第三十六話 その血を分けてくれ
夜の街。外灯が淡い光を降らしている石畳の道を、ふらふらと徘徊している男がいる。一体どこに向かっているのか、彼自身にも分かっていない。
自分が取り戻せると信じて疑わなかったものが、無慈悲な魔女によって目の前で取り上げられ、粉々にされた。それだけでなく、もう彼は魔法使いでさえない。前までは感じられた自分の中に流れる魔力が、今はもう、どこにもその力の片鱗さえ感じる事が出来なかった。自分の中から、何か大切なものが失われてしまった気がする。名前を失ったあの時と同じ喪失感を、彼は感じていた。エリシャはもう、どうすればいいのか、自分がこの先どうやって生きていけばいいのかさえ、見えなくなってしまっていた。
そんな彼があてどもなくロンドンの街を彷徨いながら、ある店の前を通り過ぎる。CLOSEの札が下がった店内で、ふと、ガラスの割れる音がして目を向けた。焦点も合わぬ目で、ガラス張りになっている店内奥に見慣れた金髪が揺れるのを見かける。行き先の分からないエリシャは覚束ない足取りで店の裏手へと回ると、そこにある扉に手をかけた。鍵は壊されてかかっていなかった。
中へと入っていくと、店の中はワインの瓶が割れて水浸しになっていた。アルコールの匂いが充満し、むせ返る匂いに思わず鼻を覆う。その水たまりの中に、座りこんでいるギルバートを発見した。中身を煽っていたのか、彼の胸元はびしゃびしゃに濡れている。
「ギル、お前何して……」
その声に振り向いた彼の顔は、目が血走り、唇は乾燥してしわしわになっている。エリシャがいる事に気付くと、ギルバートは床を這って足に縋りついてきた。
「助けてくれ、エリシャ……! 喉が、喉が渇いて死にそうなんだ……!!」
干からびたようにひしゃげた声で、彼がそう懇願してくる。言っている間にも、カハカハと苦しそうな咳をして、彼は狂ったように喉を掻きむしった。
「あぁ、熱い……! 痛くて堪らない……! 頼む、頼むから……!」
そうして彼は充血した目でエリシャを見上げ、信じられない事を口にする。
「お前の血を分けてくれ……!」
エリシャは絶句して、ギルバートを見下ろした。
「お前、まさか悪魔の血を……」
彼はぎゅっと自分の唇を噛みしめると、苦しそうに顔を歪めた。
左手をぎゅっと握りこみ、果物ナイフを腕にそっと押し当てる。一度深呼吸して、エリシャは一息にナイフを引いた。身の裂ける熱に、ぎっと奥歯を噛んで耐える。
「おい、やめろ。腕を掴むな」
ギルバートのかじり付いてきそうな勢いに危険を感じ、そう言い放つ。彼を跪かせ、腕をその上にかざすと、肘から滴る血を彼に飲ませてやった。口を開けたまま、滴ってくる血をギルバートがじっと待ち受ける。彼の開けられた口内が、やがて真っ赤に染まっていった。ごくりと喉が鳴るたびに、口内に溜まった血液が彼の喉奥へと消えていく。
自分の血を飲まれている。エリシャはその嫌悪感に顔を歪めた。血を抜かれている事を除いても、気が遠くなるような心地がした。
しばらくそのままじっとして、ギルバートの喉が三度動いた頃、暗い店内にはひくついた声が響き始める。
「……やめろ。泣くな」
ギルバートが口を開けたまま、ぐずぐずと涙を流していた。エリシャはそんな彼を、顔を歪めたまま見下ろす。彼が、哀れで惨めな生き物に見えてならなかった。
「……もう、いいか?」
泣きながら、それでも彼は首を振る。必死になって腕を掴んでこようとするので、触るな、と言ってまた跪かせた。
「まったく、なんて夜なんだ……」
エリシャの深く、重い溜息が、暗い店内にことさら大きく響き渡った。
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