夢四夜 早桜

 遠い森の葉擦れのように聞こえるざわめきが、たぶん現実の音。

 やがて、こころがまた夢へと降りていくまで、まどろみの底をたゆといながら、子守唄のようにそれを聞く。

 それは一瞬のようで、はたまた長いときのようでもあり……。

 

 白一色の装束。濡れ縁に腰をかけて、立てた膝に顎を乗せた横顔。

 目の縁だけに認められるだけになった刺青。

 『力』を宿して生まれてくる赤子に刻まれるそれは、身体が『力』の行使に耐えられるようになった時点で薄れ始め、やがては完全に消えて、彼らは『完成』するのだという。

 小さな息を唇から落とし、ほつれ気味の髪を束ねなおそうと、髪紐に手をやったところで眼が会った。

「……兄が死んだんだ。四つ年上の……」

 しゅるり、と紐を解いた。一つに束ねられていたのに癖のつかない真っ直ぐでコシの強い黒髪が肩を覆う。

「・・・お兄さん? 空里、お兄さんいたの?」

 知らなかった。続いている「夢」の時で、風斗の弟たちや妹とも顔見知りになったが、『兄』がいるなど、幾つもの会話や場面のどこにも窺えなかった。

 ----「夢」である。夢につきものの唐突な設定か、と収めるには、この「夢」はあまりに自然に肌に馴染んでいるから、もっと深い何かを考えてしまうのだ。果たして、

「白い髪、真白な肌、赤い瞳……ひたかみの昼を歩けない子供だったからな、彼は。彼らは朝露のように儚くなる。十まで生きれば長命だ。兄も生まれついて体が弱くて、いつも儚くなる日を数えていた。」

 の医療技術は、自分の常識では測れない。だから、早桜は額面どおりに受け取る。

「二十歳近くまで生きれたってことは、お兄さん凄くがんばったってことなんだ。」

「頑張った?」

 薄いが、確かに嘲笑わらっていた。

「兄は水斗だった。」

「水斗!?」

 風斗は風を、水斗は水を掌る。この大地を照覧する神から力を与えられて生まれてくる、その現身とも呼ばれる存在だそうだ。増えた知識は、それが風斗かれと同じく、大地アラハバキの力を受ける最高位の称号だということをる。夢にしても(いや、やはり夢だからか)影すらも感じ取れなかったのが不自然な「相手」だ。不自然さは、風斗の言葉で得心させられる。

「おまけに闇衛に生まれた。最高の環境と、本来≪水斗≫と呼ばれるはずのひとが受けるものとして最高の≪気≫。それらを食いつぶして生きていたにすぎないんだ。」

 らしくない。荒んだ物言いが早桜の心を引っ掻く。

「兄は水斗と呼ばれることはなく、水生と称されていた。聖紋の儀で、聖粉しるしは紋を形成したのに、定着しなかった。兄に宿ったそれは、兄のものでなかったからだ。誰の、何の役にも立たず、生きて、死んだ。」

「・・・そう、なんだ。」

 同じ家格と素質を有しながら、一つの歯車が狂って、外へ外へと溢れる風斗とは対照的な生き様を生きるよりなかったひとがいたのだ。多分、それはとても哀しいことなのだろう。風斗がそんな状態になったと仮定すれば、彼がどれほど嘆くか・・・いや、恐らく風斗ではない己を許すことができはしないから・・・。

 嫌だ、と早桜は自ら招いた想像を振り払う。

「水生・・・水で生きた、か。……同じだったはずなのに。それでも生きたひと----か」

 どんなひとだったのだろう、と思った刹那、一つの面影が過るが、鮮明になる前に虚をつかれたように目を見張っている風斗に気づいて、遠くなった。

「……水生と・・・呼んでいたんだ。兄者を、」

「う、うん? そう言ったね?」

「そうだよな・・・俺には耐えられない生き様だ。俺がこの先、力を、ときの終わりの前に喪失してしまって、そう冠されたら、俺は己の喉をかっきる。」

 早桜の予想とまったく違わない《決意》を述べる彼を、嫌そうに見る。しかし、彼は何か必死な形相で、繰り返した。

「……俺にはできない----でも、兄者は生きてた。」

 だから情けない、と先までの調子なら、裏打ちしてあった響きが消えていた。

「陽の下を歩くことも出来ず、ものを影のようにしか見えない薄明の世界で、高熱の中でもひとことも泣き言を言うことなく、長子でありながら公にでることも殆どなく、俺に敬語を使い続けて、覚えている限りいつも優しく微笑んで俺達を見ていた。」

 太陽が東より昇るごとく正しく≪水斗≫たる神力は宿り、だから真名は呼べず、月が西から昇るほど≪斗≫たり得ず、そして下された異例の冠≪水生≫。

 けれど、≪風斗≫と呼ばれるたび、自分に降り積もっていくものが期待だとするのなら、それは失望にほかならぬ。

「――ここ一年近くはあまり口を……顔を合わせるのが嫌だった。ただ自分は朽ちていくのが分と微笑むあのひとが分からなくて……」

「空里、」

「・・・覚悟がなければ、できない在り方だろう!?」

「・・・空里、」

「それを蔑むだけでッ、俺が----風斗たる自分がッ」

「空里、」

 早桜は手を伸ばし、けれど決して触れられない指に気づいて、空を彷徨う。

 たぶんもう同じ年といっていいだろう少年の、強張った肩に触れれば、きっと少しは慰められるのに。

「ただの、小僧のようにッ。」

 風が、ふわりと濡れた頬に触れて、少年は早桜を見返った。

 この夢の中で、唯一早桜が触れられるもの≪風≫。触感のない、人も物も通り抜けてしまう世界で、ただ吹く風だけが肌に感じられる。風が渡らせるから音が聞こえる。風が、この世界に自分をつないでいるような気がする。

 握ったままの髪紐を、少年の手から掬い上げた。風を手繰って、髪を束ねようと眉をぎゅっと引き絞った真剣極まりない顔に、強張った頬を溶かして風斗が小さく噴き出した。

「精進が足りないんじゃないか? 風織姫」

「もうっ、動くなってば、」

「悪い悪い」

 仇のように睨みつけられて、風斗はまた笑う。

 しくじって、頬や首筋をかすめる微風にくすぐったそうに首を竦めさせながら、なんとか蝶結びを完成させた時、思わず安堵の吐息が洩れた。相当にいびつな結び目だったが、よし、と満足そうに頷いてから、風斗の瞳をのぞきこむ。

「いいじゃない、こどもだよ。」

「・・・あのな、」

 自分で口にしても人から言われるのはやはり面白くないらしく、こちらを睨んでくるが、

「だって、お兄さんでしょ? 空里は弟だから、兄からすれば年下の子供・・・これ当然。」

 なに知らぬ顔で微笑んでみせた。

「水斗で兄なのに、風斗だけど弟の空里に言い訳なんかしないよ。でしょ? お兄さん?」

 少年もまた弟数名と妹一人にとって兄である。風斗としても兄としても、弱音を吐くのも、ましてや弱みをみせるなどあってはならないように思っている筈だ。

「・・・それは、そうだが、」

 案の定、不承不承ながら頷く。

 -----間違いなく、残酷なことだったのだ。この《世界》のことわりは、見も知らぬ《水斗》に、当たり前に貶められる生涯を課したのだ。

「俺は----気づきたかった。」

「・・・うん。」

 気づかねばならなかった。誰もが当然に嘆き嘲笑い蔑んでも、《斗》であることを誇る風斗には気づく義務があったのだ。微笑みの下にあったろう絶望に。己と同じに生きていけない《悲劇》を。兄だった弟だった子供だった、そんな小手先の慰めをするべきではない----客観的には。

「……俺は水生、いや大里たいり兄者が好きだったよ。優しくてちょっとの風でも吹き散らされてしまいそうに弱々しげで……奇麗で。でも、俺が好きだっのは、大里兄者の見えるもの見せるものだけ……俺はたぶん本当の兄者に会えなかった。それが悔しい。」

「うん、空里。」

 でも、もう決して見える機会のない人を傷つけたと責めるより、を励ましたいのは人情だろう。自分もまた残酷なひとりだ。

「覚えているから。私も。お兄さんのために泣いているあなたのことを、私もずっと覚えているから。」

「・・・泣いてねぇよ。」

 む、と唇を一瞬尖らせて、それから壊れ物のように結び目に触れて、風斗は早桜に視線を据えた。

「……ごめんな。」

 静かに告げられた言葉に、早桜はそっと微笑った。

 分かっているのだ。彼も自分が慰められてはいけないことに。

「----悔しい。」

 取り返しのつかない罪を胸に刻み込もうとする瞳を、真っ直ぐに見返した。

「うん。・・・忘れない。」

 そうして、やがて穏やかに涙を零し始めた風斗の隣に腰をかけて早桜は、明け染めていく空を見上げた。

 黙ったまま、夢が消えるまで、ただ寄り添って。

 

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