Day4 懸想中 アイの格率

 昨日の今日ではまぁ迷わないもので、御樹は自転車をカッ飛ばし、自宅から10分程で天音の家に到着した。

「急に呼び出してごめんね」

 ゆったりとしたセーターにズボンという出で立ちの天音が、玄関前に立ったまま言った。いつもの微笑ではなく、若干不安そうな表情をしている。

「いや、別に。で、自転車は?」

「駐車場に停めておいてくれるかな。お母さんは暫らく帰ってこないし」

 言われた通り、家の前にある空の駐車場――道路に面しており、2台分の駐車スペースがある――に自転車を止め、鍵を閉める。ここのところ毎日コートを着ている彼だが、当然ヘルメットなどしていない。

「早く早く」

 と天音は急かす。恐らく寒いのだろう。まだ昼過ぎだが、今日はまた一段と冷える。

 しかし、彼女は鍵を開けても入ろうとはせず、寧ろ御樹を先に追いやった。以って安全を確認して、ようやく自宅に入る。靴を脱いで揃えると、呟く言葉は「ちょっと冷えるね」

 新築物件の防寒設備か、それを頼る御樹の自己暗示か、どちらにせよ木元家は、暖房を作動させる前から多少は温かい。それでも天音が寒そうなのは、自己申告の通り不健康が故だろう。

「中で待ってれば良かったのに」

「お戯れを」

「いや、冗談じゃなくて。見たのは部屋の中だけだろ?」

「けれども、1匹見たら30匹分の警戒をしないと」

「それなら僕では不足だな」

 実際のところ、御樹にゴキブリ駆除の経験はない。自宅でゴキブリを見かけた経験も片手で数える程しかなく、それらも全て父母が叩き潰してしまった。その時の彼はオブザーバーだ。

 自室で読書をしていたところに電話を掛けられ『部屋にゴキブリが出たから追い払って』などと呼び出されたから急いで来たはいいが、特段自信はない。しかも殺害ならばまだしも駆逐ときた。尚難しい。

「天才クソガキみたいな質問だけど、殺したら駄目?」

「え、どうかな。けれども、ゴキブリは確か不快害虫だった筈だね? 見た目が気持ち悪いだけのさ」

「そうだっけ」

「うん。美しくないから殺すというのは、あまりに傲慢な仕打ちだよ」

 と言う割には、御樹の後ろに隠れたまま玄関から動こうとしない。綺麗事を言っても、心底恐れていることは確かなようだ。

「命を無闇に奪うと、末は地獄でしょ? 殺すか殺さないか選べるなら、殺さない方が御樹君のためにもなると思う」

「あー、一応、分からなくはないけど」

 やけに物騒な話だが、結局は寝覚めの問題だ。御樹とて、カブトやクワガタに寵愛を向けながらもゴキブリを唾棄する、その一般的な感性に違和感を覚え、煩悶した夜もある。親子丼を食べたらどうでも良くなった程度の悩みだが。

 しかし、自室にゴキブリがいて、それが口や耳の中に入り込んで卵を産んでいくかもしれないという恐怖の中で眠るのと、ゴキブリ如きを殺してしまった罪悪感を抱いて眠るのと、そのどちらの方が快適かは自明の理。御樹1人なら迷わず殺している。

 彼は少し考え、やがて「出来るだけやってみるか」という極めて曖昧な答えを導き出した。「どうにか頑張ってね」とふんわりとしたエールを天音も送る。

「とりあえず、タオル貸してもらえる?」

「何に使うの?」

「熱湯に浸してからゴキブリに被せる。熱過ぎると死ぬけど、そこそこなら気絶ぐらいで済むらしいから」

 言いつつ廊下を進もうとする御樹を、天音がコートの裾を掴んで止めた。振り返ると、縋るような視線を御樹にぶつけてくる。

「え、駄目?」

「そんなことをすれば、もうそのタオルは一生使えないよ」

「それは、うん、そうだな……」

 生理的に無理、という感情もきっちり備えてはいるらしい。寧ろ、それだけ嫌悪していながらも憎悪していないのだと考えれば、美徳だと言えるかもしれない。皺寄せが行くのは御樹だが。

「なら雑巾だ。捨てることになったって、別に思い入れもないだろ?」

「私はないけど、お母さんは……ないか。そうだね、雑巾なら」

「よし、じゃあそれでいこう。どこにある?」

「キッチン。あ、熱湯って、台所で出せるくらいで大丈夫かな?」

「いや、一応沸かさないと駄目かな。あとは湯桶を……」

「分かった。取ってくるから先行ってて」

 ようやく方針が定まってきた。御樹は台所へ向かい、キッチンカウンターの棚を勝手に調べて雑巾を取り出すと、電気ポットの『沸かす』ボタンを押す。ついでに水を流し、軽く手を洗った。

「これでいいかな」と天音が持ってきたのは洗面器。「多分」と彼は曖昧に答えて受け取り、すっからかんのシンクに設置。

「1枚だけ?」

 洗面器に入れた雑巾を見て、天音が尋ねる。

「重量は問題じゃない筈だし、1枚で済むならそれでいいかと思って」

「それより、私の分。2枚は必要だよ」

 言いつつ、御樹の横から棚を引いてもう1枚確保。声と所作は明晰だが、表情はどこか角ばって頼りない。

「要るかな。手を煩わせるまでもないと思うけど」

「けれども、御樹君にだけ任せるのも良くない。大丈夫、私も戦うっ」

「足手まといになる自覚……」

 ピー、とポットが小さな音を上げる。「よしよしよし」と無意味に呟き、洗面器に湯を注ぐ。「熱過ぎるか?」と蛇口を引っ張り、冷水も追加で投入し始める。

「御樹君は気絶って言ってたけどさ」

「うん」

「それって、すぐなの?」

「さぁ。昔、漫画か何かで見ただけだから、詳しいことは知らないな」

「え、大丈夫? それ」

 湯を注ぐのを止め、笑顔を見せて御樹が言うには「……さぁ?」

 ここまで無責任と来れば、当然天音も不安になる。そんなことは百も承知だが、嘘

を貫くだけの自負もない。天音の引きつった笑みが痙攣していたものの、笑っているうちは大丈夫だろう、と思っておくしかない。

「しかし、どうかな。もう見つからないんじゃないか?」

「すぐドアも閉めたけど……隙間とかに逃げたり?」

「まぁ、温かくて狭いところ。身を隠せばそれきりな気もする」

「うーん」と天音は頬に手を当てる。「それもそれで怖いかな」

 御樹の予想では会敵の機会はない。一応の準備は整えるが、それは形ばかりのことだ。貧しい経験論ではあるものの、1度逃した個体と再遭遇する確率は低い。

 ずっと流していた冷水も止めて「あっつ」などと言いながら彼は雑巾を拾い上げる。天音もそれに続いて指先でつまみ上げ「これ、死ぬんじゃないかな」との感想。尤も、火傷しない程度ならば死には至らない筈だ。

「部屋って2階?」

「あ、うん。ついてきて」

 急な角度の階段を上り、廊下の突き当りを天音は指した。かけ看板も何もない、単なる茶色の扉だが、その先が彼女の部屋らしい。御樹が改めて先行し、彼女と目を合わせながらドアノブに手をかける。

「風の流れを読んで、扉を開けた途端に動き出すかもしれない。覚悟しておいた方がいい」

「覚悟は出来ないけど、努力はするよ」

 情けない言葉通り、苦笑の混じった自信なさげな表情だ。ゴキブリそのものよりも天音の反応に憂慮しながら、御樹はゆっくりと扉を開ける。

 しかし忠告に反して、他方予想通りに、部屋の中で動き出す物体は確認出来ない。御樹の後ろから天音が覗き込むも、悲鳴を上げることもない。

 扉の反対側、窓の下方にベッドがあり、かけ布団が敷かれたままになっている。ゴキブリと言えども、冬の弱さには参る。電化製品の傍らやダンボールの中以外に潜むとしたら、その布団の中だろうか。

 部屋は散らかった様子もなく整然としている。左方には全身鏡と洋服タンス、右方には背の低い本棚と勉強机、その上にノートパソコン。虫が住み着くにはさっぱりし過ぎているが、何せゴキブリだ。熱さえあれば選り好みもしないのだろう。

 とは言え、その姿が見えない。恐らくいなくなっている。備え付けのエアコンの中にでも移動したのかもしれないが、そうなれば遭遇することもない。

「いない? ベッドの下とかは?」

 と天音は言うが、床に頭を擦り付け、ゴキブリにガンを送る危険を冒すか、ベッドそのものをひっくり返すかでもしないと、確認は難しい。「いるかもしれないけど」と言わざるをえなかった。

「是非もなし。ゴキブリホイホイだ。家にあるか?」

「ないと思う。お母さんもあれは処理出来ないんだよ、きっと」

「じゃあ……部屋を温めないようにするのがいいだろう。そうすれば君の前には現れない」

「ごめん。それは無理な相談だと思ってほしい」

「だよな」

 手慰みに雑巾を引っ張りながら「そうなると」とまで言葉を続ける。そうなると、駆除業者に頼むのが一番いいんじゃないか? ということだ。

 あるいは、もう少し寒さが厳しくなれば、ゴキブリが姿を現す機会はまためっきり減る。そもそも、1月に出てくる方がおかしい。新築物件が如何に暖房設備に優れていようと、ゴキブリのピークは夏だと決まっているのだ。そういったことを正しく認識すれば、天音の恐怖も薄れるかもしれない。

「多分、駆除を頼む程ではないんだけどね」

 御樹の思考を読んだように言い、天音が肩を落とす。

「それでも、脅威が除けるのならば幸いだと思うよ、当然」

「なんか、珍しいな。そんなに虫が嫌いだっけ?」

 口を曲げて、彼女が首を傾げる。虫とゴキブリは違うだろう、という顔だ。

「いや、僕を馬鹿にするでもないのに、そこまで感情を見せることが意外だったんだよ。さっきから皮が剥げてる」

「え、そう? 口調とか変?」

「普通のそれに少し近い。僕の方が浮くから止めてほしいんだけど」

 言いつつ、彼は勝手に窓を開けた。冷え冷えとした風が一気に流れ込み、天音が身を震わせる。

「急にどうしたの?」

「一旦部屋を冷やしたら、暫くは出てこないかと思って。君は下にいて、そうだな、20分くらい経ったら……」

 と言いかけて、彼は口をつぐんだ。天音の後ろ、御樹から見て扉の右側に、いる。

 想定よりはかなり小さい。色もテカリブラックではなく、濃い茶色といった程度だ。然程不快感を煽る姿ではない。

 いつからいたのか知れないが、動き出す気配もない。触覚は健在なようだが、単に愚図なのかもしれなかった。

「御樹君?」

 不安げに天音が呼びかけ、次いで、その視線を追ってから御樹に飛びついた。人間程に大きな物体が動き回り、ドタドタと音を立てるが、それでも尚ゴキブリは微動だにしない。こういう時、御樹は特に非脊椎生物との断絶を実感する。

 左から天音に抱き絞められたまま、右手でつまんだ雑巾とゴキブリを見比べ、被せるのは無理か、と他人事のように思う。巨大で深遠な黒の脅威を想定していた分、なんだか拍子抜けしてしまったのだ。想い人の前ということも手伝って、彼は至って冷静なままだった。

「黒い悪魔の如きは人か……」

 ぼそぼそ言って1歩前に。死んでも離さないという具合に縋りついていた天音が、それだけで一気に離れた。

 呼吸を整えて左手を伸ばし、素手でゴキブリをつまむ。果たして、そいつは容易に指の間に挟まり、窓から投げ捨てられるまでピクリともせず、そのまま地面の下に落ちていった。

 黙って窓を閉める。折角だから右手で投げれば良かった、と今更思う。

「今、手掴みしたね、君」

 最前までの行動こそが偽りかのように、ベッドに座った天音が無感動に言った。持っていた雑巾は机の上に置いてある。

「意外な特技だね。そんな一面があるとは知らなんだ」

「僕も知らなかった。ずっとやってみたかったんだけど」

 その偉業を成し遂げた左手をコートのポケットに入れ、天音と向かい合う形で壁に背を預ける。達成感はろくすっぽない。

「やっぱり、思い込みで人間は冷静になれるんだな」

「私はそうはいかないけれどね」

 自嘲し、彼女は大仰に肩をすくめた。「ありがとう」と遅れて感謝を付け加え、いつものように微笑む。

「けれど、あいつは死んだかもしれない」

「あぁ、それについてなんだけど、少し調べてもらえるかな。スマホは?」

 雑巾を肩にかけ、右のポケットから取り出した。「種類とか?」と言いながら、先の個体の特徴を検索ワードに打ち込んでいく。

「いや、一回り大雑把でいいよ。家屋に潜むゴキブリの、その害虫たる由縁を確かめてくれれば事足りる」

「了解」

 言いつつ、『ゴキブリ 害虫』でアンド検索。僅かに眺めて下した結論は「気色悪い上に病原菌の媒介となるから。不快害虫・衛生害虫で少なくとも2属性だな。コードも切るらしい」

「それが道理だね」

 やれやれとかぶりを振る。単なる間違いで事を面倒にした癖に、貫禄に満ちた素振りだ。

「情けない。知識不足にも滅入るけれど、うん、衛生害虫か。こうも単純なことに気が付かないなんて」

「勘違いなんて、これまた珍しい。そこまで苦手なのか」

「画像が出てくることを思えば、好んで調べることもないでしょ? それで君に難題を押し付けた以上、弁解する気はないけれどさ」

 不快なだけでなく、実害があるのなら殺しても全然構わない、ということらしい。それもそれで利己的なようだが、やっとこさ普遍的な処理法に到着したのだから、ネチネチ指摘することもない。

「不浄を友とする虫に君が素手で触れてしまった。そういう認識をしたからこそ、衛生害虫としての性質に思い当たったんだよ。心配に免じて許してくれないかな」

「言わずもがな。ただ、事を重く見るなら駆除業者を頼んだ方がいいよ。夏に増えて出るから」

「それはお母さんと相談して……いや、止めよう。君を呼び出す口実になるからね」

 さらりと言いのけ「次も抱き着いてあげるよ」と余裕アピール。図太いことだ。

 後ろにいるよ、なんて言ってみる想定も御樹はするが、実行したとて所詮は哀れなコケ脅し。「よく言う」と苦笑してやるのが、彼の限界であった。

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