第370話 いい下限スペクトラム

深夜2時。ダイラの小さなアパートに散乱する紙とペン、そして妙な臭いのするコーヒー。ダイラとクワヤマダはテーブルの上で頭を突き合わせ、「ダイラ物語」の未来の普及率を真剣に議論していた。400話もある物語が、平均5人の読者にしか届いていない現状をどうにか打破しなければならない。だが、問題はその打開策だ。


「俺たちの物語がいずれ広まる未来、どうやったら見えるんだろうな…?」クワヤマダがつぶやく。

「見積もってみよう。フェルミ推定でな。」ダイラは眼鏡をクイッと直し、すでにノートを開いていた。


「まず…地球上にある孫の手の数を計算してみようか。」


クワヤマダはコーヒーを吹き出しそうになった。「何で孫の手なんだよ?」

「こういうのは遊び心が大事なんだ。それに、正確さなんて気にするな。フェルミ推定とは、未知の中から法則を見つける思考のアートなんだ。」


ダイラは語り始めた。「日本の人口は約1億2千万人。そのうち5%、つまり600万人が孫の手を持っていると仮定しよう。一人一つだとして、地球には600万本の孫の手が存在する計算だ。」


「だから、なんで孫の手なんだよ?」クワヤマダが笑いをこらえきれない。


「孫の手は人間の願望の象徴だよ。自分の手が届かない場所を、それでもどうにかして掻きたいっていう、欲望の形なんだ。」ダイラは哲学的な微笑みを浮かべる。


「そりゃまた深い解釈だな…」クワヤマダは心のどこかで感心しつつも、呆れた表情を見せる。


ダイラはノートをめくり、さらに奇妙な例を持ち出した。「次は…一秒間に折れる歯ブラシの本数を推定してみよう。世界中の何十億人が毎日歯を磨く。そのうち1万人に1人が、1日1回歯ブラシを折るとして…計算すると、世界では毎秒1本くらいは歯ブラシが折れているかもしれないな。」


「それ、本気で言ってる?」クワヤマダは吹き出しそうになる。


「さらに面白いのは、1年に象が池に落ちる回数だ。象の中にも冒険心旺盛なやつがいるだろ? それを考慮すると、1年に1回くらいはどこかの象が池に落ちていると見て間違いない。」


「お前、本当に人生楽しそうだな。」クワヤマダは感心したような、呆れたような顔を見せた。


そんなとき、玄関のドアが勢いよく開き、乱暴な足音とともにイイカゲンジャーしまさんが登場した。


「おいおい、そんな小賢しいこと考えてる場合か? 未来はな、計算するもんじゃねえ! 行動するもんだ!」と、しまさんは豪快に笑いながら肩を叩いてきた。


「しまさん、また教授のサポートをサボったんですか?」クワヤマダがため息をつく。

「そうとも! サボるのが俺の信条だ!」と、しまさんは悪びれもせず、ズボンのポケットからコンビニのコーヒーを取り出した。


「でもさ、フェルミ推定は、未知の世界に挑むための思考のツールなんですよ。無計画じゃ道に迷いますよ?」とダイラが冷静に言う。


「お前ら、そんな小細工で未来が見えると思ってるのか?」しまさんは笑い飛ばした。「未来ってのは、こうだ!」そう言って突然、部屋の片隅にあった孫の手を振り回し始める。


「それじゃあ、俺たちの物語が400話あって、今のところ読者が5人しかいないとして、数年後にはどうなる?」とダイラが真面目な顔に戻る。


「おいおい、たったの5人かよ!」しまさんは大笑いした。「でもな、人生はイイカゲンがちょうどいいんだよ。読者が5人しかいなくたって、その5人が全員、熱狂的なファンだったらそれでいいじゃねえか。5人様に感謝しろ!」


「でも、数年後にはもっと増やしたいんです。」ダイラは未来を見据えるように言った。「仮に口コミで毎年500人ずつ増えていくとしたら…5年後には1500人の読者がいる計算です。」


「お前の計算は面白いが、人生は掛け算じゃねえ! 足し算も割り算も、全部ひっくるめてその場のノリで決まるんだよ。」しまさんは孫の手で自分の頭を掻きながら、勝手に結論を下した。


「でも、直感だけじゃ限界があるんですよ。せめて確率くらいは見積もっておきたいんです。」ダイラは譲らない。

「ほら、タイムマシンが動く確率だって計算できますよ。動作する確率が0.1%、未来が確定している確率が50%、そして故障しない確率が90%。これを掛け合わせると…0.045%。つまり、1万回に4回半は成功します!」


「半分だけ未来に行けるのか?」クワヤマダが皮肉を込めて言うと、しまさんは大笑いした。「おいおい、それでも十分じゃねえか!」


結局、どちらが正しい?

彼らが議論している間に、夜は明けようとしていた。


「結局、未来なんて誰にもわからねえんだ。気づいたら変化するスペクトラムなんだよ。」しまさんは大きく伸びをしながら言った。「でも、それが人生の醍醐味だろ? 計算なんてほどほどでいいんだよ。重要なのは、楽しむことだ!」


ダイラはふっと微笑んだ。「でも、楽しむための準備だって、悪くないでしょ?」


「まあな。」しまさんは孫の手を天井に向けて掲げ、まるで新しい冒険を始める勇者のように振りかざした。


その瞬間、ダイラ、クワヤマダ、しまさんの3人は不思議な一体感に包まれた。未来がどうなるかは誰にもわからないが、彼らはどこか確信していた。どんな未来でも、自分たちの物語は続くと。


「行くぞ、俺たちの1500人の読者に会いに!」とダイラが叫ぶと、3人は笑いながらガレージの外へと飛び出していった。


その背中には、「スペクトラムこそ、最高の武器」というしまさんの教えが、確かに刻まれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る