第三十三話 醜い人
ギルバートは床に置かれた皿を拾いあげる。ドロドロとした流動食がいくらも手の付けられていない状態で残っていて、はぁと彼は溜息をついた。
「姉さん、もっとちゃんと食べないと」
足下に寝そべる姉は、拗ねた犬のようにそっぽを向いて、ギルバートの呼びかけにも何の反応も示さない。彼女の纏った布の下からは浮いたあばらが見え、彼はまた、深い溜息を零す。こんな骨と皮だけになってしまって、もっと栄養を取らせないと……。
そんな事を考えていると、ふいに、ぎぃと部屋の扉が開く音がした。姉のいるここは入り口から死角になっているので、誰が開けたのかは分からない。ギルバートは首を傾げ、食べ残しの皿をデスクへと置くと扉の方へと向かった。
やはり、扉は開いていた。外を覗いてみるが、廊下には誰もいない。しっかりと閉めていなかったのだろうか? 首を捻り、ギルバートは扉を閉じると、また元の場所へと戻っていった。姉の傍には、マーリンが立っていた。
「びっくりした……。先生だったのか、脅かさないでくれ」
マーリンは両手をお腹にしてしゃがみ込んでいる。今日はゆったりとしたワンピースを着ていて、ふわりと広がった生地が彼女の足先までを覆い隠していた。
「随分と痩せたのね」
彼女は姉を見下ろし言う。
「……あまり食べてくれなくてね。今度からはもうちょっと栄養剤を増やそうと思ってるよ」
最近は足腰も弱ってしまって、と彼はまた溜息をつく。デスクからノートを引っ張りだしてきて、続きに今日の食事の内容と姉の食欲についてのメモ書きを追加した。その日の姉の体調に合わせ、毎日の食事に加える栄養剤のメモがどのページにもいっぱいに羅列されている。発汗作用がある物は姉さんには刺激が強すぎるから、何か他に、もっと滋養強壮に効果のある物を……。
パンッ――
「ガッ……!!」
乾いた音が部屋に響いた。ギルバートが振り返ると、立ち上がったマーリンが黒い塊を握りしめ、それを真っすぐ姉の方へと向けていた。
続けざまに四発。鉛玉が、蹲って動かない姉の体に打ち込まれる。
ギルバートは声にならない叫び声を上げ、姉の下に駆け寄った。その体には無数の穴が空いて、見ている間にも、床を一面赤く染めあげていく。
「そんな、なんで!? 姉さん! うわあぁぁ……!!」
マーリンはカチカチと空打ちを繰り返し、もう弾が残っていない事を確認すると、ぽいとそれを投げ捨てた。
「人間の武器ってやかましいわね」
ギルバートは必死に傷口を抑えつけたが、すでに姉は息絶えていた。それでも他にどうすればいいかも分からず、半狂乱になって、姉さん! 姉さん!と呼びかけ続ける。マーリンは二人に背を向けデスクへと向かうと、呆れたようにギルバートに声をかけた。
「もう死んでるわよ」
「どうしてこんな、先生!? 姉さん……! 姉さん――!!」
デスクを離れて歩み寄ってきたマーリンの手が、そっと彼の背に添えられる。
「あのね、姉さんをこんな化け物にしたの、本当は私なの」
耳元で囁かれた言葉に、ぴたりとギルバートは動きを止める。
「ウェンディゴの血にね、色々混ぜてみたのよ。ヒキガエルとか、コウモリの肝とか。いい呪いの妙薬になったわよね。それを塗った果実を食べさせたら、この子はこうなったのよ」
にっこり笑って、魔女は言う。
「姉さんを化け物にした魔法使い、本当は私なの」
ギルバートは呆けた顔で魔女を見上げ、ぱくぱくと口を動かす。
「そんな……姉さんを襲ったのは、男の魔法使いだったって……」
「たまには男もいいかと思ったんだけど、あんまり気に入らなくて。新しい体が欲しかったのよね」
邪悪な魔女は眉を下げ、悲しそうな顔をする。
「でも結構、抵抗されてね。その子、私の体に傷を付けたのよ。せっかく綺麗に使ってたのに、やんなっちゃう」
「……ボクをずっと、騙してたのか?」
「騙してたのはあなたもじゃない?」
ぽんぽん、と魔女は肩を叩いた。
「姉さんを助けたいなんて嘘。本当は自分の方が美しくなれた事に優越感を抱いていたんでしょう?」
「……何を、言って、」
「褒められるのも、可愛がられるのも、いつも姉さんばっかり。完璧なのは姉さん。弟の方は、耳がね。ずっとそう言われて、本当は姉さんの事が妬ましかったんでしょう?」
「そんな事、ない……! 姉さんは、ずっとボクの味方で、」
「同時に、姉さんがいなくなっちゃうのも嫌だったのよね? だって自分が一番綺麗だって言ってくれるのも、姉さんだけだもの。完璧な姉さんだったから、彼女に認められるのが気持ち良かったんでしょう?」
「違う! 違う……! ボクは……!」
「でも本当は、もうずっとやめたいと思ってたのよね。こんな醜い生き物の世話なんて。こんな醜い生き物が自分の片割れだなんて、耐え難かったんでしょう?」
「ボ、ボクは……!」
「あなたは故郷のエルフ達を馬鹿にしているけれど、あなたもどこまでもエルフらしい男よ。美しいものが好きで、醜いものが許せない。傲慢で、利己的な、美しいけだものだわ」
「もう、やめてくれ……!」
「心根も美しいと思ってもらいたかったんでしょう? だから甲斐甲斐しく世話をしたのよね? それはね、ギル。善意ではないわ」
「……ボクは、頑張ったじゃないか! なんでそんな事言うんだよ……! ……頑張ったんだ。……頑張ったのに!」
魔女は冷たい目でギルバートを見下ろした。
「じゃあ、なんで姉さんの言葉を無視したの?」
ギルバートははっとして、言葉に詰まる。私を見捨てないで、そう言って縋ってくる姉の姿が脳裏によぎった。
姉に頼りにされるのが嬉しかった。唯一無二の完璧な姉に、必要とされている。いつも手を差し伸べるのは自分の方だった。置いていかれないよう、必死に、姉の後ろを追いかけた。
でも、だから姉が縋ってきたその時、どこか恍惚とした表情で、姉を見下ろしている自分がいた。
……ボクは本当に、頑張ったのか?
「姉さんは気づいていたんじゃないかしら? あなたの心に。あなたの裏切りに。だってあなたの片割れだもの。だから諦めてしまったんじゃないの? 姉さんが痩せ細っていったのは、いつからだった?」
「そんな、違う……」
「私が銃を向けても、助けの一つも呼ばなかったわ。あなたの事も、呼ばなかったわ」
ギルバートはぶるぶると震えだす。そんな筈は……、ボクは本当に……、とうわ言のように繰り返す。そんな彼を、魔女が静かに見下ろしている。
ギルバートはぶるぶると肩を震わせた。
「……なんだよ。もとはと言えば、あんたが――!!?」
勢いよく振り返ったギルバートが見た先に、黒赤の瞳があった。
ぎしり、と体が軋んで動かなくなる。なんで、と唇が音もなく言葉をなぞった。
「その目、なんで……? エリシャは、どうしたんだ?」
魔女は黒赤の瞳でにっこり笑うと、自分の手の中に握りこんだ物を開いて見せた。
持っていたのは、悪魔の血の入った注射器だった。
「面白い物を手に入れたのね。この血を一滴でも体内に取り込めば人血を飲む化け物に変わる、だったかしら? これも呪いの妙薬だわ」
「……先生?」
マーリンは目を逸らさない。ギルバートはただ、彼女の手がゆっくりと自分に伸ばされてくるのを見守っている事しか出来なかった。
「あなた達って本当にそっくりね」
「……!? ……先生!? 先生、やめてくれ……!!」
するりと滑らかな指がギルバートの首筋を撫であげる。彼は歯をガタガタと震わせて、涙ながらに懇願した。
「先生、やめて! やめてくれ……!! マーリン!!!」
「……あなたには本当に失望したわ」
「お願いだ! やめてくれ……! 誰か、助けて……!! やめ、」
ぷつり、と針が刺さる。中身が流れでて、血管を伝っていくそこから、熱が、痛みが広がっていく。
「ギル、あなたって本当に醜いわね」
目の前が真っ赤に染まって、彼は叫び声を上げた。
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