第十七話 天使の遊び

 その店のバーカウンターには、幾本もの酒が並んでいた。ウィスキー、ジン、ウォッカにテキーラ。マスターが軽やかにシェイカーを振り、何人かの男達が酒と密約を交わしあっている。

 そこから外れ、店の一角に紗幕の下りた席がある。そこには特別な客だけが座ることができ、今その席に座っている女も、そんな特別な客のうちの一人だった。くの字型の赤いソファに腰かけて、マティーニのグラスを傾けている。歳は四十を過ぎているが、きりりとした佇まいと、胸元の開いたドレスを堂々と着こなす姿には衰えぬ色香を感じさせた。

 この席は彼女のお気に入りだ。ここで週に一度、一人で酒を飲む。不躾な男たちにとっておきの夜を邪魔されないで済む、彼女のちょっとした隠れ家になっていた。たまに若いのが興味半分に声をかけてくる時には構ってやらなくもないが、皺くちゃのジイさんの顔を見ながら飲む酒なんてまっぴらごめんだった。今夜は楽しく一緒に酒を飲めそうな男はいないから、いっそ一人で静かに酒香を楽しんでいたい。

 そう思っていたのだが、ふと視線を感じて女は紗幕の方へと目を向けた。見れば、金髪の少年が垂れ下がった赤い布からひょこりと顔を覗かせているではないか。


「あら、子どもがこんな時間にこんな所にいるなんて、悪い子ね。早く両親のところに戻りなさいな」


 随分と可愛らしい顔の子どもだった。女の子だろうか?


「ボク、一人で遊びにきたんだ」


 どうやら男の子だったようだ。子どもがこんな路地に一人で入ってきたのだろうか? まったく、最近の親はどうなっているのか。自分に子どもがいない事をいいことに、計り知りようもない悪態を胸中で呟く。

 女はグラスをテーブルへと置いた。


「坊や一人? なら子どもは早く家に帰りなさい。ここはお酒を楽しむ場所よ」


 しかし少年はすとん、とソファへと腰を下ろしてくる。間近で見ると、本当に綺麗な子だった。歳はまだ十四、五といったところだろうか。先ほどは気付かなかったが、近くで見れば確かに骨格は少年のもので、ようやく最近になって性差が現われてきたかという頃合いだ。ふわふわと巻かれた金髪、青い瞳、服からむき出しの白い手足。今まさに天使がこの場に舞い降りたのだと言われても、納得してしまうような容姿だった。

 深夜のバーに舞い降りた天使は、純真無垢な笑顔をその顔に浮かべる。


「まだ帰らなくってもいいんだ。お姉さん、ボクと遊んでくれない?」

「……あなた、いつもこんな時間に外をほっつき歩いているの?」

「たまにね」


 こんな綺麗な子がこんな時間に遊びまわって、まして今まで危険な目に合わずに済んできたなんて、とてもじゃないが想像できない。女は目つきを鋭くすると、カクテルグラスの雫で遊んでいる少年からグラスを遠ざけ、つっぱねるように言った。


「あなた、身売りしてるの?」

「お姉さんはボクに身売りしててほしいの?」


 思わぬ返事に、女はぐっと息を飲む。


「バカをおっしゃい!」


 少年はころころと、羽が舞い飛ぶように笑った。


「あはは、ボクは体は売ってないよ。でも楽しい事に興味があるんだ。ボク、お姉さんが楽しいと思う事がしたいな」


 金髪の少年、ギルバートはすっと女の懐へと潜り込むと、にこっと笑って女を見上げた。


「試してみたい遊びがあるんだ。お姉さん、ボクに付き合ってくれない?」

「……何をして遊ぶの?」

「お姉さんが決めていいよ」


 何がいい?とギルバートは顔を寄せて女に囁く。彼の細い肩から、ほろほろと金の毛束が落ちていく。少年の姿をした天使の目には、期待と情欲の色が入り混じっていた。女はどう答えたものか迷った。こんなのは品位に欠けている。一端の大人が興じていいような遊びではない。でも、……でも?


「ボク、お姉さんの言うとおりにするよ」


 こてんと首を横に垂れると、横髪の一束が頬にかかってなんと魅惑的な表情になることか。この子が本当に少年とは信じがたかった。もしかしたら本当に、気まぐれに地上に遊びにきた天使なのかもしれない。

 だとしたら、


「どこまでなら、許してくれる?」


 だとしたら、この提案を断るのは、あまりに惜しい。

 女は口を開けなかった。今開けば、自分がどんな愚かしい提案を口にするか分からなかった。でももうすでに、断る選択肢も頭の中には、ない。

 女が少年を見つめたまま動けないでいると、彼は席から立ち上がり、女の膝の上に馬乗りになった。天使の小さな両翼が、女の両頬を包みこむ。


「言えないことまで、かな」


 ふくりと色づく唇に目が吸い寄せられ、思わずごくりと喉が鳴った。清涼な水面のような瞳が、女を誘って離さない。禁忌の泉が一度弧を描いて細められ、ゆっくりと、波を揺らして近づいてくる。そしてその水面に、とぷん、と浸かった。小さく柔らかな舌先が、水遊びをする子どものような動きをする。かと思えば合間には、泉の魔物に手を引かれ、水中に引きずりこまれそうにもなった。少年の顔が離れ、青い瞳がじっとこちらを見つめてくる。その泉の底は、ここからでは窺い知れない。

 天使は小首を傾げてくすりと笑い、女の髪をくるくると指に巻きつけて言った。


「言ってみて? 何がしたい? ボク、お姉さんの言うとおりにするよ?」


 そのまばゆい天使の誘惑に、抗う術は、もうなかった。

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