現三夜 風斗

 「ずるいずるいずるいッ」

 有夏が、ぷうっと膨れた。

「かざ兄じゃも、父様も、母様も、姉上も、叔父様がたも、みんなみんなずるいっ。」

「しょうがないだろうが。子供はでれないんだから。」

 闇衛を名乗る子ではないが、大和へ――国外へ――嫁がせ、苦労を背負わせた娘を、せめて晴れがましく祝ってやりたいという御館の意もあり、親戚と主だった家臣を集めて盛大に祝われることになった甥の披露目式に――『風斗』として、名告げの役を果たそうという彼の前にふわり、と風織姫が降臨りたのだ。

 風斗じぶんと名を交わし、赤子の頬をそっと指先が撫ぜ、去られた。

 予想を超えた光景に、シンと静まり、それを反芻していた一同が正気を取り戻したあとは、・・・てんやわんやの、風斗にすればもみくちゃの大騒ぎになった。

「有夏ぜったい、かざ兄じゃより良い子だったもんっ。かざ兄じゃなんか、こないだ馬場の柵をへし折ったし、川の水を巻き上げて、近くで見ていた白鳥のしんの臓をあやうく止めるとこだったのにッ。」

「すげー人聞きが悪いッ。柵は、鷹里おうりを乗せたままで暴走した馬が突っ込んでいくから、やむなく折ったんだし、川の件は、そうやって水を一時せき止めて、溺れた子供を助け上げたんだ。別に悪戯ふざけている訳じゃないッ、」

「ずいぶんつかさどれるようになったのですね?」

 くすくす笑いながら弟妹の話を聞いていた水生が、そっと言葉を差し挟んだ。

「まあ少しずつ、」

 その声には確かな自信の芽生えがある。

 なによりまたよく笑うようになった。

 『』すら昔語りになった世に『』として生れ落ち、生まれぞこないの兄とは違い、いやその分も少年は、物心ついた時から『風斗』として期待されて育った。アラハバキの――神の拠り代として、神威かむいを宿し、ひたかみのためにそれを振るう存在たることを。けれど思春期に入り、しるしであり、幼い身体に負荷をかけぬための封印である『聖痕』が消え始め、身体の成長と共に本格的に発現を始めた『風斗』の力は、少年や周囲の思い描いたように、はじめからものではなかったのだ。

 力は、感情という風に揺れる振り子のようだった。

「風織姫のお言葉だもんねえーっ、よくやりました、とか頭撫ぜて欲しいんでしょ。やらーし。」

「……おまえ、わけわかんねぇ、」

 ごん、と小突かれた頭を抱えて、有夏は兄を睨んだ。

「すごいきれいなひとで、兄上、ぽーっとしてたって。」

「突然、目の前に現れたから吃驚していただけだッ。だれだ、ンなこと言ったのはッ」

「弌夏姉者。当夜とうや丸を落とすんじゃないかって、はらはらしたって。」

「……とにかく、俺はぼーっとなどしてないからなッ」

「ふーん?」

「おうッ」

 ジ、と灯心が音を立てる。陽を受けつけない水生の為に設えた窓のない部屋には、角を布で包まれた調度が置かれ、窓がないことを補って余りある通気と暖気に対する配慮がされている。

「――先代以来、数十年ぶりの冠の者、しかも風斗である貴方に、さらに風織姫の加護が有る。貴方にとって、闇衛にとって、なによりひたかみにとってこれより目出度いことはありますまい。私からもお慶びを申し上げます。父上も・・・さぞお悦びでしょう?」

「もう、すっごい大騒ぎだってば。」 

 大宴会、と有夏が目を大仰に見張ってみせた。

「それで、主役がこんな処にきていていいんですか?」

「止して下さい。漸く逃げ出して来たんですから。」

 渋面を作る異母弟に、困ったように水生が首を傾ける。

「それもまた御館たるものの責任でしょう?」

「なら、みなお兄も行こうよ。もう夜だし……大丈夫でしょ?」

 有夏の誘いに、水生は微笑んで、しかし首を横に振った。

「遠慮しておきます。」

 不満そうな声を上げる有夏を、いなすように笑う。

「ひとが多く集まるところはどうしても疲れますし。それに……目出度い席に私のような者が見えるのを厭う方もおいででしょう。」

 ひっそりとした、他人事を語るような声音だった。風斗の気が硬くなったのを感じて、水生は何か気に障ったのかと、そっと首を傾けた。

「行きましょう。兄者。」

 風斗は兄の腕をやにわに掴むと強引に立ちあがらせようとする。

「兄者には、闇衛の長子として上座に座る当然の権利がある。それを拒む者がいるというのなら、そいつが去ればいい。」

「風斗どの、」

「ほら、それだ。あなたは俺の兄なんだ!」

「……手を緩めていただけませんか?」

 痛そうに顔が歪められているのに気づいて、慌ててその細い腕を放した。布地の上から腕を撫ぜた水生は、小さな吐息を落として、突っ立ている弟を見上げた。

「ひとは大地アラハバキより分、を分け与えられて生まれてくる。いつか還るまで、ひとは分を果たして歩いていく。もののふの分、地を耕すものの分、男の分、女の分、父の分、母の分、子の分……父や貴方に皆が頭を垂れるのは、闇衛の名を名乗るからではない。貴方方が分を果たしているから。ただ朽ちていくだけの私には、そんな権利なぞないのです。」

「……それでいいと?」

「私は私の分を知っています。」

「――それは負け犬という分だ!」

 気持ちのままに吐き捨てたそれは、あからさまに兄を侮辱する物言いで、けれど、兄はひっそりと微笑むだけだった。典雅だと思っていたそれが、やにわに理解しがたいものになり、嫌悪といっていい色が風斗の瞳に滲んだ。

 ぷい、と背を向けて、室をでていく気配。戸惑ったような間を置いて、追っていく小さな足音も聞こえなくなる。

 そして、刻むほどに強く床を爪が引掻いた。

「なにが……分かるのですッ。あなたに、できそこないでいるないものの何がッ。」

 血を喉から絞り出すような声だった。

 灯台の小さな明かりの輪の中に浮かび上がったのは、床に身を投げた青年。結わえない白い髪が、放射状に散らばる。

「力も、健康な身体も、未来も、父上や民の期待も、何もかもが当たり前に手に入るものにッ。アラハバキより≪水≫を預けられながら、それが我が身を生かしめるものでしかない私の心など……あきらめること、あきらめられることからはじまったもののことなどッ」

 ふいに肩がぴくりと跳ねて、伏せた面が上がった。

 すでにものを影としかとらえなくなった瞳が、最後の力を振り絞ったのか、それともこの世の人ならざる存在だからか、佇む少女の姿を認めて水生は、刹那、自らの正気を疑った。淡い光を纏った、半透明の……。

「……風織姫……?」

 少女が眉を寄せる。戸惑ったように小首を傾けて、口が動かしたが、声は聞こえなかった。

 ――声は、届かない。

 の声は。

 く、と喉が鳴った。

 こうやって、また思い知らされる。結局、自分の手はなにものも掴むことはないのだと。

 ひきつれた笑いは、気違いじみた哄笑になる。実際、こんなふうに声を上げて笑った記憶などなく、だれかがみれば気が触れたと思うだろう。

 ----否、自分のとうにどろどろだ。

 神姫へ手を伸ばす。脇腹を、背へと貫いた腕。ばっ、と飛び退いた少女の怯えた顔に、また乾いた笑いを起こす。

 これだけは平等で――いや、魅入られ、重ねる時を彼には、この人ならぬ美しい存在は、

「貴方はあれにとって、唯ひとつのかなわない存在になるのでしょうね……。」

 暗い喜びの滲んだ予言ねがいは、少女の姿を呑みこんだ虚空だけが聞いていた。


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