第443話 無名の人々

夜のスタジオに漂う静けさの中、ダイラはキャンバスを見つめ、栗瑛人はその横でコーヒーをすすっていた。二人の間に広がる無言は、ただの沈黙ではなかった。話題は目立たない人々、いわゆる「無名の人々」の話だった。


「ダイラ先輩、僕たちの周りには、本当にたくさんの“無名”な人がいると思いませんか?」

栗瑛人が突然つぶやいた。


「たとえば?」

ダイラが筆を止め、興味深げに振り向いた。


「昔お世話になった学校の先生とか、会社で毎日遅くまで働いてた上司とか…覚えてるようで、名前も顔もぼんやりしてきてる。そういう人たちって、僕たちの人生に確かに影響を与えてるのに、ほとんど誰も記憶に留めないんですよね。」


ダイラはゆっくりと頷いた。「それに似た話、前に読んだことがあるよ。電球が普及するきっかけを作ったのは、エジソンじゃなくて、その前に実験を繰り返した無数の無名の研究者たちだった。けれど、彼らの名前は教科書にも残らない。」


栗瑛人が笑みを浮かべた。「ああ、それ分かります。僕たちが毎日食べるパンだって、農家の人、運送業者、パン屋さん、いろんな人たちが関わってる。でも、誰もその背後にいる人の名前なんて知らない。みんな“無名”のまま。」


「そうだな。」

ダイラは窓の外を見つめながら言葉を続けた。

「昔、特に名前も記録も残らずに命を落とした兵士たちの話を聞いたことがある。戦争で英雄扱いされるのはほんの一握りで、その背後には無名の犠牲者が何千、何万人といるんだ。でも、その人たちがいなければ、いまの社会は成り立たなかった。」


栗瑛人はコーヒーを置き、少し考え込んだあと言った。

「僕、ある少数民族の話を聞いたことがあります。その人たちは、村の中でどんなに大きな功績を上げても名前を名乗らない習慣があるらしいんです。それがその村のルールで、“みんなが同じく無名であることで平等だ”って考え方なんです。」


「なるほど。それは面白い考え方だな。」

ダイラは興味深そうに頷いた。

「名前がないことで、個人じゃなくて集団や成果そのものを重視するってことか。でも、名前を持つ文化とは正反対だな。」


「でも、僕たちがここにいるのも、そういう無名の人たちのおかげだと思うんですよね。」

栗瑛人は少し熱を帯びた声で続けた。

「たとえば、家を建てる人たち、道路を直す人たち、誰かが作った椅子に座り、誰かが敷いた線路の上を電車で走る。毎日、無名の人たちが作ったものを使って生きてるのに、感謝どころか名前すら知らないんです。」


ダイラが深く息を吸い込んだあと、小さく笑った。

「栗、もしかすると無名であることこそが本当の“自由”なのかもしれない。名前が知られると、その人には期待や重圧がついてくる。でも無名なら、ただ自分の役割を果たして去るだけだ。それも一つの生き方だと思う。」


二人はしばらく言葉を交わさず、スタジオに響く時計の音を聞いていた。


「それにしても、無名ってすごいですよね。」

栗瑛人が最後にそうつぶやいた。

「無名なのに、全てを支えている存在。まるで宇宙のダークマターみたいだ。」


「そうだな。」

ダイラは静かに筆を取り、新しいキャンバスに向かった。

「それじゃあ、無名の人々に感謝する絵でも描いてみるか。誰も気づかないだろうけど、それがまたいい。」


その日、スタジオには無名の星の軌跡のような淡い光が満ちているようだった。それは、語り継がれることのない無数の存在が確かに輝いている証だった。

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