夢五夜 早桜

 射た矢が的に飛び込むように真っ直ぐに、瞳が出会う。

 息を飲む気配が伝わってくる。これはいつものこと。突然の邂逅に一瞬驚いて、しかし直ぐ、目許は緩む。素直に表すのは照れくさい年頃だから、殊更仏頂面になって歩み寄って来て、長身を折って、自分の顔を覗き込み、

「さ、」

 と、名を呼ぶのだ。それをじろりと不機嫌に睨み上げて、

「さ、じゃなくて、お。」

 と、言い返す。

 『夢』の始まる場所は其の度ごとにことなれど、この眼差しと真っ先に出会う。

 まれに彼のいない風景に紛れこむことがあるが、そのときはたとえ人が居たとしても声が通じないし、声も聞こえない。時にはひとの目に映らぬほど、空気に紛れた希薄な存在でしかないときもある。

 風斗を焦点として、この夢は不可思議に現実の質量を有つ。

 風斗に迎えられ、その弟妹たちもいつしか馴染みになり、この世界の知識も増えていく。

 この大地の名はひたかみ。自分を呼ぶ風織姫とは、水織みなおり姫とならんで、この地を護るアラハバキの使いたる神姫なのだと知る。

 古来よりその祭祀を掌って、ひたかみを治めてきたのが衣川という地に本拠を置く闇衛一族で、風斗はその跡取だった。

 緑と光溢れる大地はしかし、楽園でないこともみえてくる。

 秋津島という名の陸の、いま一つの国――南に都をおく大和という大国が、この数百年のあいだに数度にわたって大軍を起して攻め入り、ひたかみは大和の半属国へと追いこまれてしまったこと。大和はいまなおひたかみの併合を欲し、国境近くの多賀城なる国府(大和の地方行政機関)に兵を常駐させ、戦を起す隙と理由を虎視眈々と狙っていること。

 それは、しかし語られる物語でしかなく、早桜の触れるひたかみはあくまで柔らかく優しい感触だった。

 夢の時の流れはとても不規則で、さきの夢からつぎの夢までで、一年が過ぎていたり、数日であったり、わずか数刻の経過であったりする。

 先には下にあった目線を、今度は見上げ、あやしていた幼子と冗談を飛ばし、恋の話を聞く。

「早桜はぜんぜん変わらないね。」

 天人さまだものね、と感嘆するように言った有夏との時間はまもなく八年を数えるが、早桜にとって一炊の、というような時の流れでしかない。

 はじめは単に興味深かったそれは、夢が重なり夢の人々が身近になるほど、自分を置いて、彼らの時間だけが先へさきへと流れることを、物悲しく感じるようになって、早桜は戸惑っている。

 確かに夢の、自分の生み出した産物でしかないのに。

 けれど、この夢を喪失うしなうのが怖いと感じる自分は、この夢に降りていると気づいてほっと幸せな息を吐く自分は、もう歪み始めているのかも知れないと怯えながら、それでも。

 まどろみの揺り篭から、夢へと落ちていくその感覚に気づいて――夢が始まると、どうしようもなく、が踊るのだ。


 ――白に彩られた、連なる山嶺を足下に、空の中に立っていた。

 機上から地上を眺めるのよりも、はるかに広がった視野。なにせ前後左右はもちろん、頭上にも足元にも遮る物がないのだから。360、いや720度の眺望は、鳥の視点とはこういうものなのだろうかと思わせた。新鮮、かつ斬新なアングルだ。

 季節は冬。前回は晩秋であったから、今回のタイムラグは一・二ヶ月、いって四ヶ月か。もっとも数年後の冬、ということも有り得るが。

 流れるまま――空中の移動方など見当もつかなかった――冬の薄青を見上げ、山間のやや開けた場所に豆粒のように散らばるテントを見つけ、鳥が編隊を組んで飛んでいくのを眼下に見下ろす。

 びく、と弾かれるように一点へ視線が吸い寄せられた。

 深く雪に覆われた、玩具のように見える森の、その一角に妙に胸が騒いだ。

「夢、なのだから、」

 胸元の布を握り締めていた手から力を抜いて呟く。

 降りようと思えば、降りれる……筈。

 と。

 がくん、と、あの夢独特の、足を引っ張られるような失墜感。普通の夢と違うのはそれが一瞬ではなく、連続の感覚……つまり実際の落下運動がひき続いたことで……。

 風が上から下に走る!

「きゃああああっっっ」

 こんな急に降りたいとはいっていないっ。

 気が遠くなり、途切れる刹那。

「早桜!?」

 声を孕んで下から駆け昇った風が、吹き降ろす風とぶつかり、結果として早桜はふわりと抱きとめられるような形で、ゆっくりと地に降り立った。

「……いきなりな登場だな……、」

 感触があるわけではないが、やっぱり人は大地を踏みしめていける生物だ、などという実感を抱いて、へたりこみそうになっていた早桜は、茫然とした声に膝に力を込めなおす。

「風織姫らしいでしょうが。」

 神姫とは、崇められたい深窓心理の現れなのだろうかと思うと頭が痛いが、夢の役回りを夢の中で言い訳するのも奇妙な気がして、呼ばれるままにしている。

「随分と慌てていたような気がするが?」

「い、忙しいから、ほら時間短縮、」

「そうだな。天女が空から落ちる、などということはあろう筈もない。いや、天界も大変だな。」

 わかっているくせに真面目くさった顔で頷く性格の悪い男を、早桜は睨みつけた。

「膝抱えてべそかいてた顔は可愛かったのにっ」

 ぶつぶつ呟く。

「いつの話だ。」

 苦笑した男は――そう、彼はもう『男』だった。

 百六十ある早桜の頭が胸元にくる身長は、一見細身だが、鍛えられ、よく引き締まった筋肉に覆われ、確かな力を窺わせる。少年特有のやわらかな丸みから、しっかりとした硬い線で描かれるようになった顔は、若者らしい生気に溢れているが、どこか重厚な雰囲気をも漂わせるのは、彼が担う次期総領としての責の為だろう。

 二十ニ歳、何時の間にか五つも年上だ、と風斗を眺めた早桜は、そこで漸く彼の装束の異変に気づいた。

「甲冑?」

 防寒のために毛皮を重ねているが、戦の時に着るものだと、いつかに見せてもらった鉄をくみあわせたそれに違いない。

 ということは、

「……どこへ、行く途中なの?」

「ん? ちょっと国司どののご機嫌窺いにな。」

 腰に下げた太刀。背負った弓と弓筒。

 早桜の見知る一瞬にして、数千数万を殺傷する兵器とその殺傷規模を比するなら、複ではなく一を殺傷する力の其れは、かわいらしいものといえるのかも知れないが、その分、血と肉をなまなましく連想させる。

「――大和と戦を始める気なの!?」

「仕掛けて来たのは連中だ。」

「でも、」

 勝てる見込みはあるのだろうか。大和は大きな、ひたかみの3倍以上の面積の国だ。地の利があろうと、幾つかの戦の果て、ひたかみが朝貢するまで追いこまれたのは、兵糧や兵員を補充する国力の差だと考える。

 けれど、ここにこうして彼がいるということは、もう退く事はできないのだろう。

 夢も現も、どうして戦いばかり……と早桜は溜息をついた。

「こんな処で逢えるとは思わなかったから、……最後の嶺を越えて戦いの場に乗り込む力をもらえたな」

 目を上げると、――苦手な瞳があった。

 じっ、と見つめてくる瞳の奥のゆらめき。物言いだけで、あと一押しで堰を破りそうで、しかし自嘲の土をまた積み上げて、それを防いで……それを繰り返す暗い瞳を、彼がするようになったのはいつからだったろうか。

 いまは理由が分からず、ただ困惑を浮かべて見返すだけの早桜も、現実ならば、その狂おしさの理由など一目で察せただろうが。

 自嘲とそれでも果てないせつなさを拮抗させて、風斗は目を反らす。

「……すまんが、時が惜しい。先鋒の秋田城ノ介の軍の背後にまわらねばならんのでな。」

「……軍って、さっき空から見えた……」

 風斗の目がちかりと光る。問われる前に察した早桜から、だいたいの方角と距離を告げられると、頭の中で地図を広げたのだろう、ややして「鬼切部おにきりべか」と呟いた。

 早桜は、風斗の背後、少し離れて控える兵たちを見遣る。主家に時折現れる神姫の噂は聞き知っているのだろう。期せずして間近に臨むことになった彼らは、畏怖に満ちた眼差して、息をつめるようにして早桜の一挙一頭足に視線を注いでいる。

 空から降ってくるという、神姫らしい登場が設定されたのだから、一言託宣でも残さねば、期待に背くというものか。せっかくだから、《風織姫》ぶってみるのもおもしろい。

「……勝利を、」

 精一杯、華やかに笑って、凛と声を張った。

「勝利の風を、あなたに送りましょう。風の愛でし子にして、風の戦士よ。」

 風に身が溶けこむ――目覚めの気配が、その言葉を待っていたように訪れていた。

 ふわりと身体が浮かび上がる。今日はとことん極上のロマンティックな演出らしい。近くなった彼の耳元に、そっと囁きを残した。 

「……きをつけて、空里。」

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