第十六話 特別な女の子

 今日はイーサンがベビーシッターの日だ。リビングで本を読み終えた彼が書斎に向かったので、ローズもその後についていく。どうやらまた新しい本を読むつもりのようで、そんなに本ばかり読んで頭がこんがらがらないのかとローズは心配した。

 壁と天井が本で埋まった書斎は、カラフルな背表紙を一律こちらへ向け整列している。自分の身長よりも高い位置にある棚だって、イーサンは容易に手が届く。本を持った右手をちょっと上に掲げればいいだけだ。そうすれば、彼の手から独りでに本が離れて宙に浮き、そして影のイーサンが本の影を抱えてするすると壁を這って上っていくと、実体の本をすとんと棚の隙間に収めてくれるのだ。そうして影のイーサンが本来あるべき場所に戻ってくると、彼は天井を見上げて次に読む本の目星を付け始めた。


「イーサン、前はお外でなにしてたの?」


 ローズは傍らに立ち、聞いてみる。彼は天井を見上げたまま淡々と言った。


「デートしてたよ」

「カノジョがいるの!?」


 ローズが驚きの声を上げると、イーサンは少しだけ首を傾げて続ける。


「うーん、こないだの子は違うかな」

「そうじゃない子もいるの!?」


 ローズの声に、彼は可笑しそうに笑った。


「そうかもね」


 次の目星を見つけたイーサンは、手近にあった棚の本を少しばかり引き抜いて、足を踏み出す。すると、彼の足が床につく前に何か硬い物を踏みしめた。イーサンの体がぐいと持ち上がり、そのまま宙に浮く。影のイーサンが棚の上を滑っていき何冊かの本を引き抜いていくと、そこに影の階段が出来あがった。その上をひょいひょいと、実体の彼が飛び乗っていく。


「カノジョがいるって、どうしておしえてくれなかったの?」


 棚の高い所に浮かんだイーサンはちらりとローズを見下ろすと、手にした本に視線を移し、からかうような口調で言った。


「君がやきもち焼くんじゃないかと思って」

「まさか!」


 彼は肩を震わせて笑っている。ローズはそんな男を恨めしげに見上げた。


「イーサンってヒミツばっかりね」

「秘密が多いと魅力的に見えるだろう?」

「どうかしら」


 ローズはふんと顔を背ける。そして途端にもやもやとした霧が頭の中に広がっていった。

 自分は外の世界について何も知らない。パパが仕事から帰ってくるまでこの家にいて、イーサン達が外にいる間に何をしているのかも分からない。この家の魔法使い達は不思議なものをいくつも見せてくれるが、自分達の秘密や本性については、何も教えてくれないのだ。


「……わたしのしらないこと、たくさん、あるのね」


 ローズが子どもだから、見せる必要がないと思っている。それだけが分かってしまうので、一層悲しかった。本当はもっと、この家の人達の事を知って、仲良くなりたいのに。

 イーサンが影の階段を下りて戻ってくる。最後の一歩を下りきると、引き抜かれていた本が一斉に元通りに棚へと収まった。


「僕が魔法使いだと知ってる女の子は、君だけだ」


 ローズははっとして顔を上げる。いつものように、人の好さそうな笑顔を浮かべた黒い男がそこに立っていた。


「だから君は、僕にとって特別な女の子だ。それじゃあご不満かな?」


 ローズはぶんぶんと首を横に振った。次いで、顔いっぱいににっこりと笑う。イーサンも笑顔でそれに応えると、ふいに何か思いついた様子で声を上げた。


「あ、そうだ。君にプレゼントがあるんだ」

「プレゼント!?」


 途端、ローズの目がきらきらと輝きだす。イーサンはローズを連れ、深紅の廊下に並ぶ自分の部屋へと向かった。

 イーサンの部屋には物が溢れていた。でもごちゃごちゃしたふうではなく、どれも綺麗に整理整頓されている。


「棚の物に勝手に触っちゃダメだよ。ちょっと待ってて」


 入り口すぐの壁にはコーヒーカップとソーサーがセットになって並んでいる。様々な色や形の物があるが、どれも精巧で美しい品々だ。赤、青、緑、金に銀。花や昆虫、獅子や鹿の絵柄、そして無地の物。最初にローズにコーヒーを入れてくれた、あの青と白に色分けされたカップもあった。反対の壁にはガラスのキャビネットが置かれていて、中にはこれまた色とりどりの香水瓶が宝石のように並んでいる。中身はなんなのだろう。そういえば、イーサンは煙草を吸うと言っていた。その割にはいつも良い匂いがするので、香水でも付けているのかもしれない。


「あぁ、あったあった。これだ」


 イーサンは書き物机の隣にある細長い本棚から、一冊を取り出してきた。それをローズの方へと差しだす。本には何やらタイトルと、男の子と女の子が手を繋いでいる絵が描かれていた。中を開くと、英語と記号のような文字がセットになって書かれており、その下にはまた表紙と同じような簡素な絵も付いている。


「これって……」

「約束していた本だよ。ただし、家から持ち出すのは禁止だ。読むのはこの家にいる間だけにすること。英語も一緒に書いてあるから、そっちの勉強にもいいだろう」


 ローズは大喜びした。これであの素敵な言葉を自分も話せるようになるのだと思うと、嬉しくて堪らなかった。

 ローズはイーサンに礼を言うと、床に丸くなって早速本を読み始める。普段は勉強嫌いのローズだったが、今回のやる気は凄まじかった。英語も含めて分からない単語があればすぐさまイーサンに質問し、魔法使いの言葉も何度も彼に発音させた。家の中を歩き回っては事あるごとに物を指さし、覚えたばかりの言葉を執拗に繰り返した。持ち運べる物はなんでもイーサンの下へと持っていき、正しく覚えられているか、発音が正しいかを確認させた。子ども向けの本一冊などあっという間に読み終わり、イーサンが読んでいる本の中身を覗いては、あれは何これは何、とまた質問責めにする。本の内容に飽きると、今度はローズが思いつく限りの英語の言葉を羅列して、魔法使いの言葉ではなんと言うのかの質問が始まる。どれだけあしらわれてもローズはめげる事なく、貪欲に知識を吸収していった。

 イーサンは分かっていなかったのだ。この本を与える事で、自分の読書時間が大幅に削られる羽目になるということに。

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