第三十二話 ねぇ、どんな気持ち?

 イーサンとローズを家から追い出し、未だ怒り収まらぬ様子でエリシャは自室へと戻っていく。今一度見渡しても、部屋の惨状は酷いものだった。戻って早々、いの一番に部屋の床に転がる人骨を拾い集めていく。骨の一欠片を摘まむ度に、怒りと悲しみがとめどなく胸に押し寄せてきた。

 そうして欠片を全て拾い終わると、空の木箱を用意してそれらを大切にしまう。割れて粉々になってしまった魔法薬の調合については、最近の忙しさにかまけて正確なメモをまだ取っていなかった。ようやく研究の終わりが見えてきた頃だというのに……、と頭を抱えて蹲る。

 しかしふと、エリシャは顔を上げた。視線の先にあるのは柱時計だ。そうだ、俺にはこれがあるではないか。

 素早く引き出しからぜんまい鍵を取り出して、柱時計へと向かう。これで巻き戻して研究内容を省みれば、薬は元通りにならずとも配合は見直せるじゃないか。俺が今までやってきた事はやはり無駄ではなかった! 逸る気持ちを抑え、エリシャはぜんまい鍵を時計に差しこむと、ぐるりと回した。

 目まぐるしい勢いで部屋の中の光景が巻き戻っていく。目にも止まらぬ速さでデスクの上の惨状が元に戻り、そこでぴたりと時間を止めた。そうしてゆっくりと、また時が動きだしていく。

 エリシャが時計の文字盤を見ると、針は早朝の三時五分にあたる位置を指していた。昨夜は皆それぞれに予定があって、家は無人状態だった筈だ。その通り、少なくともこの時間にはまだ部屋は無傷だった。やはりあの子どもがやったのだ、とエリシャはぎりと奥歯を噛む。

 時計の針が三時十五分をまわった。すると、部屋の扉を開く影があった。エリシャはその影を、黙って見つめる。

 金髪の少女が、ずるずると一脚の椅子を引きずってきた。部屋の中央にその椅子を置き、少女はちょこんとその上に体育座りをする。そのままじっとして、しばらく無音の時間が続いた。

 そしておもむろに立ちあがったかと思うと、椅子を高々と頭上に持ち上げ、デスクに向かって、一気に振り下ろした。椅子はデスクの上にあった薬品類を粉々にし、砕けたビーカーが床の上へと散らばっていく。続いて少女は棚へと近付くと、手に届く範囲の全ての物を床に投げ落とし始めた。丁重に飾られていた人骨の手も、両手で掲げ、床へと叩きつける。

 かち、かち、と柱時計の秒針が音を刻んでいる。少女が来た時と同じように椅子を引きずって部屋を出ていく頃にはもう、その部屋には誰もいなかった。


 階段を上がっていく荒々しい靴音。次いで聞こえるのは扉を叩きつける破壊音だ。カウチに座って休んでいたマーリンを胸倉掴んで引き立たせ、エリシャはその魔女を睨み下ろした。


「何しやがる、このアバズレ」


 胸倉を掴まれたまま、マーリンはただ笑っていた。そうしてふいにエリシャの首に腕を回したかと思うと、その唇に口付けてきた。ぬるりと舌で咥内をなぞられ、驚きにエリシャはマーリンを突き飛ばす。カウチに倒れ込んだ少女を蔑みの目で見下ろすと、彼は自分の口を強く拭った。


「イカレてる……」


 マーリンは俯いたままじっとしていたが、しばらくするとしょんぼりとした声で言った。


「がっかりだわ」


 彼女はカウチから立ち上がり、エリシャと向かいあった。


「必死なあなたを見ているのはとても面白かったわよ。努力家で、頭も良くて、他人を支配する術をよく心得ている。ベッドの中ではまったくの役立たずだったけれど、でもそれも可愛かったわ。どこまでも痛々しくてね」


 初めの頃は随分と苦労したわよね?と、彼女の口元が可笑しそうに弧を描く。


「ギルやイーサンが来てくれて良かったわね。もっとあなたはあの子達に感謝してあげた方がいいわ。あなたの代わり、たくさんしてもらったでしょう? 私の相手の話だけじゃないわよ。あなたってば、本当に選り好みするんだから」


 しょうがない子よね、と魔女は顎に手を当てて大仰に嘆いてみせた。


「やっぱり、男の方が手触りが似ていたのかしら? "彼"の毛並みでも撫でてるつもりだった?」

「貴様――!」


 エリシャはマーリンに掴みかかろうと手を伸ばし、しかしその動きを止めた。睨んだ先のマーリンの瞳の色を見て、驚愕する。

 その色は血のような黒赤の瞳だった。

 はっとして自分の唇へと手を伸ばす。マーリンの目を見つめたまま、エリシャはその場を一歩も動けなかった。


「……俺から、何を奪った?」


 ひやりとしたものが背を伝い落ちていく。まさか、そんな、ありえない。あれは俺の目だ。では、俺の魔力は……?

 ばくばくと心臓が鳴り響いている。マーリンはにっこりと笑い、エリシャの傍へと歩み寄ってきた。身動きの取れない彼の頬を、そっと細くしなやかな指で撫であげる。


「死人を生き返らせる魔法なんかないのよ。おバカさん」


 魔女は軽々と、そう言った。


「ご苦労な事ね、あなたは何年も何年も、不毛で意味のない研究を続けてきたの。叶う望みなんて初めからないというのに」


 あまりの事に、エリシャはすぐに口を開けなかった。


「生き返らせてどうするつもりだったの? 助けてやったお礼に恩返しでもしてもらうつもりだったのかしら。あなたのお好きな方法でね。そんな歪んだ欲望を、受け入れて貰えるとでも思ってた? あなたの本心を、ただの友の顔をして、ずっと騙していたくせに」


 魔女の放った言葉を、脳が遅れてその意味を理解していく。

 生き返らせる方法がない? そんな馬鹿な。だってお前が……。あれは、嘘だったのか……?


「彼はあなたの事を友人としか思ってなかったわよ」


 俺はただあいつとの未来を夢見て……。それが全部、不毛な事? 意味のない、無駄な……。じゃあエリシャは、どうやったら救いだせるんだ? あの暗くて冷たい、岩の下から。あいつは、まだあそこに……。


「彼は本当に親切だったのね。それで哀れな男を一人、勘違いさせるくらい。私が思うに、」

「黙れ」


 脳が、考えるよりも先に口を開く。


「お前の推測なんか聞く気もない。必要もない」


 この女が放つ言葉は毒だ。邪悪な魔女の言葉に、呑まれてはならない。

 しかし、そんな意志に反して体は動かなかった。そのために、耳を塞ぐことも出来ない。


「他の男と時、何を考えてたか言ってみなさいよ」


 目を逸らしたいのに、それも出来ない。真っすぐに、鋭利なナイフのような視線がこちらに向けられている。


「どいつもこいつも、"彼"の代わりだったんでしょ? 傷ものにして、自分のものだって証を付けて、それでも自分の元から離れない彼らを見て悦に入っていたんでしょ? "彼"にナニをしたかったの? 言えるもんなら、言ってみなさいよ」


 顔には脂汗が浮き、唇は震える。もう意味のある言葉も出てこなかった。



 エリシャの顔面は蒼白になっていた。

 それを見て、マーリンは優しく、ふわりと笑う。


「ねぇ、エリシャ」


 教えてちょうだい、と魔女が囁きかけてくる。細く小さな少女の手が、優しく優しく、エリシャの頬を包みこんでいく。動けない彼の胸に、ゆっくり、ゆっくりと、ナイフの切っ先を埋めこんでいった。


「今 どんな気持ち?」

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