第三十七話 お味はいかが?

 ローズがイーサンに連れられアパートの四階に帰ってくると、味も分からぬ軽い食事を済ませ、その後は泣き疲れてぐっすり眠ってしまっていた。起きた時には、イーサンのベッドの上だった。ぼーっとしたまましばらくベッドで微睡んだ後、ローズはのそのそと起きだしてくる。床に揃えられた靴を履いていると、ベッド脇に父親が事故に合う直前まで持っていたという紙袋が置かれている事に気付いた。

 正直なところ、ローズはまだ父親がいなくなってしまったという実感を持てていなかった。先ほど見たショッキングな映像だって、どこかであれは父親ではないと思っていたし、それは一種の防衛本能であったのかもしれない。心の大半では、まだ父親は自分を迎えに来るものだと思っていた。そこに少しばかりの疑問を感じはしても、それを冷静に受け止められるほど、ローズはまだ大きくなかった。

 紙袋を覗くと、そこには赤い袋のプレゼントが入っていた。引きだして解いてみると、中から赤いリボンの付いたヤギのぬいぐるみが出てくる。


「サンタさん……!」


 ローズはぎゅうとぬいぐるみを抱きしめた。ローズが良い子にしていたから、少しだけ早くプレゼントをくれたのだろうか。それともパパは手紙を出すと言いながら、本当はわざわざサンタさんにプレゼントを貰いに行ってくれたのかもしれない。ローズはそう考え、でもそのせいでパパが迎えに来れなくなってしまったのなら、ぬいぐるみはいらないからパパを返してくださいとお願いできないだろうか、とも考えた。パパは、いつ迎えにきてくれるのだろうか? 

 そんな事を考えていると、紙袋の中にもう一つ、プレゼントが入っている事に気付いた。四角くて黒い小さな箱で、銀のリボンが付いている。好奇心のままにリボンを解いてみると、中にはシルバーの、ぽつんと小さな星型の宝石が嵌められたボタンが二つ、並んでいた。箱には他にも小さなメッセージカードが挟まっていて、そこにウィリアムの文字でこう書かれていた。


 イーサンへ

 メリークリスマス!

 いつもローズを見てくれて、ありがとう。

 素敵な聖夜を君に贈る。


 これはイーサンへのプレゼントだ。それが分かると、ローズはヤギの人形をベッドへと置き、黒い箱を持って部屋を出た。

 家の中を探すと、イーサンはすぐに見つかった。廊下に面した扉が小さく開いていて、こちらに背を向けて、リビングの椅子に座りこんでいる彼の姿が扉の隙間から見えたからだ。扉の所まで行って声をかけようとしたが、しかしローズはすぐにそうする事が出来なかった。

 イーサンが泣いているような気がしたからだ。腰を曲げて項垂れていて、顔を両手で覆っている。その背中を見ているだけで、パパが自分を迎えにくる事は二度とないのだという事実を突きつけられるような気がして、ローズはぎゅっと手に持った黒い箱を握り締めた。

 そうしてローズが迷っている間に、玄関扉の開く音がした。振り返ると、深紅の廊下の先にはマーリンがいた。


「先生」


 見上げると、イーサンがリビングに繋がる扉に手をかけていた。思わず彼の目を見つめたが、泣いていたような痕跡はローズには見つけられなかった。


「ウィルが、事故に合ったんだ。彼は、亡くなった……。今夜はローズをうちで預かるから」

「まぁ、それは大変だったわね」


 マーリンは大仰な身振りでそう言った。何故か彼女はローズのツノ付き帽子を手にしていて、ローズがじっとそれを見つめていると、気付いた彼女が帽子をローズの頭へと被せてきた。


「ちょっと借りていたわ。あなたに返すわね」

「先生、ギルとエリシャを知らないか? 二人とも、帰ってこないんだ」

「さぁ? 朝帰りなんていつもの事じゃない? 子どもじゃないんだから、用が済んだら戻ってくるわよ」

「……それもそうだね」


 ローズは被せられた帽子を脱ぐと、裏返しにした中に黒い箱のプレゼントを入れた。ローズが浮かない様子だったからだろう、マーリンが身を屈め、心配そうに顔を覗きこんでくる。


「ローズ、あなた元気がないわ。大丈夫?」

「……先生、今夜はローズの事はそっとしておいて、」

「そうだわ。私がとっておきのを用意してあげる」


 ちょっと待っててね、と言い、マーリンはこちらの言葉も聞かず、リビングの方へと行ってしまった。ローズは言われたとおりに階段に腰かけて彼女を待った。少しすると、コーヒーカップとソーサーを手にマーリンが戻ってくる。


「あなたのためにコーヒーを淹れたわよ」


 マーリンはちょこんとローズの前にしゃがみ込むと、カップを差しだした。


「とっておきの想い玉を入れてあるの。ぜひ、味の感想を聞かせて」


 彼女は膝に頬杖をついて、にっこり笑いながらローズの顔を覗きこんでいる。


「教えて頂戴。の、お味はいかが?」


 ローズはゆっくりとコーヒーカップを持ち上げた。黒い液体がゆらゆらと渦巻いて、リビングから漏れてくる光をわずかに反射している。唇をカップの縁に付けようとしたその時、間に大きな手が割り込んできた。

 ローズの手から弾き飛ばされたカップが壁に当たって砕け、コーヒーの染みが壁と床に広がっていく。一体、何が起こったのか? その衝撃と驚きにローズは動けなかった。ただ自分の間近にイーサンが立ち、静かにマーリンを見下ろしている。

 イーサンの表情は乏しかったが、その顔の内側に隠しきれないほどの情念が渦巻いているのが見て分かった。彼の茶と緑が入り混じった瞳の中の太陽が、マグマのように赤黒く煮えたぎっている。そんなふうに怒る人を、ローズは見た事がなかった。


「ローズ」


 彼の口から出たその低い声は、ローズを怯えさせるのに十分だった。


「あっちの部屋に行ってるんだ」

「……でも、」


 廊下が滅茶苦茶だ。カップもコーヒーも片付けないと……と視線で訴えるも、イーサンの声は変わらない。


「あっちに行ってろ」


 冷たい声に、ローズは階段から立ち上がると急いでリビングの方へと駆けていった。そしてイーサンが、リビングの扉を閉めてしまう。


「こわーい顔ね」


 マーリンは嬉しそうに言った。

 先ほどよりもさらに低く、イーサンは魔女に問いかける。


「ウィルに何した」

「あなた達があまりにグズだから、手伝ってあげたんじゃない」


 マーリンはすっくと立ち上がり、二階へと上がっていく。イーサンは口を引き結んだまま、相手の動きをじっと見つめていた。嫌悪を顕に、眉を寄せる。


「あの想い玉が君の欲しかった物なのか? その為に、一人の人間の命を奪い、ローズから父親を奪ったって言うのか?」

「私が心から望んでいるものが何なのか、あなたはよーく考える必要があるわよ、イーサン」


 一段一段、魔女はゆっくりと階段を上がっていく。


「答えを見つけられたら、私の持ってるものは全部あなたにあげるわ。不老不死の魔法も、母親との記憶も返してあげる」


 魔女の細い指が、軽やかに手すりの上で跳ねていく。ぴたりと足を止めたかと思えば、マーリンはその指で自分の唇をなぞってみせた。


「ギルとエリシャは、今夜は戻ってこないわ。もしあなたがこの課題の答えを間違えたら、」


 マーリンが上階の暗闇に消えてしまう寸前に、ちらりと青い光が瞬いて、その光はにこりと半月状に弧を描いた。


「次はあの子ね」


 そうして魔女は、二階の暗闇へと消えていった。


 イーサンがリビングの扉を開けると、ローズは机に突っ伏して小さくなっていた。扉の開く音がしたので、顔だけをイーサンの方へと向ける。その目は彼の顔色を入念にチェックしているようだった。


「コーヒー、さっきはごめんね。カップは後で僕が片付けるから。代わりにホットミルクを淹れてあげるよ」

「……イーサン?」


 呼びかけても、彼は返事をしなかった。黙ってキッチンへと向かい、鍋にミルクを入れて温め始める。無地の白いカップを取り出して、そこに温めたミルクを注ぎ、そっとローズの方へと差しだしてくる。


「さぁ、これを飲んで。もう夜も遅い」

「……イーサン、今日はいっしょにねてくれない?」

「僕はもう少し起きてるよ。ほら、飲んで。温まるよ」

「……イヤよ」


 ローズは差しだされたカップを押し戻す。


「おきた時にそばにいてくれなきゃ、ぜったいにイヤ。やくそくしてくれないなら、のまないわ」


 なんとなく、嫌な予感がした。さっきまであんなに悲しそうで、あんなに怒っていたのに、今のイーサンは嘘つきの顔で笑っている。それがローズには奇妙に思えて仕方がなかった。

 頑なにホットミルクを受け取ろうとしないローズを見つめ続け、そうしてようやく、彼が静かに言葉を発する。


「……分かった。約束するよ」


 その返事に満足して、ローズはようやくカップを受け取った。フーフーと息を吹きかけ、一口飲む。


「飲んだら寝なさい」

「さっきねたから、きっとねむれないわ」

「大丈夫だよ」


 言いながら、イーサンは使った鍋を片付けていく。


「飲んだら眠れる」


 彼の手の中に握りこんだ小瓶が鍋に触れ、キン、と微かな音が鳴った。

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