貞任。安倍三郎宗任」

 歌うような節回しで、景季は名を口にした。

「これはいずれのクニの呼び慣わし方なのでしょう? このクニが、同じクニなら、我らはここにいないはず。」

 一同の胸に、自分の言葉が染み込んでいくのを待って、

には安倍貞任という男は存在しないのです。」

「――ここにはここの、風習があるということか?」

 首を傾げながら、義家が呟いた。

「しかし、そんな話は聞いたことがない。」

「聞かないからでしょう。」

 進んで教えるほどの、好感情の付き合いでもない。

「しかし、それば無礼ではないか。つまり偽りの名を告げておるということであろう?」

「なれば、頼時どのの改名も、意味がないということではないか? 殿と同じ名は恐れ多いなどと申しておったが、まことの名でないなら、いくらでも捨てられよう。」

 糾弾すべきだ、とまとまりかける一同を止めたのは年若い義家だった。

「大和が、彼らに大和の名を与えたんだ。かつては――そう、阿弖流為の頃は――我らに対して、日高見の名を名乗っていた彼らが、現在は面前だけにしろ大和名を用いる。それはこのクニに対する大和の支配力が強まっているということだ。彼らが本当はなんと呼び合おうと、我らには関係がない。我らのことわりに、従わせることが重要なんだ。彼らのことわりを見る必要はない。」

 冷静な口調できっぱりと言ってのけた。

「だが・・・いささか学ぶ必要はあるだろう。腹の中になにを潜めているのか。――景季、そなた、何時の間にか随分と詳しいな。驚いた。またどうやって……?」

「恐れ入ります。国府出入りの商いや酒家のものどもとの、雑談より気づきましてございます。」

「なるほど。それで試してくれたわけか。」

 どこかひやりとした響きを感じて、景季は跪き頭を垂れた。

「・・・差し出た真似をいたしました。」

「責めておるのではない。だが二度はいい。皆もだ。ねちねち甚振って一時の楽しみに耽るのは貴族どもに任せよ。我等は武士だ。得物は使いどころが肝心であろう?」

 と、笑った義家は、台詞の鋭さとは裏腹らに、口調も表情も少年らしく明るい。


 「――結婚しろと?」

「そうだ。」

「しかも今宵?」

「----そうだ。」

 なるほど、と呟いた風斗は獰猛に笑った。

「俺を、そんな戯れ言を聞かせるために、夜討朝駆けよろしく使者を遣わして呼ばれたのですか? 父者。」

「戯れ言ではない。」

「戯言でしょう。」

 言い捨てざまに立ち上がり、向けた背を、父の言葉が突き通した。

「立会として、国府から義家どのは既にお見えだ。一族も近隣の部のものらも、次々に参るだろう。」

「ずいぶん大胆なことをしていただけますね?」

 きり、と掌に爪が食い込むほどに握って、背を向けたまま風斗は言葉を返す。

「本人の意向はまったくの無視ですか?」

「……座れ。話は終わっておらぬ。」

「結構です。とんだ厄日だ。」

 吐き捨てた。

「館を出ることは罷りならぬぞ!」

「門をかためるなり、家人にかからせて縄をかけるなり、なんなりと、どうぞご自由に。」

 肩越しに振り返った風斗は、挑戦的に唇を吊り上げた。

「かすり傷程度の怪我人で済ませることはお約束します。」

「――そなたのひたかみに対する覚悟とはかばかりのものであったか。」

 戸に手をかけたまま、風斗が振り向いた。

「どういう意味です?」

 身に大地ひたかみのかけらを受けた風斗に、なにを言う? 怒りを滲ませて、父を睨みつけた。

「現在をいかにうまく預かっても、の責任をとれぬでは片輪だと申しておる。そなたは神のさだめに生まれたが、闇衛の……人の血の流れに生きゆくものであることを忘れるものではないぞ。妻を娶り、子を為し、後継を託す――ひとのさだめに生きてこそ、真にひたかみに生きたことになるのだぞ。」

 立ち尽くす息子を、父は慈しみをこめて見つめる。

「……親として、そなたにあたりまえのひとの幸せをもって欲しい。」

 決して肩代わりのならぬ《冠》が重さだから、せめてつりあうほどのひとの幸いを与えてやりたい……と切に願うのは純粋な肉親の情だ。

 父から目を背けて、風斗は戸を押し開いた。

「……風斗!」

 声と眼差しと思いを遮るように、後ろ手に戸を閉め、空を仰いだ彼の面を、ただ雲だけがゆく青に、落ちた落胆の陰を自嘲の色が追いかけた。

 そんな都合よくいく訳がない……。唇を噛んだ風斗は次いで痛烈な視線を右手に投げた。

「……全員グルか?」

「風斗兄者……、」

 眼光の鋭さに縫いとめられた足を、有夏はごくりと喉を鳴らして解いた。

「――風斗兄者の気持ちは分かるわ。でも、」

「俺の気持ち!? 分かったような口をきくな!」

 昂ぶる感情に任せて吐き捨てた。

「本当に分かっているなら、こんなこと仕組んだりするものか!」

「早桜は大好きよ! でも、早桜は風斗兄者と生きてくれないもの!」

 有夏はきっと顔を上げる。

「早桜が初めて風斗兄者の前に現れて、もう十年がいこうとしている。寸分も変わらないあのひとに追いついて、追い越して私達の時はいくわ。十年、でも、早桜が居た時は、ぜんぶ足したってせいぜい二月ぶん。たったの二月と、風斗兄者のぜんぶの時間を引き替えて欲しくない。風斗兄者には、風斗兄者と生きてくれるひとが必要なのよ!?」

「俺が、いつそんなものが欲しがった!? 」

「……闇衛は……ひたかみは欲しいわ! 御館の妻は絶対に要るわ! それは風斗兄者にとって必要だということだわ!」

「――なるほど、義務か。」

 冴え冴えとした声だ。

「なれば、そういえばいい。御館の務めを果たせと。」

 けれど、有夏は怯まなかった。

「ええ……そうね。でも! なにより風斗兄者に幸せになって欲しいの!」

「……俺は現在どん底に不幸なようだな?」

 低く、風斗は笑った。

「それで、俺は本当に幸せになれるのか?」

「……それは、風斗兄者しだいだわ。」

 義務で終わるか、幸せにつながるのか。

 、と冷たい声で呟いて、風斗は有夏の脇を擦りぬけていく。

「……手を伸ばせば届く幸せに手を伸ばすのがどうしていけないと思うの! 早桜に……風織姫に手が届くことなんて、有り得ない。風斗兄者、それは夢でしかない!」

 風斗は振り返らず、角を曲がって消えた。唇を噛んだ有夏は、妻戸の開く音に振り返る。

「……かえって怒らせてしまいました。」

「わしが申すより、風織姫とも親しいそなたの言葉の方が通ると思うて……嫌な役をさせたな。」

 彼らの父は小さく息を吐き出す。

「戻るまい――客たちは、たっぷりもてなして勘弁してもらうよりないか。」

「いいえ、父様。風斗兄者は承諾されました。風斗兄者はご自分がだれであるかよくお分かりです。風斗として、御館になるべき者としての務めを風斗兄者が投げ出されることはありませぬ。」

「……そうか。」

 父と娘は、悲痛な眼差しを背け合う。

「――これで……よいのだな。」

「……私、」

 有夏は、口早に言う。

「早桜を恨んでしまいそうです。大好きなのに。……でも私達が風斗兄者をこんなに苦しめなくちゃいけないのは彼女のせいだと思ってしまう……だから。」

「だが、風織姫が降臨られなければ、いまの風斗とあれはなれなかった。」

 父はまた重く息を吐く。

「あれほどまで激昂して怒鳴っても、『風』はそよとも動かなかった。しかし、そなたも幼きにしても、覚えておろう? 以前のあれは、感情に力がついてまわった。屋根や壁を破るくらいならいいが、ひとに傷を負わせることさえもあった。」

 ただの暴れものならば話は簡単だったのだが、それはみなが期待していた「斗」の力だった。自身も期待していた当たり前であるはすの力を使えないということは、どれほどの屈辱だったのだろう。肌に畏れと少しずつ増して行く侮蔑を感じながら、語られる『斗』と自分との間の溝を埋める糸口も見つけられず、それがさらに彼を荒れさせ、力を暴走させる繰り返しであつたのだ。あの頃の彼は孤立し、僅かに笑みをみせるのは有夏と水生と居るときくらいであった。あのままであれば、彼は出来損ないの「斗」として、鼻つまみものとなっていたやも知れぬ。

 けれど、アラハバキはそのいとし子を見捨てなかった。

 誇りが崩れきる前に、彼は標を見つけたのだ。

「――あれを導けるものは、現し世に既におらなんだ。」

 風織姫の降臨を境に、確かに風斗は変わった。

 それまでも、力の制御を試みていなかったわけではないが、感情の前にたやすく外れたたがを、自分の意志で動かせる留め金に変えていった。彼に次いで生まれた『水来』をも導き、育てさえした。

 ――無意識に、意識的に、風織姫にふさわしい男になるべく生きる道を、少年は自らに課し、現在の「風斗」になったのだ、ということがよく分かっていて……。

「欲張りなのは、我らだ。」

 それも分かっていて。それでも。


 「……早桜……」

 彼女は待っていたように其処にいた。

 後ろ手に手を組んだ半透明の身体を、初夏の青から降る光が通って、淡く輝かせている。

 はじめて彼女を見たその場所で。

 髪の毛一筋すらも変わることなく。

 ――遠い異国で、水浴びをする天女に一目で恋した男は、彼女が外した羽衣をこっそり隠した。羽衣がなくては空を飛べない。天女は天に帰れなくなり、男の妻となった。しかし、あるとき、男が隠した羽衣を見つけて、天に帰っていってしまったという。

 大陸から来た商人から聞いた、大陸の果て――遥かな、砂の中にあるという国の物語だ。

 なんて馬鹿な男だろう、と思った。

 どうして、さっさと羽衣を焼き捨ててしまわなかったのか。そうすれば、天女は永遠に男のものだったのに。

 ――彼女が『羽衣』を纏うのなら、異国の神の御使いのような大きな翼がその背にあるのならば、むしりとっても切り落としも、この腕に留めるだろう。

 

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