現二夜 風斗

 ざわり、と薄野を渡った風に溶け込む様に、儚く姿が掻き消えた。思わず伸ばしかけた手が、パタンと落ちる。掌に立てた爪が痛い。

 逢う魔が刻の刹那を、通りすぎていった彼女は、神なのか魔なのか。

 すっかり、吹き散らしてしまった薄野を、風斗はゆっくりと歩き出す。

 ふ、と耳元で風が囁くのに、ふと高みを仰いだ。

『ぶつけるんじゃないの。話すの。』

 彼女の声が甦る。

 ……そうだ。

 いつだって風は語っていた。ずっと、その【声】を聴いてきた。風はなにも変わらない。ただ・・・聴くばかりだった自分に、応える【声】が宿り――現在は【語り合う】ことができる! 

 けっして抗うべき存在ではなく、なによりも近い・・・そう、

 ――風は我が身を為す。

 すとん、とあんなに重かった胸のつかえが、まるで紙一枚だったかのように落ちて、彼方に吹き散らされた。ゆっくりと息を吐き出す。

 目に映るのは、黒々とした影の野だが、風に耳を澄ませば、脳裡には風が運ぶ上空からの、もうひとつの風景が鮮やかに結ばれる。

 自分の背丈よりも高い薄をかきわける童女と、彼女に手をひかれた若者。

 風斗は、眉間に皺を走らせ、未だ肉眼には見えない彼らに向かって一直線に駆け出した。

「かざ兄じゃ、」

「なにをやってる。有夏。」

 行く手を遮って突然飛び出した人影に、目を丸くした童女は、満面の笑顔になって、舌足らずな声で風斗を呼んだ。

「子供が出歩いていい時間じゃないぞ。」

「みなお兄が一緒だもん。」

 と手をつないだ相手を振り仰いで主張するが、小剣ひとつにぎったことのない彼では、護衛にはならぬ。それに。

「兄者の身体に障るだろうが。」

 風斗は四つ年上の、だが十四の彼より拳ひとつ目線の低い、身体も少女のように華奢な異母兄の顔を覗きこんだ。視力の低い瞳の色は赤褐色。銀糸の髪、色素の薄い肌は、強い日差しに耐えられないし、些細な環境の変化で体調を崩す。こんな子供は、本来十までも生きられない。幾度も死の淵をただよいながらも、こうして十八まで年を重ねられたのは、彼が闇衛の家にまがりなりにも長子として生まれた環境と――。

「大丈夫です。今宵は気分が良いので、少し風にもあたりたくなって。」

 とは言うが、家のものが彼の外出を、気分が良い程度のことばで許す筈もない。しかもお供は有夏とくる。弟は多いが、ただ一人の妹である有夏を特に気にかけていることも、冷ややかな周囲から、自分こそが兄を護ってやらなければならないと思っていることも、周知のことだ。

 つまり己が護るべきものの筆頭にくる彼らならば役に、と担ぎ出された。そこまでのだったのかと、風斗は屈辱感に眩暈すら感じる。その彼の気を孕んで、空気が棘立つのを感じたのか、有夏が不穏な何かを窺うように視線を動かした。

「それより、・・・だれと話をしていたんです?」

 柔らかく兄に問われて『彼女』を意識する。ここで繰り返したら余りに無様だ。

「分かりましたか? さすが水生みなお兄者。」

 左上腕を強く掴んだ右掌から少しずつ力を抜きつつ、腕の線をなぞるように撫で下ろす。風が解れ、流れていくのを感じながら。

「ええ、残滓のような私でも感じられるほど強い気を放ちながら、現し世のひとというにはあまりに儚い・・・とても、不思議な気配でした。その気配も、水鏡を乱したときのように、忽然と失せた。」

 ふわり、と笑う兄には、男の――いや、人間の生臭みというのが、いっさい感じられない。あの透けた『天女』の方が、いっそあざやかな生気を帯びていた。

「風織姫にお会いしました。風に姿を映しておいででした。」

 名のられた訳でも、啓示を受けた覚えもない。ただ、自分の直感。けれど、己の裡に残った存在感----きっと消えない・・・だから迷いなく、位置づけた。

「かざおりひめ……かざ兄じゃ、神姫さまに会ったの? ありかもありかもっ」

「もう行ってしまわれたよ。」

「ずるーいっ」

「良い子にしていれば、お会いすることもできますよ。」

 唇を尖らせた妹の頭を、兄は優しく撫ぜる。

「かざ兄じゃは良い子にしていたの?」

 妹は愛らしく小首を傾げ、実に不思議そうに、

「お父様にをついて、をおこして、部屋をぐちゃぐちゃに吹き飛ばして、館をとびだしたのはわるいことじゃないの……?」

 聞いた言葉を並べ立てているだけなので、無邪気な口調だ。

「有夏、おまえなぁ、」

 それが分かるから怒るわけにもいかずに、思いきり顔を顰めた彼の顔がおもしろかったのか、きゃらきゃらと笑い声をたてる。

「・・・帰りましょうか、風斗どの。弌夏いちかも案じておりますゆえに。」

「水生兄者も弌夏姉者も、物分りが良すぎるだろう!?」

 『純血』であるのは異母兄姉たちの落ち度ではないのに、彼らはまるで贖罪とばかりに揃って従順であることを善としている、それがときの風斗の見解だった。

「……辛い思いをさせると分かっている。それでも、行ってもらわねばならぬ……父上はそう申されて、弌夏に頭を下げられた。我らを生かしめるひたかみのやすきを護るための、これもまた一つの斗いではありませぬか――闇衛の家に生まれた身に、これ以上の誉れはないでしょう? だから、風斗どの、どうか弌夏の門出を祝ってください。」

「……国府の狐樽の言うままに、娘を……人質を差し出す父上は腑抜けだ! たかが国府の役人風情に、なんで闇衛の姫を……ッ。奴らの都では王の影すらも拝めぬ軽輩にッ」

 風斗は吐き捨てた。

 風がぴり、と緊張して四方に散る。反射的にびくっと体を緊張させた妹の肩を、兄はそっと引き寄せた。はっとした顔をした少年は、ゆっくり息を吐いて唇を結んだ。

「……ごめん。気をつける。」

「――風斗どの?」

 非を悔いた声音に、意外さを禁じえない声が返る。

 ≪力≫を暴走させても、ひとり唇を噛みはしても、謝るのは≪斗≫の身の恥だとばかりに、逆に挑むばかりに頭を上げてきた。

 何かが……変わろうとしている? 

 ――風織姫。

 ああ、と表情には映さず、水生は胸内を、苦く抉るような吐息で満たす。

 奇跡か、調和か――彼は確かに大地アラハバキの愛し子だと、思い知らされる。

 、と。

 異母兄の裡に思いも寄せられず、ただ己の想いだけを追って地平を見据え、風斗は風に言詞を乗せたのだ。

「俺は必ずひたかみを、ひたかみの民の手の中に取り戻す。」


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