第389話 ハリスのシンロウ

ダイラ:「なあ、クワヤマダくん、アメリカの大統領選で“ゴミ発言”が話題になってるの知ってる?」


クワヤマダくん:「“ゴミ発言”?まさか、誰かが本気で人をゴミ扱いしたとか?」


ダイラ:「そうなんだよ。ある候補が一部の人たちを“社会の負担”だとか“役に立たない”とか言ったもんだから、批判が噴出してさ。大分、心労しているみたいだよ。」


クワヤマダくん:「それってひどいな。“ゴミ”って、そんな人を切り捨てるための言葉じゃないだろ?」


ダイラ:「だよな。日本の農家では、昔から“ゴミ”って落ち葉や用水路に溜まったものを指してたんだ。そこには悪意なんて全然ない。ただ、自然の中で生まれたものの残りがそこにある、というだけの話だった。」


クワヤマダくん:「“ゴミ”がただの物の流れの一部、自然の循環の一つだったんだな。でも今は“不要なもの”って、簡単に切り捨てる言葉にされてる。」


ダイラ:「そう。資本主義社会が発展するにつれて、何かを効率や利益で価値を決めて、役に立たないと見なしたものは全部“ゴミ”として捨てられるようになった。でもさ、それって結局、人間のおごりじゃないか?」


クワヤマダくん:「確かに。“ゴミ”を捨てれば消えてなくなると信じてるのも、人間の都合でしかないもんな。だけど、実際には何も消えちゃいない。」


ダイラ:「そうなんだよ。何かを“ゴミ”と決めつけて切り捨てた瞬間、それに対する責任感が薄れてしまうんだ。自然の循環を無視して、自分たちに都合のいいものだけを残そうとするから、地球全体が疲弊してる。」


クワヤマダくん:「なんか、アーティスト大竹さんのこと思い出すよ。彼はどんなものでも簡単に“ゴミ”と決めつけなかった。捨てられたものにも、まだ生きられる場所を見つけて、また次の使い道を探してた。」


ダイラ:「そうだな。大竹さんみたいに、心労しながらも物の価値を簡単に切り捨てないって大事だよね。でも今の社会は、物だけじゃなくて、人に対しても同じことをしてる気がする。」


クワヤマダくん:「つまり、資本主義の中で役に立たないと見なされた人や物は、“ゴミ”と呼ばれてしまうってことか。それじゃあ、何のために生きてるのかさえ見失いかねないな。」


ダイラ:「本当だよ。そもそも“ゴミ”って言葉をこういう風に使うこと自体が、自然からの感覚を失った結果かもしれない。人間は自分たちだけが特別だって考えて、自然の一部としての自分を忘れてしまってるんだ。」


クワヤマダくん:「だからこそ、大竹さんみたいに心労しながらも捨てられたものにも命を感じられる人の存在が貴重なんだよな。ああいう人が、物や人を“ゴミ”じゃなくて“循環の一部”として捉え直す視点を教えてくれる。」


ダイラ:「そうだね。僕らも、大竹さんを見習って、“ゴミ”っていう言葉の使い方そのものを見直さなきゃならないかもな。何かを切り捨てる前に、それが本当に不要なのか、循環の中での役割を考えるべきなんだ。」


クワヤマダくん:「俺たちの見方が変われば、きっと“ゴミ”も“循環”に戻るかもしれない。人間のおごりに気づきながら、自分たちが自然の一部だってこと、忘れずにいこうぜ。」


二人は、「ゴミ」という言葉の本来の意味を見つめ直し、物や人を単に役に立つかどうかで判断せず、自然と調和する存在として考えることの大切さを胸に刻むのだった。

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