第十五話 痛みの悦楽

「エリシャって、いい名前だよな」


 言いながら、男は手近にあった革の品に手を伸ばす。つやりと黒光る美しい品で、手に馴染んで感触も良い。その一品を矯めつ眇めつ眺めていると、聞く人によっては分かるほどの変化で、わずかに上機嫌な彼の声が返ってくる。


「この名前を褒められたのは初めてだ」


 男は傍らに立った声の主、銀髪の男を見上げた。美しい青年が、涼しく怜悧な瞳で見下ろしてくる。わずかに片方の口角が上がっているのを見てとって、男は相手のご機嫌を取ろうとさらに言葉を連ねた。


「名は体をあらわすって言うだろ? 知的でミステリアスな君に、よく似合ってる」

「それは賛同しかねるな」

「なんだ、褒めてるんだぞ?」

「それ」


 エリシャは男の言葉を制し、ついと剥きだしの背中を撫ぜてきた。思わず、息が止まる。そのまま彼が背中に覆い被さってきて、シルクのような肌触りの彼の髪が背中を流れていった。こそばゆさと、その奥にある快感を無意識に追ってしまう。ごくりと喉が鳴った。

 普段は発しないような甘い声で、彼が危険な取引を持ちかけてくる。


「使ってやろうか?」


 骨ばった細長い指が、男の握った手の中の物を指さす。彼は冷たい男のようでいて、その実触れている体は驚くほど熱かった。エリシャが首を傾げると、背中に触れた毛束も動く。彼はわざとやっているのだろう。でなければ、こんなに嬉しそうな声は出さない。


「こういうプレイは気に入ったか? なかなか良かっただろう。ゆっくり慣らしたつもりだが、どうだった?」

「……うぅん、そうだな、良かった、よ」


 感じているとは悟られたくなくて、わざと言い淀んだふうにして言う。本当は声が震えないよう必死だった。大した刺激ではないはずなのに、こんなに血が滾るのはきっと、この先を期待してしまっているからだ。

 背後からのエリシャの声は、上機嫌に続く。


「他にも色々ある。君に興味があれば、それも試そうか」

「……危険はないのか?」


 エリシャの頭がゆっくりと下がり、男の耳元で止まった。


「もちろん、あるとも。だからこそ他では得られない快感になる」


 くせになるぞ、と言われ、男はまた、ごくりと喉を鳴らす。これは踏み越えてもいい線か、それとも駄目な線か、判断しかねる。緊張に呼吸が浅くなるのを、彼が目ざとく見ていた。


「怖いのか?」

「……少しな」

「痛みに支配される事はない。お前が支配されるのは俺だ。俺の支配下に入るという事は、俺の庇護下に入るという事だ。俺に全てを委ねてみろ。そうすれば恐怖の先に、充足も感じるはずだ。自分の何もかもを他者に委ねられるというのは、とても満たされて、気持ちの良い行為だぞ」


 背後を振り返れば、血の色の視線が注がれている。その色の魔力に、身動き一つ取れなかった。この男はただの恐ろしい人間の男だとも思うのに、同時に、何か崇高な生き物であるようにも感じられた。こんな危険な提案を了承するなんて、きっと、引き返すなら今だ。ただの火遊びだったで終わりにすれば、この先の地獄は知らずに済む。――……同時に、この先の天国も、一生分からない。

 その一瞬の逡巡を、衝かれた。


「もっと酷くしてほしいか?」

「…………あぁ」


 気づいた時には、そう答えていた。


「では、貸しなさい」


 男は自分の手の中にあった鞭を、エリシャへと手渡す。目隠しをされ、後ろ手に腕を縛られ、床に座らされた。毛の短い絨毯が脛を撫でて、ただそれだけの感覚に昂りを覚えてしまう。


「消えない跡を付けてやろう」


 いつくるか分からない衝撃に、男は身を硬くする。緊張に、だんだんと息も上がった。暗闇の中で、視線が右へ左へ動く。背中の感覚が研ぎ澄まされて、毛穴が全て逆立った。

 その時、かちり、と耳元で音がする。


「何を、」

「力を抜け」


 耳元にあった男の気配が、ふっと後ろへと消える。次の瞬間に風を切る音がして、男は嬌声を上げた。

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